第10話
ここしばらくの日常は、あまり記憶にない。
「せんせ」
朝はいつも通り鍛錬して。
昼は授業を受けて。
それから――――……放課後は大図書館。
通い慣れつつある『黄金大樹の棚』に入って。
「今日のお薬、だよ」
リゼとキスをしている。
薬をもらう。そんな口実のもとで、彼女と唇を重ねている。
彼女の舌が運んでくる薬を飲みこむことで、その口実は消えるはずなのに。
「リゼ……授業を……」
「今日は実習にしよ?」
何の、とは問わなかった。
問わなくても理解は出来た……昨日も実習だったからだ。
「昨日と同じだ……ずっとこんなことをしているわけには……」
「せんせが嫌なら、やめてもいいよ」
耳元にかかる吐息。甘いささやきが脳を揺らす。
この部屋に、俺と彼女以外には誰もいない。二人だけの密室。内部の音も完全に遮断し、彼女がキスの中に漏らす甘い声が外に漏れることもない。
声を抑える必要性なんてない。だけど彼女は、声量を抑えることが、自らの声が持つ魔性の魅力が増すことを知っているかのように。
その蠱惑的な声に、両の足で立つことすらままならない。
「ねぇ、せんせ」
ささやく。
「私に、教えて?」
ささやく。
「キスの仕方を」
ささやく。
「キスの味を」
ささやく。
「――――……っ」
誰もいない。ここには、誰も。俺とリゼ以外。
食堂のような喧騒はない。傷を眺めてくる視線も、傷から目を逸らされるようなことも。傷物騎士と揶揄する声も。
「私は、せんせから教わりたいな」
リゼは目を逸らさない。
俺を『傷物騎士』ではなく『先生』と呼んで。
誰もが醜いと称する傷に、白くて冷たい指で触れてくれる――――。
「んっ」
俺はいつも。彼女を、拒むことが出来ない。
薬が口実だったことすらも頭の中から溶けて流れてどこかに消えて。
その柔らかな欲の味を貪り味わうばかりだ。
舌を絡ませるとリゼは嬉しそうにして、俺の欲望に身を委ねてくる。
口実のためにそれらしい、薬らしきものまで用意して。
密室空間までもを用意して。
ささやいて、ささやいて、煽っているのに。
リゼは、いつもされるがままだ。
俺を誘惑してくるその積極性は、唇を重ねると剥がれ落ちていく。
魔性の布を手ずからに引きはがして無垢を曝け出させるかのような、受け身な愛らしい彼女の顔が、仄暗い欲望を掻き立てる。
どれぐらいそうしていたのかは分からない。
肺が欲しがるままに空気を求めて、互いの口が離れるまで、ずっとそうしていたから。
「積極的なせんせも、好き」
「…………っ」
違う。
俺は、ただ流されているだけだ。
彼女が拵えた、蜜のように甘く蕩ける時間に。
「…………リゼ。君は、何が目的なんだ?」
「あはっ。言ったでしょ? 私は、恋が知りたいの」
「嘘だ……」
「どうして?」
「これは、恋を知りたい人がする行為じゃないと思う。君はそこまで……無垢じゃない」
「私を無垢じゃなくしたのは、せんせでしょ? 前に言ったよね。誰かにしたのは、せんせが初めてだって。唇同士のキスもそう……ついさっきまで私のこと、あーんなにも貪ってたのは、せんせだよ?」
「……っ。それは…………すまないと思ってる。未婚の令嬢に、こんな……」
「ふふっ。謝らないで? 私からおねだりしたんだから」
またリゼの吐息が耳にあたる。
彼女がその華奢な体を、全身の体重を、俺に預けてきた。
「せんせは、なーんにも悪くないんだよ。ただ、悪い女の子に唆されただけなんだから」
「君は……悪い、女の子なのか……?」
「そうだよ」
彼女の太陽のような色をした髪から漂う甘ったるい香りに、女性特有の豊かな膨らみに、頭がくらくらしてくる。
「私はね。せんせから、大切なものを奪った……わるーい魔女」
奪った……? 何を……分からない。
分からない。彼女のことが……リゼという女の子のことが、何も……。
「……でもね。まだ、奪うものがあるの」
「え……?」
「ひみつだよ。今はまだ、ね?」
くすっ、と笑ったリゼは、首筋に唇で触れてきた。
これまでとは違う場所への口づけに、肌が痺れたような熱を帯びる。
「今はまだ……楽しも?」
「うっ……」
「あはっ。かーわいー……♪ せんせ、だめだよ。そんな可愛い反応しちゃったら、止まれなくなっちゃう」
「リゼ……」
彼女は俺の制服のシャツに手をかけると、ぷちぷちとボタンを外して、頭を埋めてくる。唇が肌に触れ。舌が這う。
――――まずい。
そう思った。これ以上の線は、越えてはいけない……。
「ねぇ、せんせ。私はいずれ、せんせから大切なものを奪う……だからね、いいよ」
「いい……? 何が……」
「せんせも。私のこと、奪ってもいいよ」
これ以上、何を奪うというのか。
俺は既に彼女の唇を、誘われるがままに触れて、貪って……これ以上のものになると……。
「……っ。君は、まさか……」
俺の疑問に、彼女は言葉では答えなかった。
制服の上着をするりと脱ぎ捨て、その下にある白いシャツに手をかける。
ボタンを一つずつ外し、真っ白な肌が露わに――――
「――――っ。ダメだっ!」
ボタンを外そうとした彼女の手を咄嗟に掴む。
リゼの細い腕は、強く握れば簡単に砕けてしまいそうだった。
そんなガラス細工のような手を強引に掴んでしまったことに、罪悪感がわく。
「……せんせ?」
「リゼ。これは……ダメだ。この一線は、越えてはいけない」
「どうして? 何度も何度もキスしてるのに」
「分かってる。俺に咎める資格はない。だけど、これ以上は……未婚の令嬢を傷物にしてしまうわけにはいかない。君の将来にかかわることだ」
「責任がとれないから?」
「……そうだな。とりたくても、とれない。むしろ俺が一緒になったところで、君の将来の足を引っ張ってしまうだろう」
俺は顔に醜い傷を持つ傷物子爵であり、魔力も学園最弱。
公爵家の令嬢、それも宮廷魔術師とは、とてもじゃないが釣り合わない。
せめてモーリスのように、魔力があり爵位もあるような騎士でもなければ……。
(くそっ……なんで、俺は…………)
どろどろとした黒い感情が、腹の奥底で渦巻くのを感じた。
……ダメだ。それこそ、ダメだ。こんなことは考えてはいけない……。
「責任なんて、とらなくていいよ」
「……そうはいかない。もしも君と……その、そういうことをするのなら、俺はきちんと責任は取りたい。だが何の力もない俺では、君を不幸にしてしまう」
「せんせは、優しいね」
「……臆病なだけだよ」
「そうかもしれないね。でも、それでいいの」
「…………っ」
リゼが俺の肩に顔を埋め、直後に甘い痛みが走った。
見えないけれど……恐らく肩には、リゼが甘噛みをした痕跡が刻まれているはずだ。
「臆病な方が、都合がいいから」
「……臆病だと騎士は務まらないんだけどな」
「だから、いいの」
「…………?」
困惑する俺の何が面白いのか、リゼはただ目を細めて笑うだけだ。
「ねぇ、せんせ。『学内戦』には出るんだよね?」
「……ああ。そのつもりだ」
「じゃあ、前夜祭は?」
前夜祭……『学内戦』の前日に行われるパーティーだ。
パートナーを連れて参加するのが一般的なのだが、ヘンリエッタには参加を断られてばかりだったので、俺は参加したことがなかった。
「……特に出る予定はないな」
「一緒に出ようよ」
「一緒にって……君とか?」
「そ。いいでしょ? 夜会用の服も宝石も、こっちで用意するから。それを着て、一緒に参加してよ」
「それは…………構わないが」
前夜祭は貴族にとっては社交の場であり、婚約者のいない生徒にとっては、相手探しの場としても利用される。勿論、友人と純粋に楽しむ者もいると聞いているが……。
「俺でいいのか? 君なら、もっと他に――――」
「こんなことしてる相手、せんせだけだよ? せんせ以上に深い仲の男の子なんて、いないんだけどな」
「う…………」
……なんで。何で、ほっとしているんだ、俺は。
「……分かった。君と参加するよ」
「約束だよ? せんせ」
リゼはそう言って、俺の肩に残した噛み跡に唇で触れた。




