第2話 鎌倉の海
小林葵が最初に感じたのは、光だった。
教室の蛍光灯とは違う。もっと白く、もっと遠慮がなく、まぶたの裏まで焼くような夏の光だった。次に、音が来た。ざぶん、と崩れる波の音。人の笑い声。砂を踏む足音。どこかで子供が泣いている声。
葵はゆっくり目を開けた。
目の前に海があった。
青いというより、白く光っていた。波頭が陽を受けてきらきらしている。潮の匂いが鼻の奥へ入り、風が制服の襟を強く揺らした。
足元には砂があった。
教室の床ではなかった。机も、黒板も、教師の声もない。葵は自分の手を見下ろした。そこには、さっきまで握っていたはずの教科書がなかった。ただ、学生鞄の持ち手だけを強く握っている。
「……ここ」
声に出した途端、喉が乾いていることに気づいた。
海岸には人が多かった。男も女も、子供もいた。けれど、その姿は葵の知っている海水浴場とは違っていた。着物の裾をたくし上げて歩く人。日傘を差した女の人。古びた茶屋のような建物の前で、濡れた布を絞っている男。遠くには、黒い頭が波間にいくつも浮かんでいる。
葵は息を呑んだ。
鎌倉。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
さっきまで読んでいた文字が、頭の中でほどける。
私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。
教科書の中の一文が、波の音に混じって聞こえた気がした。
これは夢だ、と葵は思おうとした。けれど砂は靴の中へ入り込み、潮風は頬を刺し、太陽は容赦なく首筋を熱くした。夢なら、もっと曖昧でいいはずだった。
周囲の視線が、少しずつ葵に集まっていた。
無理もなかった。葵は紺のセーラー服を着ていた。白い襟の線も、短い靴下も、革の学生鞄も、この海岸ではひどく浮いていた。何人かの男が、遠慮のない目で葵を見ている。女の人たちは、不思議そうに眉を寄せて通り過ぎた。
葵は鞄を胸に抱えた。
帰らなければ。
そう思ったのに、帰る場所が分からなかった。教室へ戻る道も、家へ帰る電車も、この海岸のどこにもない。携帯電話を探そうとして、鞄の中に手を入れかけた。けれど、ここでそれを出してはいけない気がした。
「君」
後ろから声をかけられた。
葵は肩を揺らして振り返った。
そこに立っていたのは、若い男だった。年は二十歳前後だろうか。学生らしい着物姿で、葵を見て戸惑っている。強く疑っているというより、困っている人を見つけた時の顔だった。
「道に迷ったのですか」
その問いに、葵はすぐ答えられなかった。
道に迷った。
間違ってはいない。けれど、それだけでは足りなすぎる。
「……はい」
ようやくそう答えると、若い男は少し安心したようにした。
「どちらの宿です。長谷の方ですか。それとも、もっと向こうですか」
「宿は」
葵は言葉に詰まった。
宿なんて知らない。親類もいない。ここに来た理由も説明できない。
若い男は、葵の服装を見て、また困ったように目を伏せた。
「失礼ですが、変わったお召し物ですね。外国の方の学校のものですか」
「学校の……制服です」
「制服」
彼はその言葉を繰り返した。聞き慣れない音を確かめるようだった。
葵は相手の顔を見た。
原作の「私」は、若い書生だった。夏休みに友人に誘われて鎌倉へ来て、すぐに一人取り残される。海に入り、掛茶屋へ通い、そこで先生を見つける。
この人だろうか。
そう思っただけで、葵の胸が速くなった。
「あの」
葵は尋ねた。
「あなたは、お一人ですか」
若い男は少し驚いた顔をした。
「ええ。友人と来ていたのですが、急に国へ帰ることになりまして」
葵の指が、鞄の持ち手を強く握った。
当たっている。
「お母様が、ご病気で」
思わず口から出た。
若い男の顔色が変わった。
「なぜ、それを」
葵ははっとした。
言ってはいけなかった。
「すみません。そういうことが、あるのかと思って」
苦しい言い訳だった。
若い男はしばらく葵を見ていた。けれど深く問い詰めることはしなかった。彼自身も、母の病気という電報をそのまま信じていないのかもしれない。
「実は、その友人は国元から結婚を勧められていまして」
彼は少し言いにくそうに続けた。
「まだ早いと本人は言うのです。相手も気に入らないらしい。それで夏休みに帰るべきところを、わざと東京の近くへ出て来ていたのです。母が病気だという電報も、あるいはそのためかもしれないと、彼は疑っていました」
「結婚を、避けるために」
「ええ。けれど、本当に病気なら帰らないわけにはいきませんから」
葵は黙った。
結婚。
家。
本人の気持ちとは別に、周囲が決めようとするもの。
教科書の中で読んだ先生と静の結婚が、遠くで小さく鳴った気がした。葵はまだその出来事のそばにいない。けれど、この時代では恋や結婚が、葵の知っているものよりずっと家や親の手の中にあるのだと、急に思い知らされた。
「私は和田といいます」
彼は静かに名乗った。
「和田」
「あなたは」
「小林葵です」
「小林さん」
和田は、葵の名前を丁寧に呼んだ。その響きが、さっき教室で教師に呼ばれた時と同じなのに、まったく違って聞こえた。
小林さん。
この時代で、自分の名前が呼ばれた。
それだけで、葵は少しだけ足元を得た気がした。
「小林さんは、本当にお一人なのですか」
「はい」
「ご家族は」
葵は首を振った。
和田の眉が曇った。
「それは、困りましたね」
「和田さんは、この近くに泊まっているんですか」
「ええ。海へ出るには便利な宿です。ただ、鎌倉でも少し外れの方でして」
和田は浜の向こうを示した。
「玉突きだのアイスクリームだの、そういうハイカラなもののある所へ行くには、長い道を越えなければなりません。車に乗れば早いでしょうが、学生には少し惜しい」
葵は、和田の指した方を見た。
海に近い場所なのに、賑やかな中心からは離れている。古びた家並みと、潮に焼けた道と、夏の間だけ増えた避暑客のざわめき。現代の観光地とは違う、不便で、けれど海だけは近い土地だった。
和田の困った顔があまりにまっすぐだったので、葵は泣きそうになった。ここが物語の中だとしても、この人は原作の役割としてではなく、目の前で本当に困ってくれている。
葵はそれを忘れてはいけないと思った。
結末を知っていることと、人を知っていることは違う。
ここは、先生と和田が出会う前の鎌倉なのだ。
先生も、Kも、奥さんも、葵の前にはまだ姿を現していない。
なのに葵は、もう全員を知ったつもりで震えている。
「少し、こちらへ」
和田が言った。
「人目があります。茶屋の陰なら、いくらか落ち着けるでしょう」
葵は頷いた。
二人は砂の上を歩いた。葵の靴は砂に沈み、歩きにくかった。和田はそれに気づいて歩調を緩める。古い藁葺きの建物の前では、海から上がった男たちが身体を拭いていた。茶を飲む人、帽子を預ける人、濡れた海水着を洗わせる人。葵の知っている夏とは違うのに、人が暑さの中で少し浮かれている感じだけは同じだった。
掛茶屋は、ただ茶を飲むだけの場所ではないらしかった。
海へ入る人たちは、ここで着物を脱ぎ、畳んだものを預け、濡れた布を洗わせていた。海から上がった人は、井戸の水で塩気を落とし、身体を拭いてからまた着物を身につける。帽子や傘を預ける声、茶を頼む声、濡れた足で床几の下の砂を払う音が、狭い場所に重なっていた。
葵は鞄を胸に寄せた。
ここでは、着替えることも、休むことも、荷物を置くことも、人の目の中にあった。ひとりで立っているだけで目立つ葵には、そのことが少し怖かった。
掛茶屋の陰に入ると、陽射しが少し和らいだ。
和田は茶屋の女に水を頼んでくれた。葵は湯呑みを両手で持ち、少しずつ飲んだ。ぬるい水だった。それでも、喉の奥へ落ちていく感覚がひどくありがたかった。
「小林さん」
和田は遠慮がちに言った。
「あなたは、どこから来たのです」
葵は湯呑みを見つめた。
東京から、と言えばよいのだろうか。未来から、とは言えない。教科書から来ましたなどと言えば、気が触れていると思われる。
「遠いところです」
そう答えるしかなかった。
和田は黙った。
その沈黙は、疑いよりも思案に近かった。彼は何かを聞きたいのに、聞いてはいけないと思っているようだった。
葵は、彼の横顔をそっと見た。
この人は、これから先生に惹かれていく。
先生の秘密を知りたいと願い、最後に遺書を受け取る。
その時、彼はどんな顔をするのだろう。
葵はまた、未来を見てしまっている自分に気づいた。
「どうかしましたか」
和田が尋ねた。
「いいえ」
葵は首を振った。
「ただ、あなたも一人なんだと思って」
和田は少し笑った。
「一人といっても、私は好きで残っているようなものです。学校が始まるまで、まだ日がありますから」
「寂しくありませんか」
「どうでしょう」
和田は海の方を見た。
「人が多いので、寂しいという感じはあまりしません。けれど、知った人が一人もいない賑やかさというのは、妙なものですね」
葵はその言葉を聞いて、海岸へ目を向けた。
砂の上では、大勢の人が動いていた。笑い声もある。眩しい色もある。波間にはいくつもの頭が浮かんでいる。けれど、その中に葵を知っている人は一人もいない。
いや。
一人いるかもしれない。
葵は、急に息が苦しくなった。
先生。
中年の先生は、葵を知っているような目をしていた。だが、今この時点の先生はどうなのだろう。葵はまだ過去の先生に会っていない。時間の順番がどうなっているのか分からない。
もしここにいる先生が、もう葵を知っていたら。
もし知らなかったら。
どちらも怖かった。
「小林さん」
和田の声がした。
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
そう言った時だった。
海岸のざわめきの中で、葵の視線が一か所に止まった。
掛茶屋の外、少し離れたところに、一人の男が立っていた。
年は、和田よりずっと上に見えた。黒っぽい着物を着て、周囲の浮き立った空気から少しだけ離れている。隣には背の高い西洋人らしい男がいた。二人は何か話しているようだったが、男の表情は穏やかなのに、どこか遠かった。
葵は湯呑みを持つ手を止めた。
あの人だ。
名前を聞いたわけではない。
顔を知っていたわけでもない。
それでも分かった。
教科書の中で「先生」と呼ばれていた人。
遺書を書いた人。
Kを裏切り、奥さんに黙り続け、自分を死へ追いやった人。
そして、まだ何も語っていない人。
「小林さん?」
和田が葵の視線を追った。
「あの人を、ご存じですか」
葵は答えられなかった。
知っている。
知らない。
どちらも本当だった。
男が、ふとこちらを見た。
人の多い海岸で、偶然視線が合っただけかもしれない。けれど葵には、その一瞬だけ波の音が遠のいたように感じられた。
先生の目は、葵を見ていた。
驚いたようにも、懐かしんでいるようにも見えなかった。ただ、何かを確かめるような静けさがあった。
葵の胸が痛んだ。
ここは、先生が和田と出会う鎌倉なのだ。
ならば、原作はまだ始まったばかりのはずだった。
Kはすでに先生の過去にいる。
奥さんは東京の家にいる。
先生はまだ遺書を書いていない。
これから和田が先生に近づき、墓を知り、手紙を受け取る。そういう順番で進むはずだった。
それなのに、葵にはその人の周りだけ、もう取り返しのつかない時間に沈んでいるように見えた。
和田が小さく言った。
「不思議な人ですね」
葵は海風の中で、ゆっくり頷いた。
この夏、和田は先生を見つける。
そして葵もまた、先生を見つけてしまった。




