嵐ヶ丘住宅2番館の落日
「ただいま時刻は17時、95秒前。外出中の市民の皆さんは速やかに帰宅しましょう。また17時、以降の外出には市民カードの携帯が義務付けられています。市民カード不所持での外出は重罪です。夜間の外出時には必ず、市民カードを携帯しましょう。ただいま時刻は17時、02秒になりました。外出中の皆さんは……」
きっかり10メートルにひとつ建てられたスピーカーが定時放送を繰り返し流している。海岸沿いの市庁舎から順番に北上するように放送されるので少しずつディレイがかかって、真っ赤な夕焼け空の下に抑えつけられるように立ち並ぶ嵐ヶ丘住宅周辺にも響き渡り通り過ぎてゆく。丘陵地帯にしがみつくような団地群の白い壁がごく明るいオレンジ色に染まり、無人のブランコだけがキィと小さく鳴いた。
手のひらの赤い端末が猛然と振動し、画面いっぱいに警告が表示される。今まで頑張ったゲームもパアだ。否も応もない。わたしたちの活動は17時で原則終了する。燃えるような夕焼け空は銀天公社によるホログラムで、本日の気圧・気温・降水確率などを元に彩色担当の係員たちが制作したものを投影しているのだ。
空気中に溶け込んだ揮発性の追憶が鼻から口から肺に滑り込んで脳髄に至る。それは不快すぎる爽快感を伴いながら胸の奥にとごんで、自嘲過多の過食症状と共に嘔吐したのち再びの揮発を迎える。不快すぎる爽快感を味わうために狭いベッドの列車に乗り込む。誰かと誰かと誰かと誰かの吐息が混じり合う密室に並ぶベッドの棚が時速80キロで北上する。名もなき寝台特急を待つ嵐ヶ丘駅のホームで、偽物の夕焼けを見て泣いていた。
やがて銀天公社の偽月がゆっくりと軌道を辿って登り出す。ぼんやりと青白い光で街を照らしながら夜を通過する。運よく正気でいられる夜は銀色に、昨日はピンク色に見えた。何色だってかまわない、どっちみち偽物のお月様だから。絶望よりは諦めに似た黒い雨が西から近づいてくる。脂の混じった重苦しい雨。一晩中降り続いた濃脂驟雨が明け方5時きっかりに止んだのと同時に銀天公社の偽月は灰汁百舌半島の先へ引っ込んだ。ホログラムの朝焼けが黄金に輝いて、またスピーカーから定時放送が順繰りに流れ出す。
「おはようございます。ただいま時刻は7時30分5秒、です。市民の皆さん、今日も一日おだやかに過ごしましょう。勤怠登録の通信は午前8時30分、までに済ませましょう。勤怠登録のない労働および休暇は年次調査から除外されます。新しい 朝の記録は 勤怠登録。この標語は嵐ヶ丘住宅自治委員会の協賛で放送されております。ただいま時刻は7時30分55秒、です。市民の皆さん、今日も一日おだやかに……」
市街型乗り合い軽便鉄道はすし詰め状態で、長いあいだ皆が感じてきた毎朝の憂鬱を少しずつ積み重ねていってもはやテンコ盛りといった有様だった。だが勤怠登録を済ませた後で定刻に遅れるようなことがあれば、最低でも2ヶ月は銀天公社で脂の雨にまみれながら偽物のお月様を出したり仕舞ったりしなくてはならなくなる。濃脂驟雨が目に入り、その脂が血流にのって脳に至ると重篤な障害をきたすという。3-022-0407号室のキサカタさんのご主人はそれが原因で団地の自治病院から出てこない。
はじめは訳の分からないものが見えたり聞こえたりする程度だが、そのうちに目の前が真っ赤に見えたり脳に激痛が走ったりもするという。そうなるともはや手遅れで、立っていることはおろか生きていることさえ嫌になるほどだとか。しかも、そこまで悪化しないと銀天公社からの慰労年金は支払われず、またその手続きは一から十まで本人が行わなければならない。自立、自治、自活社会を謳う政府の広報ポスターにも
「ピンクの夕焼け、あなたの日没かも!?」
と不安を煽る文言と青ざめたキャラクターが書かれている。
誰も彼もわかっている。口に出せないというだけのこと。
いつものように自分の席について、ヘッドマウントディスプレイを装着して起動する。スイッチが入るとブウンと音が鳴って目の前が一瞬暗くなる。旧式の機械なので蒸気に脂のにおいが混じって毎日一瞬だけ不快だ。ああ、脂臭いな、と思った瞬間に、いつも一日が終わっている。昏睡勤務を始めて2年になるが、去年の冬辺りから毎日ほんの少しずつだけ覚醒が遅れている。退勤時間10分前には覚醒していたのが、今は5分47秒前だ。もし退勤時間を超過して勤怠登録をすれば、その日の勤務実績は不正と看做され抹消される。これを訂正するには情報庁の管理課で長蛇の列に並び、書類を揃え、再び長蛇の列に並んで訂正手続きをしなくてはならない。当然その間は勤怠登録をすることも出来ず、無給だ。上がってゆくには遅過ぎるが下がるときは一瞬で垂直落下するこの完全勤怠管理型出来高制の仕組みに囚われてしまったが最後、あとは昏睡勤務から覚醒しなくなるまで働き続けなくてはならない。
髪の毛にこびりついた脂を洗い流すことも出来ず、外へ飛び出すとちょうど乗り合い軽便鉄道が走り出したところだった。ひと昔前ならばそのまま飛び乗ってドア横のバーに捕まっていくことも出来たそうだが、今そんなことをしたら鉄道管理法と道路安全法の二重違反で、やっぱりお月様行きだ。早く帰って帰宅登録をしなければ。退勤時の勤怠登録と帰宅登録のあいだが開き過ぎていると、不正外出を疑われる。そうなるとまた情報庁で個人用ナノマシンに記録されたビーコンの波長グラフを取得して手続きをしなくてはならない。
私はうんざりして空を見上げた。ピンク色の夕陽が味気ないビル群の向こうにじわじわと沈んでいく。定時放送が海の方から坂道を登るように北上し、目の前でびりびりと鳴り出した。
「ただいま時刻は17時12秒、になりました、外出中の市民の皆さんは速やかに帰宅しましょう。また17時、以降の外出には市民カードの携帯が義務付けられています。市民カード不所持での外出は重罪です。夜間の外出時には必ず、市民カードを携帯しましょう。ただいま時刻は17時42秒、になりました。外出中の皆さんは……」
ふと上着の胸ポケットをまさぐってみると、いつも入っているはずの四角いカードホルダーがない事に気が付いた。覚醒が遅れたことで帰宅を急いでいた。机の上に置きっぱなしのカードホルダーが活版写真のように脳裏に浮かんだ。ピンクの夕陽が私の影を長く伸ばして、その先端が勤め先の情報庁管理課ビル第2号棟の入り口の自動ドアにかかっているのをぼんやりと見ていた。偽物の月は、まだ登っていない。




