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続きそうな短編集【心影と真相の狭間】

我、真実の力に依りて生きながらに万象に打ち克てり

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/07/09

 我、真実の力にりて生きながらに万象ばんしょうに打ちてり

 ――Viヴィ Veriウェリ Universumウニウェルスム Vivusウィウス Viciウィキ.



 死亡届には、いつも余白が少ない。


 氏名、生年月日、本籍、死亡したとき、死亡したところ、届出人。決められた欄に決められた文字を収めてしまえば、人の死は受理される。泣いている者も、泣いていない者も、窓口の前では同じように印鑑を探し、同じように書き損じ、同じように「ここですか」と訊ねる。


 奈比賀なびか たかしは、そのたびに赤鉛筆で小さく欄外を指した。


「そこです」


 それだけでよかった。


 死は、書類の上では驚くほど従順だった。どれほど乱暴な別れであっても、どれほど納得のいかない終わりであっても、最後には一枚の紙に収まる。収まらなければならない。人が社会の中で生きていたことを終わらせるには、終わったという形式が必要だった。


 母の死亡届を出したのは、妹の由香だった。


 孝はその日、窓口の内側にいなかった。忌引きのためではない。母は市外の病院で死に、そのまま葬儀社が段取りを整え、近くにいた由香が役所へ行った。それだけのことだった。


 電話で由香は言った。


「兄さん、来週でかまんき、実家見に来て。うち一人じゃ片づかん」


「要る書類は?」


「そういうがは、もう済んじゅう」


 そういうが、という言い方が孝は嫌いだった。


 物事には名がある。死亡届、火葬許可証、年金の停止、保険の請求。曖昧に包めば、何かが軽くなるわけではない。


 けれど孝は何も言わなかった。


 母は七十四歳だった。死因は肺炎。長患いというほどではなく、突然というほどでもない。人生の終わりとしては、役所の帳簿に混じってしまえば珍しくもない死だった。


 土曜日の朝、孝は十数年ぶりに実家の戸を開けた。


 家の中には、古い湿気の匂いがあった。畳と、埃と、薬袋と、煮物の記憶が混ざった匂い。人が住まなくなった家は、すぐに家であることを怠けはじめる。台所の流しには洗い桶が伏せられたままで、食器棚のガラスには薄く曇りがかかっていた。


 仏壇の前に、母の写真が置かれていた。


 葬儀の時にも見た写真だった。少し笑っている。実物の母は、晩年こんな顔をしていただろうかと孝は思った。写真というものは、死者を一番都合のよいところで止めてしまう。


 線香を一本だけ上げ、孝はすぐ立った。


 泣くべきだとは思わなかった。泣けないことを恥じる気にもならなかった。母が死んだ。それは事実だった。事実は、受け止めるかどうかにかかわらず、先にそこにある。


 押し入れを開けると、段ボール箱がいくつも積まれていた。古い衣類、贈答品の空箱、使わなくなった電気毛布。母は物を捨てない人だった。捨てない理由をいつも持っていた。まだ使えるから、何かに使えるから、誰かが要るかもしれないから。


 誰か、というのはたいてい存在しない。


 孝は軍手をはめ、箱を一つずつ開けた。要るもの、要らないもの。残すもの、捨てるもの。決めてしまえば作業は早かった。


 薬袋が出てきた。


 三月二日。死ぬ四日前の日付だった。中には錠剤が残っている。母はそれを飲みきる前に死んだ。


 孝は袋を燃えるごみへ入れかけ、少しだけ手を止めた。薬は、飲む者がいて初めて薬である。飲む者のいない薬は、もう薬ではない。


 袋の口を結んだ。


 昼過ぎ、押し入れの奥から古い革張りの鞄が出てきた。


 父のものだった。


 金具は黒ずみ、取っ手の革は乾いてひび割れていた。中には数冊の本と、大学ノートが入っていた。英文学史、ラテン語初歩、薄茶色に変色した雑誌のコピー。父は高校の英語教師だった。教師でありながら、家庭ではほとんど何も教えない人だった。ただ時折、妙に芝居がかった口調で、子どもにはわからない言葉を聞かせた。


 孝はノートを開いた。


 父の字ではない。自分の字だった。


 表紙の裏に、黒いペンで大きく書かれていた。


 Vi Veri Universum Vivus Vici.


 その下に、さらに大きく、ませた筆跡の日本語があった。


 ”我、真実の力に依りて生きながらに万象に打ち克てり”


 孝はしばらくその文字を見つめ、それから短く笑った。


 若かった、と言うには幼すぎた。賢かった、と言うには愚かすぎた。


 その言葉を父から聞いたのは、たしか小学校六年の秋だった。


 父はその夜、居間で酒を飲んでいた。食卓の上には、母が作った鯖の味噌煮が残っていた。妹の由香はもう寝ていて、台所では母が洗い物をしていた。父は酔うと、普段よりも遠い人になる。家族のいる居間ではなく、別の時代の教室で誰かに講義しているような顔をする。


「孝、これ読めるか」


 父は紙片に五つのVを書いた。


「ブイ、ブイ、ブイ、ブイ、ブイ」


「そうやない」


 父は嬉しそうに笑った。


「ヴィ・ウェリ・ウニウェルスム・ウィウス・ウィキ。真実の力で、生きちゅうまま、全部に勝ついう意味らしい」


「全部に?」


「世界にも、人にも、自分にも、や」


 父の顔は赤かった。だが、その声だけは妙に澄んでいた。


「嘘は嫌え。けんど、真実を甘う見たらいかん。真実はのう、見つけた者の味方をしてくれるとは限らんき」


 当時の孝には、最後の言葉がわからなかった。わかったのは、父が格好いいことを言ったということだけだった。だから後になって、自分なりに訳した。宇宙では大きすぎるから、万象にした。征服したでは子どもっぽいから、打ち克てりにした。


 それを書いた夜のことを、孝はまだ覚えている。


 父が死んでいると知った夜だった。


 父は突然いなくなったわけではなかった。ある日から帰らなくなった。母は「遠くで働きゆう」と言った。出張とも、転勤とも、療養ともつかない言い方だった。孝は最初、信じた。父は本の多い人で、知らない言葉をたくさん持っていて、遠くへ行くのが似合う人だったからだ。


 だが、家の中から少しずつ父の匂いが消えていった。


 洗面台の髭剃りがなくなり、玄関の革靴が片づけられ、母は父の話をするたびに目を逸らすようになった。由香は幼く、夜になると「お父さんは」と聞いた。そのたびに母は「もうちょっとしたら」と答えた。


 もうちょっと、は便利な言葉だった。


 孝は仏壇の引き出しで、父の死亡通知を見つけた。封筒の宛名は母だった。日付は半年も前だった。


 その夕方、台所に立つ母の背中に向かって、孝は言った。


「父さん、死んじゅうがやろ」


 母は包丁を止めた。


 それだけで、孝はすべてを理解した。理解した、と思った。


「なんで言わんかったが」


 母は振り向かなかった。鍋から味噌汁の湯気が上がっていた。豆腐と葱の匂いがした。由香が隣の部屋で人形を並べていた。


「孝」


「死んだがやったら、死んだって言うたらよかったやろ」


「由香が、まだ小さかったき」


「俺には?」


 母の肩が、小さく動いた。


「俺には嘘ついてよかったがか」


 言った瞬間、胸の中に硬いものが生まれた。それは悲しみではなかった。怒りでもなかった。自分だけが正しい場所に立ったという、冷たい高揚だった。


 母は何も言い返さなかった。


 ただ、火を弱めた。


 鍋の蓋が、小さく鳴った。


 その音を、孝は母が負けた音として覚えた。


 夜、自分の机でノートを開き、例のラテン語を書いた。父がくれた言葉を、自分のものにするために。母の嘘に打ち克つために。世界が曖昧な顔をして近づいてきても、二度と騙されないために。


 我、真実の力に依りて生きながらに万象に打ち克てり。


 そう書けば、本当に何かに勝った気がした。


 電話が鳴ったのは、孝がノートを閉じた時だった。


「今、家?」


 由香だった。


「ああ」


「夕方行く。捨てるもん、勝手に全部決めんとってよ」


「要るもんがあるなら言え」


「見んと分からん」


 それもまた孝の嫌いな言い方だった。けれど、今度も何も言わなかった。


 由香が来るまでの間、孝は父の本をめくった。英語の書き込みがあり、ラテン語の単語があり、ところどころに赤線が引かれていた。父は本をきれいに読む人ではなかった。余白に反論を書き、疑問符を書き、時には日本語で短く感想を書いている。


 古いコピーの束の中に、例の一句があった。


 Viヴィ Veriウェリ Universumウニウェルスム Vivusウィウス Viciウィキ.


 その前後に、父の鉛筆書きがあった。


 ――自己を遡ること。

 ――私はなぜ私であるか。

 ――父母、祖父母、時代、土地、偶然。

 ――真実は外敵ではなく原因である。


 孝は眉を寄せた。


 父が言った言葉を、彼はずっと勝利の標語だと思っていた。真実を掲げれば、嘘をついた者を打ち負かせる。曖昧なものを裁ける。世界を整頓できる。


 だが父の走り書きは、別のことを言っているようだった。


 私はなぜ私であるか。


 真実は外敵ではなく原因である。


 玄関の戸が開いた。


 由香は、母によく似た歩き方をするようになっていた。昔はそうではなかったはずだ。手にはスーパーの袋を提げていた。


「お茶、買うてきた」


「家にあるろう」


「いつのかわからんやつ、飲みとうない」


 由香はそう言って、台所へ入った。食器棚を開け、母が使っていた湯呑みを二つ出す。孝は思わず言った。


「それ、捨てるつもりやった」


「まだ使える」


「そうやって残しても、誰も使わん」


「今、使う」


 由香は湯呑みを洗い、買ってきた茶を注いだ。冷えたペットボトルの茶が、古い湯呑みの中で妙に不似合いに見えた。


 二人は仏間に座った。


 しばらく、母の遺品について話した。着物はどうするか。写真は誰が持つか。保険の書類はどこにあるか。孝が分類し、由香が時々止めた。


「これは?」


 孝が古い鍋を持ち上げる。


「要らん」


「これは?」


「それは置いちょって」


「ただの布巾やろ」


「お母さんが最後まで使いよったやつ」


「やき、何なが」


 由香は孝を見た。


「兄さんは、何でも終わったことにするがが早いね」


 孝は言い返そうとして、やめた。


 終わったことは終わったことだ。そう言うのは簡単だった。だが仏壇の上の母は、写真の中で少し笑っている。終わったはずなのに、台所にはまだ母の布巾が残っている。湯呑みには茶が入っている。


「母さんは、最後まで父さんのことをちゃんと話さんかった」


 孝は言った。


 由香は湯呑みを両手で包んだまま、少しうつむいた。


「兄さんは、ちゃんと聞こうとしたこと、あったが?」


 静かな声だった。


 孝はその言葉を、すぐには理解できなかった。


「聞いたろう。あの時、俺は聞いた」


「責めたがやろ」


「嘘つかれたがやき」


「うん。嘘やったと思う」


 由香は認めた。


「お母さんは、間違えたと思う。父さんが死んだこと、言わないかんかったと思う。でもね、兄さん」


 その先を言う前に、由香は一度息を吸った。


「お母さん、たぶん、一日だけ黙ったがよ」


「一日?」


「父さんが死んだ日、兄さん、学校で作文の賞もろうて帰ってきたがやって。覚えちゅう?」


 覚えていなかった。


 いや、忘れていたのではない。その記憶だけが、父の死とつながっていなかった。


 薄い賞状。担任の手。教室の拍手。帰り道に買ってもらうはずだったアイス。家に帰ると母が台所にいて、少し笑って「よかったね」と言った。


「その日に言えんかった、って。お母さん、前に一回だけ言うた。一日だけ黙っちょこうと思ったら、次の日も言えんなったって。由香は毎晩泣くし、兄さんは父さんの話せんようになるし。気づいたら、どう言うたらえいか分からんなったって」


「だからって」


「うん。だからって、やと思う」


 由香はそう言って、湯呑みの茶を飲んだ。


「嘘いうより、言えん日が続いただけやったがやと思う」


 孝は何も言えなかった。


 外では、夕方の光が隣家の屋根に傾いていた。仏間の畳に、障子の桟の影が伸びている。子どもの頃、この時間になると父が帰ってくる日もあった。母が味噌汁を温め直し、由香が玄関へ走った。そういう日は確かにあった。父が死んだ後にも、しばらくその気配だけが家に残っていた。


 孝は、その気配を嘘と呼んだ。


 その夜、由香は帰り、孝は実家に一人で泊まった。


 電灯を消すと、家の中は思ったよりも音が多かった。柱が鳴り、冷蔵庫が唸り、遠くの道を車が通った。人がいない家にも、まだ生活の残響がある。


 孝は父のノートと、自分のノートを並べて座った。


 私はなぜ私であるか。


 父の字を指でなぞる。


 母の嘘。父の死。由香の涙。死亡届。窓口。赤鉛筆。冷めた味噌汁。賞状。父の酔った声。五つのV。自分が母を言い負かした夕方。言い負かした後、母が何も言わずに鍋の火を弱めた音。


 記憶は、真っ直ぐには戻ってこなかった。


 ひとつ思い出すと、その下から別のものが出てきた。自分が正しかったこと。正しかったのに、残酷だったこと。母が嘘をついたこと。嘘をつきたくてついたのではなかったこと。父が大きな人に見えたこと。大きな人ではなかったかもしれないこと。


 あれは、母が負けた音ではなかった。


 孝はようやく、そう思った。


 泣かないために、母は鍋の火を弱めただけだったのかもしれない。煮え立つ湯気を鎮めるように、自分の中で立ちのぼるものを、ただ必死に押さえようとしただけだったのかもしれない。


 真実は、刃ではなかった。


 少なくとも、孝が思っていたような刃ではなかった。抜けば誰かを黙らせられるものではなかった。むしろ逆だった。見れば見るほど、自分の立っている場所が崩れていく。自分が裁く側にいるのではなく、裁かれるもの、許されてきたもの、知らずに踏んできたものの中にいるとわかってしまう。


 それでも、目を逸らさないこと。


 たぶん父は、そのことを言おうとしたのではないか。


 朝になって、孝は仏壇の引き出しを開けた。


 そこには母の数珠と、古い通帳と、使いかけの便箋が入っていた。便箋には何も書かれていなかった。宛名も、本文もない。ただ一枚目の端に、薄く鉛筆で線が引かれていた。母は何かを書こうとして、結局やめたのだろう。


 孝はその白い便箋を、長いこと見ていた。


 死亡届には、言えなかった日の数を書く欄はなかった。


 父が死んだ日。

 翌日。

 その次の日。

 半年後の、味噌汁の夕方。

 孝が家を出て、あまり帰らなくなった年。

 由香が母の世話をしながら、兄へ電話するか迷った夜。


 どれも書類にはならなかった。だからといって、なかったことにはならなかった。


 孝は父の紙片と、自分の中学時代のノートを封筒に入れた。捨てるつもりだった。だが、捨てなかった。残す理由を説明することはできない。まだ使えるからでも、誰かが要るかもしれないからでもなかった。


 ただ、そこにあった。


 出発の前、台所に立ち寄った。食器棚には、由香が洗って伏せた湯呑みが二つ並んでいた。孝はそのうち一つを手に取った。母がよく使っていた、縁の欠けた薄青い湯呑みだった。


 死亡届には書けないものだった。


 戸籍にも、住民票にも、相続の書類にも出てこない。だが母はこれで茶を飲み、父の話を避け、由香の話を聞き、孝の帰らない正月にも棚の奥へ戻したのだろう。


 孝は湯呑みを新聞紙で包み、鞄の底に入れた。


 玄関を出る時、仏間の方を一度だけ振り返った。


 我、真実の力に依りて生きながらに万象に打ち克てり。


 かつてその言葉は、孝にとって勝利だった。世界の曖昧さを斬り捨て、自分だけが正しい場所に立つための旗だった。


 今は違った。


 真実の力とは、誰かを黙らせる力ではない。母の弱さも、父の不在も、妹の沈黙も、自分の冷たさも、ひとつずつ原因として見てしまう力だった。見てしまえば、もう昔のようには勝てない。だが、勝てないことを知ってなお生きているなら、それは敗北だけではないのかもしれなかった。


 孝は鍵をかけた。


 鞄の底で、湯呑みがかすかに重かった。


 それは真実と呼ぶにはあまりに小さく、嘘と呼ぶにはあまりに温かかった。






お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


今回は、「真実」をテーマに書きました。

本当に真実を見るとは、相手の嘘だけでなく、自分の冷たさや未熟さまで見てしまうことなのかもしれません。


死亡届には、人が死んだことは書けます。

でも、言えなかった日々や、弱めた味噌汁の火や、欠けた湯呑みに残った生活までは書けません。


そういう、書類にならない真実を書きたいと思った次第です。


なお、題名の「我、真実の力に依りて生きながらに万象に打ち克てり」は、ラテン語句 Vi Veri Universum Vivus Vici の意訳です。古典そのものからの引用というより、近現代に広まった標語で、映画『Vフォー・ヴェンデッタ』によって有名になった言葉でもあります。本作では、その大仰な一句を、孝が若い日に誤読し、人生の支えにしてしまった言葉として扱いました。


お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。

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