Solaris
あれは、たぶん山羊だったと思う。
いつからそこにいて、何を考えているのか。何のために出てきたのか。何をしているのか……それは、全くわからない。だけどある日突然、毎晩眠れないでいる僕の頭の奥に現れた。頭でモノを考えるときにイメージする、心みたいなところに、いつの間にか山羊がいる。
ただ漠然と、山羊だ。青っぽい半透明で巨大な山羊。
眠たそうな目玉とお馴染みの角とぼんやりとした顔の、山羊。
遠い、宇宙の彼方に。海のような空のような、青く澄んだ丸い惑星を見つけた。明け方前の夢に出てきたのか、夜明けが怖くて眠れなくなったせいなのか、胸の奥の暗闇にぽつんと浮かんでぼんやり光っている。
どこまでも広く終わりのない球体は、一面がこのとろりとした薄青色の粘膜で覆われていて、よく見ると少しだけ波打っている。
島や生き物の影はない。僕はこの惑星の上空をゆっくり飛び回りながら、波打つ表面に映る自分の顔を見つめていた。薄青色になった顔の、薄青色の瞳の奥に潜む。心のようなところで、深層心理だかなんだか知らないが、僕の行動や思考を無意識という名の意識下で勝手に操る黒子のような奴が息を潜めて嗤っていやがる。
水面の僕の顔に濃淡が出来て、薄青色の部分と、青黒く腫れ上がった部分とが野良猫のように混じり合って、僕は痛みと悔しさと憎しみと悲しみを噛みしめて、泣き出しそうな顔をしていた。さっきまで笑ってたのは子供の頃の僕だった。今は顔の半分が薄青色で笑ってて、青黒く腫れた顔で泣いている。どっちも僕で、どっちも子供だ。
冬の風の強い寒い日に、晴れて晴れて晴れまくったせいでちょっと青黒くなっているぐらいの空と、その遥か彼方まで伸びている紺碧の海との境目が溶けてしまうほど青い青いところから雲が飛んできて波が押し寄せてくるのを呆然と立ったまま見ていたら僕は死ねるだろうか。
無数に存在する選択肢が刻一刻と変化を繰り返す。一秒後の世界が同じだなんて誰にもわからない。今すぐ右を選んでも、一秒後に選んだ右とは全然違う未来が待っているじゃないか。割り切れないまま道だけが分かれて、選ばずに過ぎ去って忘れてゆくはずの選択肢だけがいつまでも青い海の星に浮かんでは僕の後ろを着いて来る。
楽しかった筈の休日、笑って過ごせたはずの古い小さな遊園地。
だけど小さく無力な僕は大きな影の機嫌を損ね、その場で散々に殴られ引きずりまわされ、舗装の傷んだ地面を這いつくばって、痣と擦り傷にまみれながら許しを乞うている。
周りの家族連れが遠巻きに見つめる中、係員の制止に一層アツくなった大きな影がさらに僕の背中に重く汚れた靴底を叩き込んでいる。泣き叫びながら僕は猛烈な眠気を感じて、だけどこの場で寝たら本当に殺されると思って、必死で泣いていた。
あの痣だらけの顔は、その時の顔だった。大きな影は係員が数人がかりで何処かへ連れて行ったが、僕はその場に残されて暫く泣いていた。見上げた空が漸くにじまなくなった頃、木立の下で目を覚ましてトボトボと歩いて駅に向かった。
長い長い上り坂を、重い足を引きずって歩く。疲労と痛みと憎しみと悲しみ。あんな風に笑って過ごせない自分を呪い、あんな風に笑って過ごせてる他の家族が信じられず、許せなかった。憎くて憎くて、いつか殺してやろうと思って、だけど今、後ろからまた追いかけて来るのが怖くて、思わず振り返った。
坂道のはるか下に古くて小さな遊園地。その向こうは海。湾内の静かな、紺碧の海。吹き抜ける風は濃密な潮の匂いが溶けていて、それが鼻の奥でツンと刺さった。
過去を食い尽くし未来を貪る怪物がいる。この世界のどこかに。
その怪物から逃れるために選択を繰り返して生きて行く。人生には無限の可能性が存在する一方で、もう片一方の選択されなかった未来もまた遥か無限の彼方に続いてゆく。雲の行く先、執着の浜辺、時の最果てまで。
過去を食い尽くして未来を貪る怪物。青い青い、空のような、海のような惑星からやってきた薄青色の巨大な怪物。
それが、たぶん山羊なんだと思う。
そいつは無表情で、鳴き声も出さず、ただ黙って世界を端からかじってゆく。
そうして食われてゆく、それが過去だ。
後ろを振り向いても暗闇しかない。
いつまでもすがりたい過去は暗闇に浮かぶ夢物語、美化された名作映画の不出来なリメイクでしかない。
瞳の奥の古い無人の映画館で人知れず上映されるその映画は記憶の連なりになってやがて忘れ去られてゆく。思い出すことも、どこかに永遠に残しておくことも叶わない。
全ては薄青色の山羊が食い尽くし、やがて記憶の存在すらも消してしまう。
さぞかし楽だろう。忘れたことさえ、忘れてしまえるものならば。
山羊はその美化を焼きつけ焼き増したフィルムを片っ端からかじってゆく。
ラジオだけが鳴っている暗い部屋でひとり。にじんだ血が指と指のあいだをすり抜ける。見上げた天井がゆっくりと時計回りに動き出し、スピーカーから流れ出る音楽が目の前の光景から浮かび上がり遠ざかってゆく。
世界が突然色褪せて、記憶から光が消えて、景色から音が消えて、何もかも失ったモノクロームの静かな夜にラジオだけが伝えていた。
Solarisの呼び声を。
引き裂けた皮膚から流れ出る真っ赤な血潮に、あとどれぐらいの化学物質と数式を溶け込ませたら僕は眠りにつけるだろう。蠢く筋肉と腱と軟骨を縫うように走る毛細血管がひとつひとつ膨れ上がっては縮み、脈打つごとに生命力を吐き出して垂れ流す。
確かに。
無様に。
割れた肉の隙間から流れ出した血液に交じる黄白色の脂。油膜の浮いた血液を循環させ続け、疲労と不純物とがとめどなく堆積してゆく大動脈の鍾乳洞。夜空を見上げれば星が見えるように肌を切り裂けば肉が見えるし、星も見えないほどの灯りとガスに汚された夜空のように脂と膿にうずもれて血肉に刃先が辿り着かない奴もいる。
月明かりのナイフが暗い雲を切り裂くことは出来ても、文房具のカッターナイフじゃ分厚い脂肪に覆われたこの腕を切り裂くことは難しい。
子供の俺が年だけ食って、疲れ果てて生きてる。忘却には救いがあるが、消却には後悔しかない。忘れて生きることは幸福だが、消さなきゃならない過去はどんなに埋めても沈めても、いずれ再び顔をもたげて自らを苛む。忘れたい過去、消したい傷。
悲喜こもごも、などという美辞麗句で脇腹をくすぐられて無理やり笑っているのは確かに僕だが、泣いてる僕は誰だろう?
冬の晴れた日。
笑うことを忘れ泣くことにも疲れた僕は人知れず切符を買った。
単線の小さな私鉄に乗って海の見える街へ。
長い長い河に架かった、か細くておもちゃのような鉄橋をガタゴト渡る。
青い水面に年代物の赤い二両編成がゆがんでうつる。
掴む人のない吊り革が左右に揺れる。
やがて窓の外は晴天の街並み。
県道を見知らぬ人々の自動車が行き交う。
車内に他の乗客は無い。
ひび割れたスピーカーとアナウンス。赤い二両編成が聞いたこともない小さな駅に滑り込む。ドアが開き冷たい空気が流れ込むものの、乗り込む客はやはり無く、エアレーションの音だけ残してガラガラとドアを閉め、再び青空に向かって伸びた高架をゆく。
やがて緑の多い里山に差し掛かって、そこから坂道の多い住宅街に入る。
跨線橋のたもとにある無人駅。がらんとして、ここにも乗客はいない。すぐにドアが閉まり、緑のにおいのする空気だけが車内で少し心地よい。
赤い電車はのどかな田園地帯に差し掛かった。刈り取られた茶色と黄色が多い田んぼ、土くれをむき出しにした畑、たまに線路沿いに建つ家や古い商店がぽつぽつと見える。
そんな何もかもが色褪せたような風景のなか、踏切を待つトラックの運転席に憂鬱を苛立ちでかみ殺したような顔の自分が居た。
何もかもうまくいかない、だけどなんの打開策もない。明日も明後日も、週末までこんな風にイライラし通しで過ごして、また来週も同じことの繰り返し。
毎週、毎日、違うのは憂鬱と苛立ちの原因と種類だけ
断ち切ることは出来なくても、逃げ出すことや投げ出すことくらいならきっと出来るというのに。行動に移す気力も余力も失い、その憂鬱が憂鬱を呼び、苛立ちが苛立ちを呼ぶ。自分で自分を縛り続けてまた繰り返す。
狭い座席の赤い電車に乗った僕が、憂鬱をボンベに充填して運ぶトラックの運転席で苛立ちをかみ殺す僕に向かって叫ぶ。窓を叩いて、声の限り。
僕をもっと快適な場所へ連れて行ってくれる。多分きっと。だから僕も、僕みたいに、早く乗るんだ、赤い列車に!
そして心のなかで耳を澄ませろ!
その音質の悪いステレオから聞こえてくる、太った男の深夜放送にヒントがある。
カギはそこに隠れている。
僕には聞こえるはずだ。
電波にまぎれた、Solarisの呼び声が……!
やがて赤い電車は海の見える終着駅に着く。
さびの浮いたトタン屋根に覆われたコンクリートの武骨なプラットフォームが潮風に吹かれて冷たく横たわるだけのさみしい駅。坂道を駆け上がって来た海風がヒョオと鳴り、息を吸い込むと潮の匂いで満たされてゆく。膝から肩へ。
降りる客は自分ひとり
乗り込む客はいない
電車は発車ベルだけジリリンと鳴らし、独りぼっちのでガタゴトと折り返していった。
ぽかん。
と音がしそうなほど晴れた昼下がりの青空。ホームから見渡せばみかん畑に囲まれた坂道の下に、古いままの小さな遊園地が残っていて、その向こうには青く静かな海が見える。くすんだ銀色の改札には古ぼけた張り紙で当駅無人化の由。
切符売り場もない。いつのものかわからない色褪せたポスターに火災予防の標語。
吹き抜ける冷たい潮風。
快晴の何処か。
遠く潮騒の音。
囀る小鳥。
血潮が、心が、脳の奥が、Solarisの呼び声で満たされてゆく。
幼い日々に刻まれた傷跡をひとつひとつほどいてゆくために辿る、過去に向かってのトランスファー。
さあ、その顔を見せてくれ。
Solarisの山羊よ、お前が噛みしめて飲み込んだ記憶の正体を見せてくれ。
それは痛み、それは苦しみ、そして憎しみ、或いは絶望。影すら浮かばないほど暗く、雲も浮かばぬほどの晴天のもと、長い道のりを辿るための短い休暇が終わりを告げる。
駅を出て遊園地を目指し歩き始めると、坂道をとぼとぼと登って来る少年がいた。全身、擦り傷だらけで泣いている。涙と鼻血と悔しさと痛みと恐怖、後悔……何もかもが綯い交ぜで、くしゃくしゃになった顔にはその幼さとは不釣り合いな青黒い痣が見える。僕に気付いた彼が立ち止まって顔をあげた。
Solaris……お前が導いてくれたのはここだったのか。
僕の心の中で、あの青く満ち満ちた惑星の水面で泣き続けていたのはお前だったのか。
年老いた僕は子供の僕の手を取って、古い小さな遊園地に向かって歩き出した。痛みに、悲しみに、憎しみに、自分の心に憂鬱と苛立ちを植え付けた選択肢に決着をつけてやる。
振り向いた小さな駅のコンクリートの柱には、白く薄汚れた駅名標。
そこに書かれた駅名は、ひらがなで
こ ど も の く に




