10.「北の要塞」
翌朝、私は父と別れの挨拶を交わしていた。
エクセキューター邸の玄関前では、馬車が待っている。
「お父様、本当に大丈夫なんですか?」
私は心配そうに尋ねた。
父はまだ毒の影響が残っているはずだ。
「大丈夫だ。処刑人は頑丈にできている」
父は笑った。
「それに、シーナとの離婚手続きも始まる。これからは、もっと自由に生きられる」
「お父様も、ですか」
「ああ。お前と同じだ」
父は私の肩に手を置いた。
「エリーゼ、北の辺境は厳しい場所だ。戦場に近い」
「わかっています」
「だが、お前なら大丈夫だろう」
父は微笑んだ。
「お前は誰よりも強い。そして——もう一人じゃない」
父の視線が、馬車の横に立つポール・バーバルマンに向けられた。
ポールは軍服姿で、馬車の準備を監督している。
「彼は、良い男だ」
父は小声で言った。
「お前を大切にしてくれるだろう」
「お父様!」
私は顔が赤くなった。
「何を言って——」
「父親には、わかるんだよ」
父は穏やかに笑った。
「彼がお前を見る目が、違う」
(え……そうなの?)
私は戸惑った。
ポール様が、私を?
(いや、それは軍略顧問として評価してくれているだけで……)
「エリーゼ、幸せになれ」
父は私を抱きしめた。
「それが、お前の母の願いだった」
「……はい」
私は父の胸で、静かに頷いた。
「では、行ってきます」
「ああ。元気でな」
父は私を離し、手を振った。
私は深く一礼して、馬車に乗り込んだ。
馬車の中は、意外と快適だった。
クッションの効いた座席、小さな窓、そして——
ポール・バーバルマンが向かいに座っている。
(うわ、二人きり)
私は少し緊張した。
「エリーゼ嬢、昨日はよく頑張ったな」
ポールが話しかけてきた。
「いいえ……ポール様のおかげです」
「俺は、証言しただけだ」
ポールは首を振った。
「君が自分の力で、真実を暴いた」
「でも、ポール様が来てくれなければ——」
「そんなことはない」
ポールは微笑んだ。
「君は自分の力で乗り越えたんだ」
私は少し嬉しくなった。
この人は、本当に誠実だ。
偏見を持たず、実力だけを見る。
(お父様が言っていた『良い男』って、そういう意味だったのかな)
「ところで、エリーゼ嬢」
ポールが真剣な顔になった。
「北の辺境について、説明しておきたいことがある」
「はい」
私は姿勢を正した。
「北の辺境は、ガルゼイン帝国との国境に位置する」
ポールは地図を広げた。
「ここが俺の領地、バーバルマン要塞だ」
地図には、巨大な要塞と周囲の村々が描かれていた。
「要塞には、常に五千の兵士が駐屯している」
「五千……」
「ああ。そして、満月の夜には——」
ポールは真剣な目で私を見た。
「ガルゼイン帝国の魔族が攻めてくることがある」
「魔族……黒豹に変身する種族ですね」
「そうだ。彼らは満月の夜、巨大な黒豹になる。」
ポールは地図を指差した。
「俺の仕事は、彼らの侵攻を防ぐこと。そして——」
ポールは少し表情を曇らせた。
「できるだけ、無駄な血を流さないことだ」
「無駄な血?」
「ああ」
ポールは窓の外を見た。
「俺は戦争が嫌いだ」
私は驚いた。
(『氷将軍』と呼ばれる人が、戦争が嫌い?)
「意外か?」
ポールは苦笑した。
「俺は軍人だが、戦いたくて戦っているわけじゃない」
「では、なぜ?」
「守るためだ」
ポールは静かに言った。
「北の辺境の人々を。王国を。そして——」
彼は私を見た。
「無実の者が、陰謀で傷つけられないようにするためだ」
私は胸が熱くなった。
この人は——本当に誠実だ。
「エリーゼ嬢、君に頼みたいのは——」
ポールは地図を畳んだ。
「戦を終わらせる方法を、一緒に考えてほしい」
「戦を……終わらせる?」
「そうだ」
ポールは頷いた。
「俺たちとガルゼイン帝国は、何十年も戦い続けている。だが、なぜ戦うのか、もう誰もわからない」
「それは……」
「ただ、国境があるから。敵だから。そう思い込んでいるだけだ」
ポールは拳を握った。
「俺は、この無意味な戦いを終わらせたい」
「でも、それは簡単ではありません」
「わかっている」
「ガルゼイン帝国にも、事情があるでしょう。そして、両国の間には深い不信感がある」
「その通りだ」
ポールは微笑んだ。
「だからこそ、君の知恵が必要なんだ」
「私の?」
「ああ。君は戦略家だ。戦術だけでなく、政治も理解している」
ポールは私を見つめた。
「君なら、戦を終わらせる方法を見つけられる」
私は少しプレッシャーを感じた。
(戦を終わらせる……そんな大それたこと、私にできるのかな)
けれど——
昨夜の裁判を思い出した。
私は、真実を暴いた。
陰謀を明らかにし、無実を証明した。
(ならば、戦を終わらせることも——できるかもしれない)
「わかりました」
私は頷いた。
「全力で、考えます」
「ありがとう」
ポールは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私は少しドキッとした。
(あれ……今の笑顔、めっちゃかっこよかった)
私は慌てて窓の外を見た。
(い、いや、何を考えてるんだ、私)
(ポール様は上司で、私は部下で——)
「エリーゼ嬢、顔が赤いぞ?」
「え!?」
私は慌てて顔を隠した。
「だ、大丈夫です!ちょっと暑いだけで!」
(くっ、動揺しすぎた)
ポールは面白そうに笑った。
「君は本当に、面白いな」
「う……」
私は恥ずかしくなって、俯いた。
(処刑人の娘として冷静に生きてきたのに、何でこんなに動揺してるんだ)
私たちがこんなやりとりをしている中、馬車は、北へ向かって走り続けていた。
三日後、私たちは北の辺境に到着した。
バーバルマン要塞——
それは、想像以上に巨大だった。
高い石壁、監視塔、そして無数の兵士たち。
「すごい……」
私は思わず呟いた。
「これが、北の辺境の要だ」
ポールは誇らしげに言った。
「この要塞が落ちれば、王国全体が危険にさらされる」
「責任重大ですね」
「ああ。だから、俺は中央貴族から嫌われている」
ポールは苦笑した。
「予算を要求しすぎる、と」
(でも、必要な予算なのに)
私は憤りを感じた。
中央貴族は、現場を知らない。
戦場の厳しさを理解していない。
「さあ、中に入ろう」
ポールは馬車を降りた。
私も後に続く。
要塞の門をくぐると、兵士たちが整列していた。
「バーバルマン様、お帰りなさいませ!」
兵士たちが一斉に敬礼した。
「ただいま。皆、変わりないか?」
「はい!」
ポールは一人一人に声をかけた。
(ああ、この人は兵士たちから慕われているんだな)
私は感心した。
「紹介しよう」
ポールは私を指差した。
「こちらは、エリーゼ・エクセキューター。今日から、俺の軍略顧問として働いてもらう」
兵士たちがざわめいた。
「エクセキューター?処刑人の?」
「あの有名な……」
「軍略顧問?女性が?」
(ああ、やっぱりこうなるよね)
私は予想していた反応に、少し苦笑した。
「エリーゼ嬢は優秀な戦略家だ」
ポールは毅然と言った。
「彼女の知恵が、この要塞を守る。それだけを覚えておけ」
兵士たちは戸惑いながらも、敬礼した。
「はい!」
私は一礼した。
「エリーゼ・エクセキューターです。よろしくお願いします」
兵士たちは、複雑な表情で私を見ていた。
疑い、好奇心、そして——少しの恐怖。
(まぁ、仕方ないか)
私は気にしないことにした。
どうせ、実力で証明すればいい。
「では、執務室に案内する」
ポールは私を建物の中へと導いた。
石造りの廊下を歩く。
壁には、過去の戦いの記録が掲げられている。
「ここが、君の執務室だ」
ポールは扉を開けた。
中には、机、椅子、本棚、そして——
壁一面に張られた地図。
「わぁ……」
私は興奮した。
これは、戦略家にとって最高の環境だ。
「気に入ったか?」
「はい!」
「ありがとうございます、ポール様」
「礼を言うな」
ポールは微笑んだ。
「君が働きやすい環境を整えるのは、当然だ」
彼は地図を指差した。
「これが、北の辺境とガルゼイン帝国の国境線だ」
私は地図を見つめた。
要塞の位置、兵力配置、補給ルート——
全てが記されている。
「まずは、この布陣を見てほしい」
ポールは説明を始めた。
「ガルゼイン帝国は、満月の夜に攻めてくることが多い。だから、満月前には兵力を増強する」
「なるほど」
私は地図を分析した。
「でも、これだと西側の補給ルートが脆弱ですね」
「……その通りだ」
ポールは驚いた顔をした。
「気づくのが早いな」
「以前も指摘しましたよ」
私は微笑んだ。
「ここを断たれたら、要塞は孤立します」
「では、どうすればいい?」
「西側の補給ルートを二重化します。メインルートとサブルートを作り、片方が断たれても補給が続くように」
私は地図に指を走らせた。
「さらに、要塞内に一か月分の備蓄を確保します」
「一か月?それは多すぎないか?」
「いいえ。万が一、包囲された場合に備えてです」
私は冷静に答えた。
ポールは感心したように頷いた。
「すごいな、君は」
「処刑人の娘ですから」
私は淡々と言った。
「最悪の事態を想定するのは、得意なんです」
(死の隣で生きてきたからね)
ポールは笑った。
「よし、では早速——」
その時、扉が激しくノックされた。
「バーバルマン様!緊急事態です!」
兵士が飛び込んできた。
「どうした?」
「ガルゼイン帝国の斥候が、国境を越えました!」
「何?」
ポールの表情が変わった。
「今夜は満月ではないぞ?」
「はい!それなのに、魔族の気配が……!」
兵士は慌てた様子だった。
ポールは地図を見た。
「何か、おかしい」
私も同じことを感じた。
(満月以外の夜に、魔族が動く?)
(それは……何かの罠か?)
「エリーゼ嬢、すまないが早速だ」
ポールは私を見た。
「君の知恵を貸してくれ」
「はい」
私は頷いた。
そして——地図を見つめた。
(さあ、戦略家エリーゼの初仕事だ)
(見せてやろう。処刑人の娘の実力を)
満月ではない夜。
けれど、何かが動き始めている。
それは——新たな陰謀の予兆だった。




