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第一話 高校教師 佐藤健一

※本作はフィクションです。実在の人物・団体・法制度・省庁等とは一切関係ありません。


※作中、世界観の理不尽さやキャラクターの境遇を描写する演出として、一部セクシャルハラスメントや性的な表現(R15程度)が含まれます。苦手な方はご注意ください。


本作は全五話のオムニバス(群像劇)形式の連続小説です。

各話ごとに異なる人物の視点から、一つの歪んだ未来の姿を切り取っていきます。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

夏の陽射しが教室の窓から容赦なく差し込み、黒板のチョークの粉を白く輝かせていた。七月。高校三年生の教室は、進路が決まりかけた時期特有の、緩んだような緊張感に包まれていた。

私、佐藤健一は、教卓に片肘をつき、ため息を飲み込んだ。担任になって三年目。毎年この光景は見慣れているはずだったが、今年も胸の奥がざわつく。

「ねえ、夏休みって海行く? それとも山? 私、今年は絶対に海外行きたいんだけどー」

後ろの席の女子グループが、キャッキャと笑い声を上げている。スマホの画面を囲み、旅行サイトを眺めながら。誰も進路の話などしていない。

彼女たちにとって「進路」とは、好きな大学を選ぶこと、そしてその後の遊びの計画を立てることだった。

それも無理はない。一昔前に物議を呼んだ「女子枠」という制度は、今や完全に定着していた。国立大学の半数以上の枠が「女性専用」となり、私立も追随。AOや一般枠も女子というだけで大幅な加点があるのは誰もが知っている話だ。たとえ入学後に授業についていけなくなっても、個別チューターや単位緩和措置が保証されている。女子生徒たちは、勉強などほぼせずとも、笑顔で未来を語れる。

まじめに勉強する女子生徒もいるにはいる。だがあくまで女子生徒の中ではというところだ。この周囲から、社会から、国から徹底的に甘やかされているという環境下で自分を厳しく律せられる者などいやしない。それを求めるのも酷な話だ。

一方、男子の席は、まるで別世界だった。

机に突っ伏すように参考書を広げ、必死に問題集を解いている者。イヤホンを片耳に差したまま、オンラインの資格対策講座を聞いている者。表情は皆、疲れ果て、焦燥に満ちている。

「佐藤先生……この過去問、答え合わせしてもらえませんか」

前列の男子、田中が小さな声で言ってきた。眼鏡の奥の目は血走っている。田中はクラスで唯一の大学進学志望者だった。

大学進学を目指す者は激減していた。女子枠の皺寄せで、一般枠は極端に狭くなり、偏差値70以上でも落ちるのが当たり前になった。しかも、仮に大学に入れたとしても待っているのは、さらに苛烈な男性差別だった。不当に低い成績評価、研究室での指導放棄、女子学生優先の予算配分——そんな話は、卒業生から何度も聞かされていた。

だから現代の男子の多くは、最初から大学進学など目指さなくなっていた。肉体労働系、建設、物流、製造——まだ男性差別の影響が比較的緩いとされる業界への直接就職を目指す。だがそこに人気が集中すればまたそこに新たな激しい競争が生まれる。今や人気企業の採用には高校在学中の難関資格合格が求められ、倍率は数十倍に跳ね上がっていた。

「田中……頑張れよ」

私はそう言って、答案に赤ペンを走らせた。他に何も言えない自分が情けなかった。

教員免許を持つ男性は今や全体の二割を切っていた。私も教師になった頃は「教育で何か変えられる」と夢を見ていた。しかし現実は違った。校長は女性、教頭も女性、学年主任も女性。PTAの主力はもちろん母親たち。男性教師が口を挟めば「時代錯誤」「女性の声を聞けない」と即座に烙印を押される。

放課後、職員室に戻ると、同僚の女性教師たちが楽しげに談笑していた。

「あら、佐藤先生。お疲れ様。三年生の男子たち、今年も大変そうね」

「ええ、まあ……」

短く答えるしかない。彼女たちは知らないふりをしている。いや、知っていても関係ないと思っているのだろう。自分たちは守られているのだから。

私は自分のデスクに座り、窓の外を眺めた。校庭では、女子生徒たちが部活のユニフォーム姿で笑いながら写真を撮っている。男子たちは、残っている者もほとんどグラウンドの隅で黙々と走り込みをしていた。資格試験の体力作りだ。

私は何もできない。胸の内でそう呟いた瞬間、職員室のドアが開いた。

「佐藤先生、ちょっとよろしいですか?」

学年主任が、にこやかに立っていた。その笑顔の奥に、何か冷たいものを感じた。

「三年生の進路指導について、校長先生からお言伝があります。男子生徒の就職希望者が多すぎるそうで……もう少し『適切な進路』へ誘導するよう、とのことです」

適切な進路。すなわち、もっと大学進学を勧め、進学率を上げろと。

私は静かに頷いたが、拳が机の下で小さく震えていた。

この夏は、まだ始まったばかりだった。



教室にエアコンの低い唸り声だけが響いていた。私は黒板に向かい、進路指導の注意点を板書していた。チョークが乾いた音を立てる。夏の午後の授業は、どこか緩慢で重苦しい。

「やめろよ……」

細い、押し殺した声が、後方から聞こえた。

肩がわずかに強張った。一番後ろの席——裕也の席だ。想像は容易についた。

裕也——鈴木裕也は、今年の三年生の中でも珍しいタイプだった。男らしい顔立ち、骨格のしっかりした体つき。女子たちから「今どき珍しい」と陰で囁かれる容姿の持ち主だ。その容姿が、逆に彼を標的にしていた。

彼の両隣に座る亜弥と美沙。明るい茶髪に派手めの制服を着崩した二人組は、裕也を気に入っていると公言してはばからない。授業中でも平気で彼に寄りかかり、耳元で何かを囁いたり、太ももを指で突っついたり、時には膝の上に手を置いたり——性的なからかいが日常化していた。

「裕也くん、赤くなってるじゃーん。かわいい」

そんな囁きが、耳に微かに届いた。振り向いてはいけない。見てしまった瞬間、教師として注意しなければならない。だが注意すればどうなるか。女子生徒二人から「セクハラされた」「パワハラで怖い」と泣きつかれる可能性が高い。学校は即座に女性側の味方をする。過去に何人もの男性教師が、そうやって職を失ったり、左遷されたりした。

私は黒板に視線を固定したまま、チョークを握る手に力を込めた。背後で小さな笑い声が漏れる。裕也が再び小さく息を詰める気配がした。

許せ、裕也……。

胸の中で、何度も繰り返す。担任として、何も守れない自分が憎かった。男子生徒が教室で日常的に性的嫌がらせを受けている現実を、知っていながら見て見ぬふりをせざるを得ない。報告すれば「男子が過敏になっているだけ」「女子の親しみの表現を誤解している」と片付けられるのが関の山だ。

黒板に書く文字が、わずかに震えた。

「次は、資格試験のスケジュールについて……」

声を無理やり平坦に保ちながら、私は授業を続けた。後ろの席からは、相変わらずくすくすという笑い声と、裕也の耐えるような小さな吐息が交互に聞こえてくる。

窓の外では、蝉の声が容赦なく夏を焼き尽くしていた。

この教室で、今日も何も変わらない。


それから何日かの時が流れた。

……またか。

黒板に視線を固定したまま、チョークを握る指に力を込めた。授業の声は淡々と続くが、背後から聞こえてくる声が、今日も集中を乱す。

「やめろって……」

裕也の声は、今までより少し掠れていた。抑えきれない苛立ちと、どこか混じり合った響き。

これまで何度も聞こえながら、振り向かなかった。見て見ぬふりをすることで、教師としての無力を誤魔化してきた。しかし、日を追うごとに胸の奥に積み重なる罪の意識が、限界を迎えていた。

もう……我慢できない。

深く息を吸い、覚悟を決めた。ゆっくりと体を捻り、後方の席へと視線を向けた。

瞬間、口を開きかけ——言葉が喉で止まった。

裕也は、ニヤけていた。

顔が火照り、口元がわずかに吊り上がっている。目も、どこか焦点がぼやけ、虚ろだ。

……これは、何だ?

悦んでいるのか?

いや、違う。拒絶できない環境が生んだ「迎合反応」としての作り笑顔か? それとも屈辱感を誤魔化すための、精一杯の虚勢か? あるいは、そのすべてが混ざり合って麻痺してしまったのか。

頭の中で疑問符が渦を巻いた。

一瞬、言葉を失った。教師として注意すべき場面のはずが、目の前の光景が予想外すぎて、判断がつかない。

亜弥が小さく笑う声が聞こえた。「裕也くんだって嬉しいんでしょ?」

裕也のニヤけた表情が、わずかに引きつる。

私は慌てて視線を逸らし、再び黒板に向き直った。背中が熱い。心臓の鼓動が、耳の奥で鳴り響く。

……現代の高校教師、難し過ぎる。

チョークを持つ手が、微かに震えていた。何をどう判断すれば正しいのか。生徒を守るべき立場にありながら、何が守ることなのかさえ、曖昧になっていた。

教室の空気は、夏の湿気より重く淀んでいた。



(田中視点)

俺(田中)は廊下側の最前列に座っていた。ここは意外と死角になる位置だ。教師の視線からも、クラスメートの多くからも、ぼんやりと外れた場所。誰にも気づかれずに、教室全体を眺めることができる。

窓際最後列の裕也や亜弥らの席が、よく見えた。

裕也は今日も亜弥と美沙に挟まれ、肩を縮めている。あいつだって本当は勉強したいはずだ。資格試験の過去問を解く時間だって欲しかっただろうに。あの二人は休み時間も授業中も、裕也を玩具のように弄んでいる。可哀想に……。

……でも、亜弥も美沙も、顔はいいよな。

自分のノートに視線を落としながら、胸の内でため息をついた。あの二人に挟まれてからかわれるのが…もしも自分だったら……。

突然、近くから小さな声が漏れた。

「ぷっ」

隣の席の結衣だった。目をやると、結衣は口元を押さえながら、俺の机の下を指さしてニヤニヤと笑っている。気づけば、俺のズボンの前が、うっすらと盛り上がっていた。

慌ててノートに目を落とす。心臓が早鐘のように鳴る。

結衣が体を寄せてきて、甘い匂いのする息を耳元にかけた。

「羨ましいんでしょ」

「……うるさい」

低く返す。

結衣は亜弥や美沙とは違い、誰にでも分け隔てなく話しかけるタイプの女だ。それで救われた気持ちになったこともあった。だけど——。

すると結衣の手が、机の下でゆっくりと俺の膝の上にかざされた。触れる寸前で止まっている。熱を感じるほどの距離。

あまりにも突然のことに、頭が真っ白になり、同時に心の声が溢れ出る。

触られたい。

触って欲しい。

どうして触れてくれない?そこで止まっている?

懇願させたいのか——?

だけど、社会から優遇されまくりの、勉強もせず遊び放題の女という生き物に、こんなことで懇願などしたくない。絶対に、したくない。

それでも、体は正直だった。指一本触れられていないのに、ますます硬くなっていく自分が、情けなくて仕方ない。

視界がぼやけた。唇を噛み、必死に涙を堪えた。複雑な感情が、胸の奥で渦を巻いている。裕也への同情、それとも嫉妬?、結衣への欲情、そして自分自身への苛立ち——すべてが混じり合って、ただ苦い。

黒板の前で佐藤先生が何かを説明している声が、遠く聞こえるだけだった。

この教室で、誰も助けてくれない。



(佐藤視点に戻る)

定期試験の日が来た。いかに女子といえど、赤点を取れば留年は免れない。私は職員室で答案用紙の山を前に、ひとつひとつ目を通していた。表面上は公平を装う試験だが、現実はいつも歪んでいる。

亜弥の答案用紙を手に取り、息を飲んだ。

字が違う。明らかに裕也の筆跡だ。美沙の答案も同様。同じ問題で同じ答え、同じ箇所で同じ間違い——高得点ではあるが、完璧に一致している。

「……裕也」

私は裕也を呼び出し、職員室の隅に連れてきた。誰もいない時間帯を選んだ。

「これはどういうことだ」

裕也は無表情で立っていた。男らしい顔に、疲れと諦めが滲んでいる。

「どうでもいいじゃないですか。アイツらはこの後、好きにオシャレな大学生活を送る。俺のこの後の人生には関係ない」

平坦な声だった。感情を削ぎ落としたような答え。

「だがしかし……」

私が言葉を続けようとすると、裕也が初めて感情を露わにした。

「俺がアイツらにからかわれてるときは何もしないくせに、俺には説教でもする気ですか?」

その言葉が、胸に突き刺さった。

「……あれはお前がニヤニヤしてて……」

私がようやく絞り出すと、裕也は舌打ちした。

「ニヤニヤ?触られて気持ちいいからですよ。悪いですか?」

冷え切った、それでいて挑発的な視線。虚勢か、事実か、わからない。きっと裕也にもわからないんだと思う。私は何も言い返せない。

「……はあ。高校の先生なんかに何の期待もしていません。もういいですか?」

裕也はそれだけ言い、返事を待たずに職員室を出て行った。その背中は、まるで大人びて見えた。

再び答案の山に戻った。他の女子たちの答案用紙も、次々と不自然さが浮かび上がる。明らかに男子の字で書かれたもの、男子の回答を横目で見ながら写した痕跡——そこかしこにあった。

学年主任に報告した。学年主任は顔色一つ変えずに「この問題は私が預かります。」と言った。預かってどうするのか。聞けなかった。これからも聞けないだろう。

この国の高校は、終わっている。

私は椅子に深く腰を落とした。裕也の「やめろよ」と言う声に振り向けなかった記憶が、胸に重くのしかかる。

私には、何もできない。


ご一読いただきありがとうございました。

第二話は、大学の学務課に勤める男の視点へと移ります。

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