私と『がんばれ』
『がんばれ』の代わりの言葉が、見つからない。
心ではもっと応援しているし、この四文字に込められた『がんばれ』には責務が重たすぎる。
かと言って、代替の言葉は学んでこなかった。思いつきもしない。
がんばっている人に対して、「がんばって」と声をかけるのは些か失礼に思う。
言われた時もそうだ、これ以上なにを「がんばれ」ばいい。
その時その場で瞬間最大風速で出せる力を出し切っているところに、これ以上何を求めると言うのだろう。
昔の人もきっと、現代の我々よりもっと、悩んだ上で『がんばれ』に落ち着いたのだろう。
長すぎても良くないし、短すぎても素っ気ない。
だから、『がんばれ』なんだろう。
人を応援する、ということはとても難しい。
並大抵の言葉では物足りないし、長すぎても負担になってしまうだろう。
スポーツではチャント(スポーツ観戦でサポーターが選手を応援するために歌う短い応援歌やコール)がある(陸上選手や卓球選手など、当てはまらないものもあるが)。
フットボール、イングランド・プレミアリーグのリヴァプールFCなどが代表例だろう。
必ず、『You'll Never Walk Alone』(君は決して一人ではない)をシンガロングする。
選手の士気を高め、自陣での戦いを圧倒的に優位にする。アウェイの選手からしたら世界で最もやりづらいスタジアムの一つだろう。
だが、一般市民である私たちには、チャントは発生しない。
一人暮らしなら尚更だ。
応援してくれる人がいない。
スマホの画面で見る『がんばれ』の文字だけでは物足りない。
もっと盛大に送り出してほしい。
だからこそ、現代音楽では応援歌のような詩が好まれるのかもしれないが。
一人でいる分には、イヤホンをして自分に合う応援歌を探せば良いが、友人が入院したり、結婚して子どもができて、などの幸せや不運に対して、『がんばれ』は果たして適しているのだろうか。
闘病に、『がんばれ』は合わないだろう。
もうがんばっているのだから。
それ以上がんばらないで欲しい、早く回復を願いたい。
子育てに、『がんばれ』はどうだろう。
愛し合ってこの世に産声を上げた子どもに対して最大限の愛を持って接するんだぞ、『がんばれ』、というのは───当然か、はたまた不適切か。
だからこそこういった様々な場面で『がんばれ』がぼんやりしてしまうのが不思議だ。
もっと相応しい応援の仕方があるのだろう。
言葉に限界はない。
思いつく単語はたくさんあるが、ありすぎて言葉にならないことがある。
言葉を発するためのいくつものフィルターを通り越して、『がんばれ』になってしまうのだろう。
手術をした友人がいた。彼に『がんばれ』、とは言えなかった。
スポーツで応援する時には、簡単に、かつ素直に『がんばれ』と言えてしまう。
どちらも自分の人生を大きく賭けた出来事だったのに、どちらも『がんばって』いるのに、身近ではない人には、言葉を発するフィルターをあっさりと掻い潜ってしまう。
幾つもの想いを乗せた『がんばれ』は唯一無二であるが、簡単には発せない。
明日は箱根駅伝の復路戦がある。
テレビの前で『がんばれ』と呟いてしまうのだろうか。
『がんばれ』という複雑で難解な言葉を無責任に発していいのか、悩ましいところだが、素直な気持ちを持って応援したい。
だが、私に対しての『がんばれ』は荷が重たい。
これ以上のがんばり方を知らないからだ。
一日一日が最大瞬間風速を更新し続けている。
だから、寄り添うような言葉が欲しいのかもしれない。
近くにいるよ、と言われたらどれだけ心強いか。




