表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/17

第2話 鎌倉の海

 小林葵が最初に感じたのは、光だった。


 教室の蛍光灯とは違う。もっと白く、もっと遠慮がなく、まぶたの裏まで焼くような夏の光だった。次に、音が来た。ざぶん、と崩れる波の音。人の笑い声。砂を踏む足音。どこかで子供が泣いている声。


 葵はゆっくり目を開けた。


 目の前に海があった。


 青いというより、白く光っていた。波頭が陽を受けてきらきらしている。潮の匂いが鼻の奥へ入り、風が制服の襟を強く揺らした。


 足元には砂があった。


 教室の床ではなかった。机も、黒板も、教師の声もない。葵は自分の手を見下ろした。そこには、さっきまで握っていたはずの教科書がなかった。ただ、学生鞄の持ち手だけを強く握っている。


「……ここ」


 声に出した途端、喉が乾いていることに気づいた。


 海岸には人が多かった。男も女も、子供もいた。けれど、その姿は葵の知っている海水浴場とは違っていた。着物の裾をたくし上げて歩く人。日傘を差した女の人。古びた茶屋のような建物の前で、濡れた布を絞っている男。遠くには、黒い頭が波間にいくつも浮かんでいる。


 葵は息を呑んだ。


 鎌倉。


 そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 さっきまで読んでいた文字が、頭の中でほどける。


 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。


 教科書の中の一文が、波の音に混じって聞こえた気がした。


 これは夢だ、と葵は思おうとした。けれど砂は靴の中へ入り込み、潮風は頬を刺し、太陽は容赦なく首筋を熱くした。夢なら、もっと曖昧でいいはずだった。


 周囲の視線が、少しずつ葵に集まっていた。


 無理もなかった。葵は紺のセーラー服を着ていた。白い襟の線も、短い靴下も、革の学生鞄も、この海岸ではひどく浮いていた。何人かの男が、遠慮のない目で葵を見ている。女の人たちは、不思議そうに眉を寄せて通り過ぎた。


 葵は鞄を胸に抱えた。


 帰らなければ。


 そう思ったのに、帰る場所が分からなかった。教室へ戻る道も、家へ帰る電車も、この海岸のどこにもない。携帯電話を探そうとして、鞄の中に手を入れかけた。けれど、ここでそれを出してはいけない気がした。


「君」


 後ろから声をかけられた。


 葵は肩を揺らして振り返った。


 そこに立っていたのは、若い男だった。年は二十歳前後だろうか。学生らしい着物姿で、葵を見て戸惑っている。強く疑っているというより、困っている人を見つけた時の顔だった。


「道に迷ったのですか」


 その問いに、葵はすぐ答えられなかった。


 道に迷った。


 間違ってはいない。けれど、それだけでは足りなすぎる。


「……はい」


 ようやくそう答えると、若い男は少し安心したようにした。


「どちらの宿です。長谷の方ですか。それとも、もっと向こうですか」


「宿は」


 葵は言葉に詰まった。


 宿なんて知らない。親類もいない。ここに来た理由も説明できない。


 若い男は、葵の服装を見て、また困ったように目を伏せた。


「失礼ですが、変わったお召し物ですね。外国の方の学校のものですか」


「学校の……制服です」


「制服」


 彼はその言葉を繰り返した。聞き慣れない音を確かめるようだった。


 葵は相手の顔を見た。


 原作の「私」は、若い書生だった。夏休みに友人に誘われて鎌倉へ来て、すぐに一人取り残される。海に入り、掛茶屋へ通い、そこで先生を見つける。


 この人だろうか。


 そう思っただけで、葵の胸が速くなった。


「あの」


 葵は尋ねた。


「あなたは、お一人ですか」


 若い男は少し驚いた顔をした。


「ええ。友人と来ていたのですが、急に国へ帰ることになりまして」


 葵の指が、鞄の持ち手を強く握った。


 当たっている。


「お母様が、ご病気で」


 思わず口から出た。


 若い男の顔色が変わった。


「なぜ、それを」


 葵ははっとした。


 言ってはいけなかった。


「すみません。そういうことが、あるのかと思って」


 苦しい言い訳だった。


 若い男はしばらく葵を見ていた。けれど深く問い詰めることはしなかった。彼自身も、母の病気という電報をそのまま信じていないのかもしれない。


「実は、その友人は国元から結婚を勧められていまして」


 彼は少し言いにくそうに続けた。


「まだ早いと本人は言うのです。相手も気に入らないらしい。それで夏休みに帰るべきところを、わざと東京の近くへ出て来ていたのです。母が病気だという電報も、あるいはそのためかもしれないと、彼は疑っていました」


「結婚を、避けるために」


「ええ。けれど、本当に病気なら帰らないわけにはいきませんから」


 葵は黙った。


 結婚。


 家。


 本人の気持ちとは別に、周囲が決めようとするもの。


 教科書の中で読んだ先生と静の結婚が、遠くで小さく鳴った気がした。葵はまだその出来事のそばにいない。けれど、この時代では恋や結婚が、葵の知っているものよりずっと家や親の手の中にあるのだと、急に思い知らされた。


「私は和田といいます」


 彼は静かに名乗った。


「和田」


「あなたは」


「小林葵です」


「小林さん」


 和田は、葵の名前を丁寧に呼んだ。その響きが、さっき教室で教師に呼ばれた時と同じなのに、まったく違って聞こえた。


 小林さん。


 この時代で、自分の名前が呼ばれた。


 それだけで、葵は少しだけ足元を得た気がした。


「小林さんは、本当にお一人なのですか」


「はい」


「ご家族は」


 葵は首を振った。


 和田の眉が曇った。


「それは、困りましたね」


「和田さんは、この近くに泊まっているんですか」


「ええ。海へ出るには便利な宿です。ただ、鎌倉でも少し外れの方でして」


 和田は浜の向こうを示した。


「玉突きだのアイスクリームだの、そういうハイカラなもののある所へ行くには、長い道を越えなければなりません。車に乗れば早いでしょうが、学生には少し惜しい」


 葵は、和田の指した方を見た。


 海に近い場所なのに、賑やかな中心からは離れている。古びた家並みと、潮に焼けた道と、夏の間だけ増えた避暑客のざわめき。現代の観光地とは違う、不便で、けれど海だけは近い土地だった。


 和田の困った顔があまりにまっすぐだったので、葵は泣きそうになった。ここが物語の中だとしても、この人は原作の役割としてではなく、目の前で本当に困ってくれている。


 葵はそれを忘れてはいけないと思った。


 結末を知っていることと、人を知っていることは違う。


 ここは、先生と和田が出会う前の鎌倉なのだ。


 先生も、Kも、奥さんも、葵の前にはまだ姿を現していない。


 なのに葵は、もう全員を知ったつもりで震えている。


「少し、こちらへ」


 和田が言った。


「人目があります。茶屋の陰なら、いくらか落ち着けるでしょう」


 葵は頷いた。


 二人は砂の上を歩いた。葵の靴は砂に沈み、歩きにくかった。和田はそれに気づいて歩調を緩める。古い藁葺きの建物の前では、海から上がった男たちが身体を拭いていた。茶を飲む人、帽子を預ける人、濡れた海水着を洗わせる人。葵の知っている夏とは違うのに、人が暑さの中で少し浮かれている感じだけは同じだった。


 掛茶屋は、ただ茶を飲むだけの場所ではないらしかった。


 海へ入る人たちは、ここで着物を脱ぎ、畳んだものを預け、濡れた布を洗わせていた。海から上がった人は、井戸の水で塩気を落とし、身体を拭いてからまた着物を身につける。帽子や傘を預ける声、茶を頼む声、濡れた足で床几の下の砂を払う音が、狭い場所に重なっていた。


 葵は鞄を胸に寄せた。


 ここでは、着替えることも、休むことも、荷物を置くことも、人の目の中にあった。ひとりで立っているだけで目立つ葵には、そのことが少し怖かった。


 掛茶屋の陰に入ると、陽射しが少し和らいだ。


 和田は茶屋の女に水を頼んでくれた。葵は湯呑みを両手で持ち、少しずつ飲んだ。ぬるい水だった。それでも、喉の奥へ落ちていく感覚がひどくありがたかった。


「小林さん」


 和田は遠慮がちに言った。


「あなたは、どこから来たのです」


 葵は湯呑みを見つめた。


 東京から、と言えばよいのだろうか。未来から、とは言えない。教科書から来ましたなどと言えば、気が触れていると思われる。


「遠いところです」


 そう答えるしかなかった。


 和田は黙った。


 その沈黙は、疑いよりも思案に近かった。彼は何かを聞きたいのに、聞いてはいけないと思っているようだった。


 葵は、彼の横顔をそっと見た。


 この人は、これから先生に惹かれていく。


 先生の秘密を知りたいと願い、最後に遺書を受け取る。


 その時、彼はどんな顔をするのだろう。


 葵はまた、未来を見てしまっている自分に気づいた。


「どうかしましたか」


 和田が尋ねた。


「いいえ」


 葵は首を振った。


「ただ、あなたも一人なんだと思って」


 和田は少し笑った。


「一人といっても、私は好きで残っているようなものです。学校が始まるまで、まだ日がありますから」


「寂しくありませんか」


「どうでしょう」


 和田は海の方を見た。


「人が多いので、寂しいという感じはあまりしません。けれど、知った人が一人もいない賑やかさというのは、妙なものですね」


 葵はその言葉を聞いて、海岸へ目を向けた。


 砂の上では、大勢の人が動いていた。笑い声もある。眩しい色もある。波間にはいくつもの頭が浮かんでいる。けれど、その中に葵を知っている人は一人もいない。


 いや。


 一人いるかもしれない。


 葵は、急に息が苦しくなった。


 先生。


 中年の先生は、葵を知っているような目をしていた。だが、今この時点の先生はどうなのだろう。葵はまだ過去の先生に会っていない。時間の順番がどうなっているのか分からない。


 もしここにいる先生が、もう葵を知っていたら。


 もし知らなかったら。


 どちらも怖かった。


「小林さん」


 和田の声がした。


「顔色が悪い」


「大丈夫です」


 そう言った時だった。


 海岸のざわめきの中で、葵の視線が一か所に止まった。


 掛茶屋の外、少し離れたところに、一人の男が立っていた。


 年は、和田よりずっと上に見えた。黒っぽい着物を着て、周囲の浮き立った空気から少しだけ離れている。隣には背の高い西洋人らしい男がいた。二人は何か話しているようだったが、男の表情は穏やかなのに、どこか遠かった。


 葵は湯呑みを持つ手を止めた。


 あの人だ。


 名前を聞いたわけではない。


 顔を知っていたわけでもない。


 それでも分かった。


 教科書の中で「先生」と呼ばれていた人。


 遺書を書いた人。


 Kを裏切り、奥さんに黙り続け、自分を死へ追いやった人。


 そして、まだ何も語っていない人。


「小林さん?」


 和田が葵の視線を追った。


「あの人を、ご存じですか」


 葵は答えられなかった。


 知っている。


 知らない。


 どちらも本当だった。


 男が、ふとこちらを見た。


 人の多い海岸で、偶然視線が合っただけかもしれない。けれど葵には、その一瞬だけ波の音が遠のいたように感じられた。


 先生の目は、葵を見ていた。


 驚いたようにも、懐かしんでいるようにも見えなかった。ただ、何かを確かめるような静けさがあった。


 葵の胸が痛んだ。


 ここは、先生が和田と出会う鎌倉なのだ。


 ならば、原作はまだ始まったばかりのはずだった。


 Kはすでに先生の過去にいる。


 奥さんは東京の家にいる。


 先生はまだ遺書を書いていない。


 これから和田が先生に近づき、墓を知り、手紙を受け取る。そういう順番で進むはずだった。


 それなのに、葵にはその人の周りだけ、もう取り返しのつかない時間に沈んでいるように見えた。


 和田が小さく言った。


「不思議な人ですね」


 葵は海風の中で、ゆっくり頷いた。


 この夏、和田は先生を見つける。


 そして葵もまた、先生を見つけてしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ