第二章 奇妙な犬と始まりの気配
◆~普遍だが不変ではない生活~
来る日も来る日も、
原稿と向き合うだけの時間が過ぎていく。
机の上には、使い慣れた自作PCが陣取っている。
その唯一の相棒を前にしても、
一行たりとも浮かんでこない。
苛立ちがこめかみにじわじわと集まってくる。
思わずキーを乱暴に叩いた。
けれど返ってくるのは、
指先に残る虚しい痛みだけだ。
虚しさが胸の奥に重なっていく。
窓の外を眺める気力さえ、今はどこか遠い。
灰色の思考に絡め取られたまま、
気づけばずっと部屋に籠っていた。
進まない理由なんて、自分でも判っている。
日本の術口伝書や古文書に踏み込んだ瞬間、
そこは学会から異端扱いされる領域だ。
まともな文献なんて、探した処で見つかりはしない。
依頼されたのは、
「都市伝説を巡る」旅ルポだった。
旅の記録としては悪くないし、
歴史ロマンやミステリーの匂いもあって、
書いていて楽しい部分もある。
けれど、深く掘り下げれば下げるほど、
如何せん古史古伝の影がちらついてくる。
古文書に至っては学会から偽書扱いで、
探したところで見つかりはしない。
「君子危うきに近寄らず、か……」
半ばあきらめ混じりに、そう呟いた。
そもそも、どうして自分は
こんなものに首を突っ込んでしまったのか。
そんな堂々巡りの思考の中で、
ふと一週間前の出来事が脳裏をよぎった。
むさくるしい部屋に、
軽やかな電子音がしつこいほど鳴り続ける。
「打ち合わせか……」
そう呟いてみせても、
手は受話器へ伸びない。
数回コールが響いたあと、
いったん静けさが戻る。
だが、
間を置かず同じ音がまた部屋を突いた。
「はいはい、今出るよ」
誰誰に向けるでもない声が、空間に溶けた。
「もしも──」
言い終える前に、
聞き慣れた太い声が飛び込んできた。
「京ちゃん!
面白い話……いや、打ってつけの企画ものだ。
やってみるか?」
友人からかかってきた電話の第一声だった。
どう聞いても、まともな話には思えなかった。
京一は受話器を持ったまま、
胸の奥にじわりと重さが広がるのを感じた。
「……企画って、どんな?」
できるだけ平静を装って返す。
だが、嫌な予感は消えない。
電話の向こうで、友人が愉快そうに笑った。
「まあまあ、そんな身構えるなって。
都市伝説を巡る旅ルポだよ。
京ちゃんの得意分野だろ?」
“得意分野”。
その言葉に、京一は小さく息を吐いた。
都市伝説。
旅ルポ。
そして、この友人の“面白い話”。
どう考えても、ろくな未来が見えない。
「……詳しく聞こうか」
受話器越しの声を聞きながら、
ふと昔のことを思い出した。
***********
俺のことを「京」と呼ぶのは、
昔から彼だけだ。
「京一」という名前のせいで、
たいていの人は
「京一」呼んでしまう。
最初の頃は訂正していたが、
あまりに多くて、いつしか諦めた。
***********
友人の話はこうだった。
お蔵入りの企画があったらしい。
内容は、最近増えている都市伝説のルポ。
取材して、調べて、まとめるだけの小さな企画だ。
ところが、いざ掘り起こしてみると、
どれも中途半端で形にならなかった。
題材そのものが曖昧で、
取材先もどこか歯切れが悪い。
前任の編集者も、裏取りの難しさに嫌気がさして、
結局は途中で手を引いたらしい。
それが最近になって、
オカルトやパワースポット、七不思議の特集が妙に伸びてきて、
企画会議で「今ならいける」と言われたらしい。
「京ちゃん、こんなの得意だろ?」
そう言って、彼は俺に白羽の矢を立てたのだ。
いったい俺の何を買ってくれたというのか。
本名は、神武 京一。
肩書きだけ見れば“会社代表”だが、
零細企業の経営など、羽振りがいいどころか名誉とも縁遠い。
そんな人間がなぜ執筆などしているのか──
学生時代の話になるが、
今さら持ち出すのも気恥ずかしい。
自慢話に聞こえるだけだ。
それにしても、
“得意だから”というだけで執筆を依頼するとは、
いささか無謀というか、呆れるほかない。
一介の素人に何ができるというのか。
とはいえ、
あのしつこい電話を無視するわけにもいかなかった。
引き受けるかどうかは後で考えるとして、
まずは話だけでも聞いてやろう──
そう思って、呼び出しに応じることにした。
指定された場所は、
通りから一本入った路地にある喫茶店だった。
地下へと続く階段が口を開けていて、
思わず足が止まる。
階段を降り、
木製の扉を押し開けると、
焙煎した豆の香りがふわりと鼻をくすぐった。
店内は板張りの床に、
レンガと岩肌を模した壁。
中央には丸い井戸が据えられている。
洞窟の中に作られた喫茶店のようで、
思わず息を呑んだ。
「井戸のある店」──
そのまますぎる名前に、
内心で小さく苦笑する。
片隅の二人掛けテーブルには、
友人が先に座って待っていた。
「わざわざ呼び立ててすまないね」
そういって吸いかけのたばこを
灰皿に押し当てて消した。
「こっちこそ遅くなって申し訳ない」
待たせたことを詫びて席に着いた。
「いやそれほど待っちゃいないよ。
精々小一時間ぐらいかな」
着くなりメニューを手渡し
少々皮肉めいた言葉で返してきた。
怪訝そうに視線を落とし、
小言のように呟いた。
『人と待ち合わせるのは昔から苦手だ。
時間通りに動けた試しがない。
ご多分に漏れず、今日も案の定、
少し遅れてしまった』
テーブルには、
飲みかけのコーヒーが置かれていた。
「何か飲むか?」
そう促され、
苦笑いしながらメニューを手に取る。
その気配を見計らったように、
店員がそっと近づいてきた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「モカブレンドをホットで」
言い終えると、
メニューをテーブルの隅に立てかけた。
淡い光の中、
小さな塵がふわふわと舞っていた。
「で──本題―なんだけどさ」
友人は、飲みかけのコーヒーカップを
指先で軽く回しながら切り出した。
「例の企画、覚えているよな?
“都市伝説を巡る”ってやつ」
その言い方が、
どこか含みを帯びている。
嫌な予感が胸の奥でゆっくりと膨らんだ。
「あれ、やっぱり俺にやらせたいのか」
自分でも驚くほど低い声が出た。
友人は苦笑し、肩をすくめた。
「京ちゃん以外に、誰がいるよ」
その言葉が、
胸の奥の沈んでいた何かを
ゆっくりと押し上げた。
覚悟のようなものが、
静かに形を取り始めていた。
その日の帰り道、胸の奥に残ったざらつきが、
なぜか眠りを遠ざけた。
◆~幻夢世界への誘い~
犬の物語は、いつも人をどこかへ連れていく。
涙の結末へ。
あるいは、条件反射の実験室へ。
そしてもうひとつ──
観測されるまで、生と死が重なり合う箱の中へ。
猫の代わりに犬を入れたところで、
仕組みは何も変わらない。
ただそこには、
“見えているのに確定しない世界”
という奇妙な感覚だけが残る。
この物語は、
その曖昧な世界に触れてしまった人々の、
ひっそりと語り継がれる逸話なのかもしれません。
そんな取り留めのない思考を抱えたまま、
翌朝の公園に足を運んでいた。
◆~奇妙な犬~
ベンチに背にもたれ、しばし目を閉じた。
公園の静寂に耳を澄ませば、
木々の戦ぎと朝の木漏れ日、
朝露を含んだそよ風が、
ゆっくりと体の力を抜いていく。
その視界の端に、犬がいた。
伏せているようで、眠っているようで──
そこにいるはずなのに、
どこか“揺らぎ”をまとっているようだった。
存在の輪郭が、
風に溶ける影のように定まらない。
京一は、朝の木漏れ日の下で、
ただ静けさに身を沈めていた。
その静けさを破るように、
足音が近づいてくる。
その気配に、
ふと視線を上げる。
学生がひとり、
本を読みながら歩いてくる。
周囲はまるで見えていないのに、
歩みだけは妙にしっかりしている。
犬のすぐそばを通るのに、
その存在に気づく様子もない。
学生の足が、
ふっと乱れた。
本に視線を落としたまま、
つま先だけが浮いている。
だが靴底は、
そのまま犬の尻尾を捉えてしまった。
──ぎゃん!
犬が痛みに吠えた。
表情は一瞬で威嚇に変わる。
それでも学生は歩みを止めない。
リズムだけが正確に刻まれていく。
犬は怒りのまま吠え続け、
ようやく学生が振り返った。
「えっ……?」
さっき踏んだ“変なもの”
の正体に気づいたらしい。
「あわわ~」と情けない声を上げ、
「ご~~めんなさ~~い!」
叫びながら逃げ出した。
転ぶ。 起きる。 また転ぶ。
それでも必死に逃げていく。
京一は、その滑稽さに
思わず「ふっ」と吹き出した。
犬は追わなかった。
ただ、
逃げ去る学生を見送り──
ほんの一瞬だけ、
京一の方を振り返ったように見えた。
「……気のせい、だよな」
緊張と可笑しさが入り混じった空気の中で、
京一は小さくつぶやいた。
「──ああ、そろそろ書かないとな」
普遍だが、不変ではない日々を送ってきた京一。
彼のもとへ、旧知の先輩から押し込まれた一本の執筆依頼。
それは、静かな生活に落ちた小さな“揺らぎ”──
……どこへ続くのか、物語は静かに語り始める。




