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7.クラッ

 それ以来、写真集の撮影の日は真兄が迎えに来てくれるようになった。

 真兄は相変わらず忙しそうだったけど、春を過ぎたあたりから何やら生き生きしていた。


「真兄、好きな人でもできたの?」

「いや? まぁでも、いい友だちになれそうな奴ならいる」

「ともだち? 男の人?」

「いや、女の人だよ。映画の趣味がめちゃくちゃ合うんだ。歴代のお気に入りトップスリーが完全に一致して、思わずその場でハイファイブしたわ」

「そっか、よかったね」

「おう」


 中でも、わたしを迎えに来てくれるときはいつも以上にゴキゲンだった。

 車を降りて助手席のドアを開けながら、何やらニコニコしている。ニコニコと言うより、ニヤニヤと言った方がいいかもしれない。面白いことを見つけたときの表情だ。困るのは、真兄にとって面白いことがほかの皆にとっても面白いとは限らないことだ。


「よぉ」

「今日もありがとう」

「茜、今日うち泊まっていくか。英語の勉強見てやるよ」

「えっいいの? 今度のテスト、ピンチだったんだ」


 家の最寄り駅まででいいと言ったのに、わざわざロケ場所まで迎えに来てくれたこともあった。最初に真兄に気付いたのは奈津美だった。トントンとわたしの肩を叩き、背後を指さした。


「茜、あれ……」

「うん? あっ」

「うす」


 そう言って片手を上げた真兄は胡散臭い笑顔を張り付けたまま寄って来て、傍にいた西さんにぺこりと頭をさげた。


「はじめまして、いつも茜がお世話になってます」

「あ、いえ、こちらこそ。奈津美のマネージャーの西です」

「真吾です。茜の兄貴の友人で」

「そうでしたか。お兄さんのお友だち……」


 西さんは微妙な顔をしていた。

 でも、わたしはもっと微妙な顔をしていたに違いなかった。


「ねぇ真兄、どうしてあんな変な言い方したの?」


 車に乗り込むなり尋ねる。


「嘘はついてねぇぞ」

「でも、普通に従兄だって言えばいいのに。苗字も言わないし。『真吾です』って。なんか源氏名みたいだったよ。一応言っとくけど、西さん結婚してるからね」

「安心しろ。あの人を狙ってはない。そもそもあれは西さんに向けて言ったんじゃないんだよ」

「じゃあ誰に?」


 真兄は肩を震わせて笑った。


「俺のことを毎度すごい顔で睨みつける誰かさん」

「えっ? 誰? 奈津美?」

「いや、まぁそのうちわかるって」

「ふぅん」

「俺の正体知ったらどうすんだか、あいつ」


 真兄の楽しそうな様子の理由はわからないまま春を越え、初夏を迎えて―― 

 ついにその日がやって来た。

 写真集の撮影最終日だ。

 秋からはわたしの後任のアルバイトさんが決まっているので、鳥飼さんに会うのはこれで最後になるだろう。

 撮影終了後、みんなで打ち上げに向かった。

こじんまりとしたレストランを貸し切っての打ち上げだった。

 奈津美を筆頭に、スタッフさんたちが一人ずつ挨拶をしていく。

 わたしは最後の方に本当に短くお礼の言葉を述べた。緊張していたのであまりちゃんと覚えていないけど、いい経験だった、一生忘れない、この経験を今後に生かしたい、というようなことを言った。どれも本心だった。

 食事も終わってそれぞれが盛り上がっている中、ひとりそっと抜け出してトイレに行った。用を足してから手を洗い、鏡の前で髪の毛を整える。そして、口角を上げた。

 ちゃんと笑えている。

 そのことを確認し、トイレから出て戻ろうとしたら、横から声がかかった。


「倉持さん、ちょっといいかな」


 鳥飼さんだった。

 あの日以来、鳥飼さんとも西さんとも最低限の話しかしていない。ときどき二人から気づかわしげな視線を感じたけど、どうしていいかわからなかった。

 大人な関係の二人と、お子ちゃまなわたし。


「今日で最後だから、少し話をしたくて」


 鳥飼さんが静かに言った。


「はい」


 鳥飼さんはクイ、と首をかしげてお店のバックヤードを示した。外に出よう、ということなのだろう。

 裏口を出ると、そこはビルの隙間だった。狭くて少し湿っぽい。

 鳥飼さんと向かい合って立った。

 正面から向き合うのは久しぶりだ。

 鳥飼さんは相変わらず涼しげだった。

 ビルの隙間が狭いせいで距離が近い。ドキドキという音が聞こえてしまいはしないかと不安で、何か話してほしいのに、鳥飼さんは一向に口を開こうとしなかった。何かためらっているみたいに下唇を噛んでいる。

 だから、わたしが代わりに明るい声をだした。


「鳥飼さん、ありがとうございました。撮影現場を見ることができて本当に楽しかったです。奈津美の写真集、出来上がりを楽しみにしています」


 さっきの挨拶と同じようなことを繰り返す。

 思いつめたような表情の鳥飼さんから何かを聞くのが怖かった。

 もしかしたら西さんとのことを打ち明けられるのではないかと思った。だから、遮るように次々と言った。


「実は将来の夢、決まったんです。世界中の美術館と交渉して、日本の美術館での企画展示の橋渡しをする仕事です。『オルセー展』とか『ルーブル展』とか、画家なら『フェルメール展』とか。美術館で鳥飼さんとお話ししたときに、わたしは一瞬を切り取るよりも、切り取られた一瞬の奥を想像する方が好きなんだって気付いたんです。美術館へ行って絵を見たり、写真を見たり。それが何よりも幸せなんです。絵を描くよりも、もっと。だから、たくさんの人に同じように楽しんでほしい、そのお手伝いがしたいなって」

「そっか」


 答えが短い。余計に焦る。


「あの、逆もあるんです。日本の芸術家が海外で個展を開くときのエージェントとしての仕事も。だからもしかしたら、またいつか鳥飼さんにお会いできるかもしれません。そのときは、お仕事で」

「……うん」


 うまく笑えているかわからない。

 自信はなかった。

 でも、真兄の言った通り白いワンピースを着ているおかげか、気持ちはいくらか落ち着いていた。少なくとも泣きそうになったりはしなかった。

 鳥飼さんが「堺雅人笑い」のまま黙っているので、わたしはまた言葉を連ねる。


「わたし、鳥飼さんにお会いできて本当によかったです。展覧会に行ったのがきっかけで、こうやって将来の夢もできて。いいことばっかりでした」


 そう、本当に。

 いいことばかりだった。

 ふ、と気持ちが軽くなった。

 鳥飼さんは「どんな道を選んでも幸せになれる」と言った。その意味がたった今わかった。

 幸せは、なるんじゃなくて見つけるものだ。

 鳥飼さんはきっと幸せを見つけるのが上手な人なのだ。苦しいときでも、その中に幸せを見出せる人だ。

 わたしも、そんな人になりたい。


「本当にありがとうございました」


 深く頭を下げた。

 顔を上げると、鳥飼さんはじっとわたしを見つめていた。

 つかの間の沈黙の後、鳥飼さんが口を開いた。


「俺の方こそ」


 押し殺したような声だった。

 これで本当にお別れみたいなやり取り。

 でも、またいつか仕事で会えるかもしれない。そのときに「大人になったな」と思ってもらえたらいい。欲を言えば「素敵な女性になったな」と思ってもらえれば。そのために今できるのは、夢をかなえる努力をすることだけだ。

 わたしは深呼吸をした。


「鳥飼さんのお話というのは?」


 どんな話だったとしても、今ならきちんと受け止められる気がした。

 鳥飼さんが唾を飲んだのが、喉の動きでわかった。


「……最近よく倉持さんを迎えに来る人のことだけど」

「はい」

「付き合ってるの?」


 何を言っているんだろう。

 そう思うと同時に、真兄が何を企んでいたのかわかってしまった。かたくなに従兄妹という関係を明かそうとしなかったのは、鳥飼さんに勘違いをさせるためだったみたい。勘違いさせてどうしたかったのかは、よくわからない。


「倉持さんが誰と付き合っていたとしても俺には関係ないことだけど」


 ――関係ない


 何を言われても大丈夫だと思ったのに。

 地面が消えた気がした。


「でも知り合いとして、倉持さんが傷つくところは見たくない。だから忠告をと思って。相手が信頼に足る人かどうか、きちんと確かめたほうがいい」


 『知り合い』

 それって少し遠いような。

 でも実際のところそれ以上でもそれ以下でもないのだと、すぐに思い直す。

 大きく息を吸った。吐き出した声は震えていた。


「あの人は……小さいころからよく知っている人です。女性に対して誠実とは言えないかもしれませんが、少なくともわたしを傷つけるようなことはしません。だから、鳥飼さんに心配していただくようなことは何も」

「誠実じゃないと……知ってたんだね」


 鳥飼さんはどうやら真兄の女性関係を知っているらしい。わたしも知っている。ただ、それを知って傷つくような関係にはない。

 わたしが頷くと、鳥飼さんは下唇を噛んだ。


「わかっていてそれでも……というなら、俺から言えることはもう何もない。でも――」


 体の横でぎゅっ握られた手がブルブルと大きく震えていた。


「それなら、俺は何のために拒んだんだ」

「え?」

「何のために押し殺したんだ」


 悔しそうな声だった。


「おしころした……?」


 ――なにを?


 そう思った瞬間、ぐい、と体が前に出た。

 鳥飼さんに抱き寄せられたのだとわかるのに少し時間がかかった。


「あの……鳥飼さん?」

「身勝手な願いだとわかってる。でも、倉持さんを心から大切にしてくれる相手と一緒にいてほしい。そうでないと……俺は何のために自分の気持ちを抑え込んだのか。倉持さんが不誠実な人間と付き合って傷つくためじゃないんだよ。頼むから――」

「あの……」


 それはもしかして。

 血が逆流している気がする。ドクドク、ドクドク。

 そこに加わった背後からのキイーという音に振り向くと、薄く開いたドアの隙間から西さんがこちらを見ていた。


「あっごめっ……ちょ、え、あの、茜ちゃんの姿が見えないからと思って、いや、その、無事なら、ちょ、ごめ、じゃま、え、あ、ええと、おめっ」


 西さんは慌てたように短い音を重ね、最後に祝福の言葉らしきものを残してドアの向こうに消えた。

 呆気に取られていると、鳥飼さんがぎゅっと腕を縮めた。


「西のことは嘘なんだ」

「えっ?」

「学生時代に付き合ってたのもフラれたのも本当だけど、未練は全くない。数年前に仕事を通じて再会して、それ以来お互いに気の置けない友人として付き合ってきた」

「それならどうして……」

「ああでも言って遠ざけないと倉持さんに手を伸ばしてしまいそうだった。俺はあまりにも……あまりにも強烈に、倉持さんに惹かれてたから」


 本当だろうか、と頭は一瞬思ったのに、心の深いところではもう確信していた。

 本当だ。

 鳥飼さんから伝わる体温がそう告げていたのかもしれない。


「……ふっ……」


 声が漏れた。

 鳥飼さんが頭上で驚いている。

 泣いたりしないと思っていたのに、全然我慢できなかった。

 これじゃあ余計に子どもっぽいと思われるだろうに、わかっているのに止まらない。

 流れ出した涙を隠そうと、顔を両手で覆った。


「倉持さん?」


 鳥飼さんの腕の力が緩んだ。

 焦っているような声がする。


「ああ、急に抱きしめたりしてごめ――」


 わたしは顔を覆ったまま首を横に振り、震える声で何とか言った。


「いいえ、そうじゃないんです。そうじゃなくて……名前を、呼んでくれませんか」


 鳥飼さんが息をのんだのがわかった。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、その吸い込んだ息が音になって吐きだされる。


「あかねちゃん」


 噛み締めるみたいだった。色の名前と同じはずなのに、色を呼ぶときとは全然声が違っていた。

 名前を呼ばれただけでこんなに暖かい気持ちになるなんて。

 トン、とおでこを鳥飼さんの胸にくっつけた。

 ボロボロ涙はこぼれていたけど、心は幸せなものでいっぱいだった。

 わたしがくっついたのが合図だったみたいに、ぎゅう、とまた強く抱きしめられた。


「やばいな。わかってたけど。離せなくなる」


 鳥飼さんが短くつぶやいた。

 なにがなんだかわからないのに、鳥飼さんの言葉の意味はちゃんとわかった。わたしも同じ気持ちだったからだ。


「ダメだ。好きだ」


 次から次から涙があふれて、ちゃんと話をできるようになるまでにたぶん三十分くらいかかったけど、鳥飼さんは辛抱強く待ってくれた。

 ようやく落ち着いて、コンクリートの階段に並んで腰掛けた。

 ビルの隙間からは小さな空が見える。


「……真兄が言った通りでした。クラッて」

「ん?」

「白いワンピースを推されたんです。従兄から。あの、迎えに来てくれていた人です」

「いとこ?」

「はい」

「……いとこ?」

「はい」


 隣に座っていた鳥飼さんが頭をがっくりと落とした。そして、深く深く息を吐く。吐き終わると、低く笑った。


「いとこ、か……」

「兄と同い年で、二人ともお兄ちゃんみたいなもので」

「そうか、てっきり……」

「でも、わたしは鳥飼さんのことが好きだって」

「バレンタインのときはね。でも人の気持ちは変わるものだから。俺に心変わりを責める資格なんかあるはずもないし」


 鳥飼さんは自分の髪をくしゃくしゃにした。いつも整っている黒い髪の毛がくしゃくしゃになると、少しだけ幼く見えた。


「ホワイトデーの日に、腕を組んで歩いているのを見かけたんだ」

「あ、わたしと真兄ですか?」

「うん。その数日後に……別の女性と親しげにしているところを見て」


 鳥飼さんは控えめな言い方をしたけど、真兄のことだから相当親しげ(・・・)だったにちがいない。


「……わたしが遊ばれてると?」

「そうであってほしくないと願って、ハラハラしてた」

「そうだったんですか」


 鳥飼さんは片手で顔を上から下までグイッとこすり、また深いため息をついた。


「何が大人なんだか。心配して、やきもきして、ガキみたいに嫉妬して。自分が拒んだくせに、苦しくて仕方なかった」


 あの駐車場での西さんとの会話の意味がやっとわかった。

 わたしの気持ちを失ったと、思っていたんだ。


「茜ちゃん」


 真新しい呼び名を、鳥飼さんが少し嬉しそうに口にした。

 わたしは少しどころではなく嬉しくそれを受け止めた。


「はい」

「これでも随分抵抗したけど、完全に失敗した。もし今でも望んでくれるなら、俺と付き合ってほしい。大切にするから」


 鳥飼さんはわたしの目をまっすぐに見つめて言った。

 だからわたしもまっすぐに見つめ返しながら答えた。


「はい」


 息をするのが難しかった。

 たぶん、胸がほかのものでいっぱいで、空気の入る隙間がほんの少ししか残っていなかったのだと思う。


「二倍も生きてるけどいい?」

「それはわたしの台詞です。二分の一しか生きていないのにいいんですか、と。でも、ちゃんと縮まっていきますから」


 鳥飼さんは首を傾げた。


「わたしが一歳の時、鳥飼さんは十九歳で、二歳の時は二十歳でした。最初十九倍だったのが次の年には十倍になって、七倍になって……やっと二倍まで縮まったんです。これからも縮まり続けます」


 そのことに気づいたとき、素敵な発見をしたみたいで嬉しかった。

 でも、その発見を共有した今の方がずっと嬉しい。

 鳥飼さんも、それを素敵なこととして受け止めてくれているようだった。


「ほんとうだね」


 トントン、と背後のドアをノックする音がして、ゆっくりとドアが開いた。

 遠慮がちに顔をのぞかせたのは、またしても西さんだった。


「ちょっとお邪魔します。そろそろお開きで……」

「あ、もうそんな時間ですか」

「うん。高校生は帰宅タイムで、大人はこの後二次会って感じ」


 ドアと壁の隙間からわずかに顔を出したまま、西さんはわたしたち二人を交互に眺めた。


「俺は倉持さんを送ってから戻って合流するよ」


 鳥飼さんが立ち上がりながらそう言うと、西さんはふぅ、とため息のようなものをついた。


「ようやくまとまったみたいね」

「うん」

「あぁよかった。安心した。ビルから外に出るときにドアをノックしたのは初めてだったわ。貴重な体験をどうも。茜ちゃん、本当にこのおっさんでいいのね? 茜ちゃんならよりどりみどりだよ?」

「オイやめろ」


 わたしは笑いながら答えた。


「鳥飼さんがいいです」

「よし、じゃあ茜ちゃんはおっさんに任せた。ちゃんと家に送り届けてね。茜ちゃんに関する責任はわたしが負ってるんだから」

「わかってるよ」


 鳥飼さんはそう言って低く笑った。

 お店の中に戻って荷物を取り、鳥飼さんとともにお店を出た。

 奈津美に「これでようやく話してもらえるのかな?」と言われてうなずくと、ぎゅうと抱きしめられた。


「よかったね」

「うん」

「今度全部吐いてもらうから覚悟してね」

「うん」


 奈津美を家まで送っていく西さんとの別れ際、西さんが思い出したように言った。


「あ、茜ちゃん。そいつに写真見せてもらってね」

「写真?」


 隣の鳥飼さんを見上げると、鳥飼さんはふいと顔を背けた。でも、いつかみたいに悲しい気持ちにはならなかった。これはたぶん照れているのだとわかったから。

 鳥飼さんと一緒に近くのコインパーキングまで歩く道すがら、家族にメッセージを送る。


〈今日は家まで送ってもらえることになったので、お迎えは大丈夫です〉


 誰よりも早く、真兄から返信があった。


〈了解。俺の作戦が奏功したようで何より〉


 あいまいな表現で従兄妹という関係を隠したのはやっぱり作戦だったみたい。結局のところうまくいったのだから感謝しなくちゃなのだけど、しばらく真兄にニヤニヤされると思うと何だかちょっと癪だった。

 すぐに家族から相次いだ〈作戦って?〉という質問を真兄はふざけたスタンプで躱し、最後に Congrats!というスタンプとともに〈抹殺の話は忘れるな〉と送ってきた。

 それを見ながらクスクス笑っていると、鳥飼さんが不思議そうに言った。


「どうしたの?」

「従兄の真兄が、おめでとうって。でも、その……」


 どう伝えたものかと迷っていたら、鳥飼さんが拾ってくれた。


「節度のある付き合いをしろって?」

「はい」

「それなら、信頼してもらって大丈夫だと伝えておいて。ご家族に嘘をつかなくちゃいけないような付き合いをさせるつもりはない」


 そこで駐車場に到着し、「あの車だよ」と鳥飼さんが車を指さした。暗いから色はよくわからないけど、あたたかな色味のハリアーだった。


「あの、ありがとうございます」


 車に乗り込みながらお礼を言うと、鳥飼さんはこちらを見た。


「何が?」

「その……嘘をつかなくていいようにって。わたしに合わせてくださって。真兄に言われました。リスクもあるって」

「最初から、リスクが怖くて拒んだわけじゃないんだ」


 せまい車内に二人きり。

 鳥飼さんは真剣な目をしていた。

 胸が高鳴りすぎて痛いくらいだった。


「もちろん社会人として、という思いもあったけど、そんなのは二の次三の次だった。ただ、そうだな……きれいすぎて」


 車の外から差し込んだ街灯で、鳥飼さんの頬に三角形に光が当たっている。


「瑞々しくて、純粋で、まっすぐで。自分が手を伸ばしたら汚してしまいそうで。だから拒んだ。正しいことをしたつもりだった」

「汚れるなら、相手は鳥飼さんがいいです」


 鳥飼さんは眉間にしわを刻み、難しい顔をした。


「すごい発言だな」

「でも、あんなに美しい写真を撮る人に汚されるなんて、ありえませんから」


 彼は静かに息をつく。


「きれいが強すぎて、俺の方が浄化される気がしてきた」


 そこで「あっ」と思い出した。


「西さんがおっしゃってた、写真っていうのは?」


 鳥飼さんは黙ってデジカメを取り出した。お仕事用の大きなカメラではなくて、いつも持っている小型のデジタル一眼だ。

 小さな画面を見ながら少し操作した後、カメラをこちらに差し出してきた。

 わたしが受け取ると、鳥飼さんはシートベルトをしてゆっくりと車を出した。

 わたしもシートベルトをしなくちゃならなかったのだけど、カメラを持ったまま動けなかった。


 ――これは。


 映し出されていたのは、いつか見た茜空だった。

 手前にわたしが写っている。座って空を見上げるわたしの髪が、風になびいている。

 写真には無限の世界の広がりがある。

 わたしの言葉だ。

 その写真は、たしかに無限の世界を持っていた。

 この前には絵を描いていた。この後には鳥飼さんと並んで話をした。そして鳥飼さんを好きだという自分の気持ちに気づいた。

 そして、枠の外――カメラを構えているその人が、その瞬間何を思ったのか。


「あまりにもきれいで」


 隣の人が、静かに答えを告げた。


「思わずカメラを構えてた。たぶんシャッターを切った瞬間に、恋を自覚した」


 写真は真実を写していた。


「同意を得ずに撮ってしまったから、すぐに消そうと思った。でも、どうしても消せなかった。あ、誓ってその一枚だけだよ」


 鳥飼さんの言葉が半分くらい流れていく。

 わたしは写真にすっかり魅入られていた。

 二人が恋を自覚したのが同じ茜空の下だったなんて。

 なんてきれいなのだろう。

 空も、気持ちも。


「この写真、一枚もらえませんか?」

「もちろんいいよ」

「部屋に飾ります。きっと、この写真を見るたびに鳥飼さんのことを思い出します」

「その写真に俺は写ってないけどね」


 鳥飼さんは茶化すようにそう言ったけど、通じているはずだった。


「ちゃんと鳥飼さんもいますよ」


 鳥飼さんは静かにうなずいた。


「そうだね。写真の世界は広がるからね」

「はい」


 広がった世界の中には、ちゃんと鳥飼さんがいる。



****************



 鳥飼さんが焼いてくれたその写真のパネルは、その先ずっとわたしの部屋に飾られた。

 お兄ちゃんと真兄にそれぞれの幸せが訪れたときも。奈津美が世界に旅立ったときも。

 わたしが大学に入ってからも、留学している間も、大学を卒業して一人暮らしを始めても、それが二人暮らしに変わっても。

 部屋に入って最初に目につくのは、いつもあの日の茜空だった。




   FIN





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