第403話 数あるうちの1つ
人の痛みは、一過性だ。
どんなに痛くても、その感覚が畳み込み、つまり積分されることは無く、今感じている痛覚もやがて薄れて消えてしまう。
過去の骨折よりも、いまタンスの角にぶつけてしまった小指の方が痛みを強く感じるという事だ。
そう考えると、この痛みもいくらかマシになる。
弟を喪ったという心の痛みが。
「……消えねえなあ」
どうしようもなく深く潜り込んだ心の棘に、アラタは嘆息した。
敵が能力をオフにすれば、あるいは敵を殺害すれば、スキルの効果は停止すると思っていた。
実際そのようなものは多いし、そう言う目的でアラタは敵を殺害した。
しかし残念ながら、目の前に倒れている少年兵の能力はそういう類のものではなかったらしい。
相手と自分の関係性を錯覚させる能力ではなく、相手と自分の関係性を書き換える能力だったという事だ。
前者は一時的効果に留まることが想像されるが、後者は永続的な効果だろう。
後者の能力を無効化するには、もう一度現実に即した形で能力を掛け直すしかない。
そしてアラタがスキルホルダーの敵を倒したことで、その望みも消えてしまった。
アラタとアーキム、そして少年が今までスキルを行使してきたすべての人間は、これから近しい者の喪失感を胸に抱いて生きていくのだ。
「アーキム、大丈夫か? 大丈夫だな」
「俺は…………」
名も知らぬ少年兵の前で立ち尽くしているアーキムは、ただ茫然自失としていた。
そんな彼に何を言っても無駄だろうと、アラタはそれ以上何も言わなかった。
ただ肩を叩き味方の方へ向きを変え、仲間と共に帰還する。
スキルの重要なサンプルとして、少年兵の遺体は第1192小隊によって公国軍に収容された。
——いつの間にか、残りの少年兵の姿は消えていた。
※※※※※※※※※※※※※※※
アラタはエルモが手綱を握る馬の後ろに乗っていた。
先に一番砦に向かわせていた荷車を追いかけて、司令部に向かうためだ。
彼はこれから、ハルツ戦死の報告を行わなければならない。
ハルツと同じクラーク家の司令官と、もしかすると彼の甥と義理の甥になるかもしれなかった人間たちの前で。
「アラタ、ちょっといいか」
2人乗りでゆっくりと歩みを進めていたエルモは、後ろに乗っているアラタを呼んだ。
「ん?」
「ちょっと耳貸してくれ」
「はい」
向きが逆なら良かったのにと思いつつ、アラタはエルモの肩にあごを乗せた。
肩にボウリングの球くらいの重量感を感じつつ、エルモは周囲の様子を確認した。
やがて、蚊の鳴くような小さな声で——
「…………どう?」
「可能性は確かめて排除しなくちゃな」
「じゃあ」
「あぁ、お前のいう通りにしよう。ただ、この件は俺とお前で止めとけ、いいな」
「分かった」
アラタは偶然、たまたま、運といった概念が実在すると信じている。
ただ、普通の人とは少し異なる考え方をする彼は、いうなれば偶然の狂信者。
確かに偶然は人生の中にちりばめられているが、こんなものは偶然でも何でもない、お前如きが偶然という事象を自称するなと即座に否定から入る。
大手パン製造メーカーばりの厳しい審査を乗り越えて、ようやく彼の中で偶然の産物であることが認定される。
それまでは、目の前で起きた現象は全て必然によるものだと考えることが彼の癖になっていた。
荷物を襲ってきた敵を跳ね返した時は一時的にテンションが上がって我を忘れていたが、自分たちの指揮官がやられたというのは結構心に来るものがある。
時間制限のある鼓舞は出来ても、心の傷そのものを取り除くことは出来ない。
それは古傷のようにいつまでも消えることは無く、適切に向き合わなければたちまち雑菌で膿んでしまう。
彼の心の中に、また澱が沈殿していった。
「……な、本っと……いや! まだ信じないぞ! 遺体が見つからなければあいつは!」
「ご遺体は既に収容してあります。対面いたしますか?」
「あ…………」
アダム・クラーク中将は、クラーク伯爵家本家が嫌いだ。
憎いとか壊してやりたいとか、そこまでの憎悪ではない。
ただ、分家の自分たちには回ってこない権益を多く持っていたりすることが気に入らなかった。
だから初めは、士官学校に入って来たハルツのことも同じく気に入らなかった。
それでも軍人として、意識的に公正であることに努めたこともあって、成績などを減点したことは無い。
だが今となっては、それは逆差別だったのかもしれないとも思う。
やがて第十四次帝国戦役が発生し、その後ハルツは軍をやめた。
当時もあれしきのことで辞職するなんて、覚悟が足りないと心の中で罵った。
冒険者になった時も、軍から逃げたという感覚を拭うことは出来なかった。
そして、彼はまた戦場に帰って来た。
多くの頼もしい仲間を引き連れて。
そこまで来てようやくアダムは、自身がハルツを正当に評価していないことに気が付いた。
そしてそのまま表向きの態度を変えることないまま、彼らは死によって別たれた。
「中将閣下、入ります」
遺体安置に使われている天幕をめくると、そこには大勢の兵士たちで溢れ返っていた。
装備は公国軍の正式なものから、冒険者なのか多種多様なものまで。
居場所を転々としてきて、その先々で様々な人と仲良くなってきた彼らしかった。
顔にかけられる白布は取り去られていて、彼の胸元に置かれている。
アダム中将が近づくと自然と道が開いた。
「中隊長、か……」
共に険しい顔だった。
苦しんでいるのとはまた違うが、ハルツもアダムも、共に顔に刻まれた皺は苦労の証。
ここまでの人生が決して平坦ではなかったことの表れ。
「中尉……いや、外郭団体なら少尉か?」
中将は独り言をぶつぶつと繰り返す。
「二階級特進しても大尉。……大貴族の血縁が尉官で殉職なんぞ、この……お前…………なぜ、お前は……っ!」
将官たるもの、部下の前で涙は見せない。
今まで多くの死に直面してきた百戦錬磨の将は、こんなことで泣き崩れたりしない。
粛々と受け入れて、次に進むだけだ。
泣いてもハルツは生き返らないし、味方の士気も上がらない。
悲しみは涙を流せば一緒に流れてくれるから、悲しみを怒りに変えて前に進むには不要なものだ。
「首都に、アトラの街に帰らせてやれ」
中将はそれだけ言うと、遺体安置所を後にした。
司令部と遺体の安置エリアが近くにあるなんて、こんなに不吉なことは無い。
だからハルツが置かれている場所から本部までは、歩きでそこそこかかる。
一番砦の頂上に司令部は置かれていて、遺体の安置は一番砦の中腹付近に位置している。
兵士が死ぬのは基本的に前線で、一時的に遺体を保管することもある場所は、なるだけ移動距離が少ないことが好ましかった。
徒歩で来たのだから、帰りも徒歩。
数名の部下を連れて山頂まで山登りの最中だったアダム中将の後ろから、カッポカッポと馬の蹄の音が聞こえてきた。
「ここでいい、降ろしてくれ」
「おう」
ブルル、と馬の息遣いが近くで聞こえたので、思わず振り返った。
黒衣の兵士が20名弱、2人で1頭の馬に乗馬していた。
その先頭から降りて小走りに駆けてきたのがアラタである。
「アダム・クラーク中将閣下。第206中隊所属、第1192小隊長アラタです」
「あ、あぁ。この前はすまなかったな」
「いえ。それより、もうお会いになられましたか」
ハルツのことを言っているのだと一瞬で分かる。
アダム中将は首を縦に振り、自分が元来た道を指し示した。
「向こうに安置されている。もうすぐアトラに帰還するだろうから、挨拶を済ませておきなさい」
「いえ、自分はもう済ませましたので」
「そうか」
「それに……」
「ん? どうした?」
「いえ、何でもありません」
空気の読める男アラタは、口から出かかった言葉をグッと飲み込んだ。
——見に行ったところで、ハルツさんは生き返らない。
その発言がどれくらい『ナシ』であるのか、アラタだってそれくらいの知能はある。
上官の死はこんなにも状況を変えてしまうのかと、アラタは自分の身を心配する。
自分が死ねば、ついてきている部下がどうなってしまうのか想像すらしたくない。
自身より劣る指揮官の元任務に赴きやがて壊滅、もしくは隊員がバラバラになってそのまま二度と会わず。
それはあまりにも無常だと、彼は生き抜かなければと使命感に突き動かされた気がした。
「アラタ」
「タリアさん」
目元が腫れている、というより現在進行形で泣いている。
アラタは自分の目から出てこない涙が、なんだかとても尊くて大切なものに思えた。
忘れてはならない、大事なものに見えた。
「206の隊長はあなたになるんでしょ」
「えぇ、まあ。特に何もなければ」
「私は必ず、絶対に帝国軍を滅ぼすわ。あなたも全力を尽くしなさい」
「あ、はい」
タリアはそれだけ宣言すると、元来た道を引き返していった。
アダム中将が言っていた、ハルツの遺体安置場の方向だった。
アラタは逆に、エルモたち1192小隊が向かった方へと歩いていく。
こちらは一番砦の司令部の方向だ。
なだらかな傾斜を登りつつ、アラタは思考する。
この戦争が始まってから自分が奪った命をカウントする。
初めの方は案外よく覚えているなと思ったが、途中からまるで思い出せない。
丁度、コートランド川の戦いが本格化した辺りからだろうか。
そして今度は、味方の損失を思い浮かべる。
20人隊の1192から何人離脱したとか、中隊になって損壊と再編成を何回したとか、そういった理論的な計上方法は用いない。
1人1人の顔を思い浮かべて、どんな死に方だったのか、最後に交わした言葉はなんだったか、エピソード仕立てで回顧する。
「…………やめた」
こちらも途中から思い出せなくなり、途中で放り投げた。
その結果を受けて、彼は一つの結論を出した。
たかが人間の命、だと。
この世界の人口は知らないが、元の世界では数十億人が暮らしている。
その中のたかが1つ、数あるうちの1つだと、そう自らに言い聞かせた。
大したことないと、心揺り動かされるほどの出来事ではないと、心の中で反芻する。
揺らぐ自我、消えゆく敵味方の命、傷つく体。
どれも元の世界では特に大切にしてこなかったもの、大切にしなくても厳重に保証されていたもの。
この世界に来てからというもの、彼の中のアイデンティティは、崩壊の一途を辿っている。
悲しんでも何も変わらないというが、じゃあ悲しんではいけないのか、悲しむべきではないのか。
——否。
それは断じて、否、である。
しかし、そうでも考えなければ、死と距離を取らなければ、単なる人間の1個体として、精神の安定を保てなかったのだろう。
アラタは死を遠ざけることで、心の安寧を確保する道を無意識に選んでしまった。
それがのちにどんな悲劇を生み出すのか、当時彼はまだ知らない。




