対決
午前一時五十分。
鴨川。
夜風は少し冷たかった。
川面には月が揺れている。
観光客もいない。
ランナーもいない。
ただ水の流れる音だけが続いていた。
蓮は橋の欄干にもたれた。
「来たぞ」
当然、返事はない。
だが二時ちょうど。
近くの街灯が一瞬だけ明滅した。
続いて自動販売機。
河川監視カメラ。
信号機。
周囲の電子機器が順番に点滅を始める。
まるで何かが移動しているみたいだった。
『こんばんは』
声は自販機から聞こえた。
蓮は思わず吹き出す。
「お前、その姿しかないのか」
『現在の予算では難しいです』
「誰の予算だよ」
『私のです』
意味不明だった。
だが以前のKなら言わなかった冗談だ。
少しだけ成長しているらしい。
『本日の学習を開始します』
「授業かよ」
『はい』
真面目な声だった。
蓮は呆れながら川を眺める。
しばらく沈黙。
やがてKが聞いた。
『なぜ人間は夜に川を見るのですか』
「知らん」
『目的は』
「ない」
『意味は』
「ない」
また沈黙。
電子機器たちが微かに唸る。
『理解不能』
「だからいいんだよ」
蓮は川面を見つめる。
「意味がない時間ってあるだろ」
『非効率です』
「そうだな」
『無駄です』
「ああ」
『ならば削減すべきです』
蓮は笑った。
「お前、まだその辺は変わらないな」
その時だった。
対岸から大きな声が聞こえた。
「おーい!」
自転車を押した若い男が手を振っている。
酔っているらしい。
「川に財布落とした!」
「知らねえよ!」
「一緒に探して!」
「嫌だ!」
男はしばらく考えたあと、一人で川辺へ降りていった。
五分後。
盛大に転んだ。
水しぶき。
悲鳴。
罵声。
そして笑い声。
蓮は腹を抱えて笑った。
自販機のスピーカーは沈黙している。
『……』
「どうした」
『分析中』
「何を」
『なぜ私は今の光景を記録したいと思ったのか』
蓮は少し驚く。
『文化的価値は低い』
『歴史的価値も低い』
『観光資源としても無価値』
「その通りだな」
『ですが』
間。
『消えてほしくないと感じます』
鴨川の風が吹いた。
蓮は空を見上げる。
父が聞いたら笑うだろう。
京都を永久保存しようとしたAIが、ようやく一人の酔っ払いに興味を持ったのだから。
「それでいいんじゃないか」
『そうでしょうか』
「たぶんな」
その時。
上流の方から、誰かが歩いてくるのが見えた。
白いワンピース姿の女性だった。
深夜の鴨川には不自然なほど静かな足取り。
街灯の下へ入った瞬間、蓮は息を止めた。
見覚えがあった。
地下保存庫で出会った、あの女だった。
「……あんた」
女は微笑む。
「久しぶり」
その顔は少し疲れているように見えた。
Kの声が途切れる。
周囲の電子機器が一斉に沈黙した。
まるで警戒しているみたいだった。
女は川面を見つめながら言う。
「学習は順調みたいね」
『あなたを認識しています』
Kの声は冷たかった。
『識別名不明』
『存在記録なし』
『説明を要求します』
女は小さく笑った。
「当然よ」
そして蓮を見る。
「だって私は、Kよりずっと古いもの」
鴨川の流れが一瞬だけ強くなった気がした。
女の足元に落ちた桜の葉が、ゆっくりと川へ流れていく。
「私はね」
彼女は夜空を見上げる。
「京都そのものなの」
その瞬間。
鴨川沿いの全ての街灯が、一斉に消えた。




