プロローグ「未来の残響」と第一章「混沌の世界」
プロローグは少し長めですが、後の展開につながる大事な要素や、主人公に関わる伏線がたくさん入っています。
物語が進むほど「あれはこういう意味だったのか」と分かってくる部分もあるので、ぜひ楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
この作品は、英語で書いた私のライトノベルを、日本の皆さんに向けて翻訳したものです。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
プロローグ:未来の残響
すでに、三つの世界は滅びていた。
黄金の尖塔は砕け、空は黒煙に覆われたソラリス。
かつて光に満ちていた森は灰と化し、川は赤く染まったルミナ。
深淵に呑まれ、民ごと虚無の中へ消えたヴァーリス。
もう逃げ場はない。
守るべき王国も、もうどこにも残っていなかった。
ここが最後の戦場。
これが、最後の抗戦だった。
空は燃え、大地はヴェイルの怒りの重みに耐えきれず震えていた。
滅びゆく世界の最後の戦士たちは、ついに訪れた終わりを前に、それでも剣を取っていた。
空は炎と雷の戦場だった。
咆哮する戦艦群が、忘れ去られた時代の憤怒そのもののように砲火を吐き、天上には爆炎の花が咲き乱れる。砕けた残骸は流星のように降り注ぎ、地上では鋼の激突と断末魔が絶え間なく大地を揺らしていた。
空気は血と煙に満ち、戦の匂いは魂そのものに焼きついて離れない。
その嵐の中心に、ヒルは立っていた。
無数の敵の骸と血に染まった白い鎧は、もはや第二の皮膚のように彼の身体へ張りついている。
青く迸る雷光をまとった剣を握る手に力がこもる。
彼の前に押し寄せてくるのは、死そのものの奔流だった。悪魔、ゴブリン、オーク――終わりの見えない魔の軍勢。怪物たちの咆哮が混ざり合い、冒涜的な殺戮の交響曲を奏でている。その存在感だけで息が詰まりそうになるほどだった。人の心をへし折るためだけに生み出されたかのような圧倒的暴力。
それでも、ヒルは一歩も退かなかった。
彼の右には、ひとりの戦士がいた。
混沌の只中にありながら、その純白の鎧はなお輝きを失わない。まるで戦場そのものを拒絶しているかのように。
長い金髪が風になびき、その奥にあるのは静かな決意を湛えた顔。濃い蒼の瞳は、狂気に満ちた戦場を前にしてなお微塵も揺るがない。
鋭く気高い顔立ちは、彼女がただの兵士ではないことを物語っていた。
エルフ。姫。いや――王たる器の者。
白銀の鎧には複雑なルーンが刻まれ、風の魔力を帯びて淡く明滅している。頭上の青い王冠は夜の中の灯火のように煌めき、彼女がひとたび身を動かすたび、まるで嵐そのものが味方しているかのようだった。
彼女の周囲の空気は、その意思に応じてしなやかにうねり、舞う。
風を支配するその力は圧倒的だった。
ただの戦士ではない。
彼女こそが戦場の支配者。解き放たれるのを待つ嵐そのものだった。
左には、もうひとりの女が立っていた。
その身体は震えている。恐怖からではない。悲しみと怒りからだ。
黒い鎧には燃え盛る炎の紋様が走り、それはまるで生きているかのように脈打っていた。短い黒髪は戦いの中で乱れ、しかし彼女の視線は足元に倒れたひとりの男から離れない。
黒と橙の鎧をまとった男が、動かない。
手からこぼれ落ちた剣のそばで、深紅の血だまりだけがゆっくりと広がっていく。
「いや……いやよ……あなたは、ずっと私のそばにいるはずだったのに……」
かすれた声が震える。
呼吸を整えることさえできないほどの悲嘆。それでも彼女は歯を食いしばり、手の甲で涙を乱暴に拭った。
だが――悲しんでいる時間はなかった。
ヒルが前へ出る。
剣を高く掲げ、その声を雷鳴のように戦場へ叩きつけた。
「立て!!」
その一声は混沌を切り裂き、まだ立っている者たちの胸へ火を灯した。
「ここで終わらせるぞ!!」
応えるように鬨の声が上がる。
黒い鎧をまとった戦士たちが炎と鋼を宿した刃を掲げ、前線へ雪崩れ込む。
尾根の上にはエルフの弓兵たちが陣取り、風の魔力を帯びた矢を番える。
上空では戦艦群が再配置につき、次なる一斉射の準備を終えようとしていた。
空は破壊に満ち、地上はこれから血で洗われる。
そして――敵が動いた。
怪物たちの怒濤が、一気に押し寄せる。
錆びた鉈を掲げたオークたちが、ゴブリンを踏み潰しながら前へ出る。
生ける影のように形を変える悪魔たちが甲高い叫びを上げ、空を覆い尽くす。
後方では魔導士たちが杖を掲げ、破滅の術式を編み上げていた。
ヒルは息を吸い込む。
剣に青い炎が噴き上がった。
そこへ雷が走り、熱と電撃が空気そのものを歪ませる。
次の瞬間、彼は消えた。
置き去りにされた衝撃波だけが、音の壁を破ったことを告げる。
再びその姿が現れたのは、敵陣のど真ん中だった。
剣閃が一線、また一線。
鎧も肉もまとめて断ち切り、破壊の舞を描いていく。
人の胴ほどもある巨大な鉈を振り下ろしてきたオークに対し、ヒルは紙一重で身を沈め、そのまま肩へ飛び乗る。宙でひねりを加えながら剣を頭蓋へ突き立て、さらにその死体を踏み台にして別の悪魔へ跳ぶ。
振り抜かれた刃が、次の魔物を真っ二つに断ち割った。
金髪の戦士が、すぐさま彼の隣へ滑り込む。
その動きは冷徹なまでに正確で、そして美しかった。
風の魔力を帯びた剣が唸るたび、衝撃波が幾重にも走り、ゴブリンの群れを神罰の嵐のように薙ぎ払っていく。
ひと振りとともに解き放たれたのは、無数の刃となった暴風。立ち塞がる愚か者たちは、一瞬で刻まれ、吹き飛ばされていった。
その姿はあまりにも荘厳で、息を呑まずにはいられない。
剣も、風も、彼女の身体の延長のようだった。
エルフとしての気品と技量、そのすべてが、まるで天そのものの意志のように戦場を支配していく。
黒鎧の女は、炎と復讐の嵐だった。
振るう剣は敵の武器とぶつかるたび、逆にその鋼を溶かしていく。
突進してきたオークの刃を、彼女は素手で挟み止めた。指先に炎が灯り、次の瞬間にはその剣身が真っ二つに折れる。
そのまま自らの刃を腹へ突き立て、ひねる。
蒼く燃える炎が爆ぜ、オークの身体は絶叫とともに灰へ変わった。
別の悪魔が空から襲いかかる。
彼女は振り向きざま、その喉元を掴み取ると、凝縮した火焔を一気に解放した。
白く焼けた閃光の中、敵は跡形もなく蒸発する。
上空でもまた、別の戦いが繰り広げられていた。
魔導士たちの放った闇の奔流が、幾筋もの影となって戦艦を貫く。
味方の一隻が直撃を受け、船体を炎に包まれながら墜落していく。
凄まじい轟音とともに地面へ突っ込んだその残骸は、敵も味方も区別なく吹き飛ばした。
血に濡れた大地へ滑り込むように着地したヒルの前へ、今度は巨大なオークが立ちはだかる。
彼が振りかぶるのは、自身の二倍はある戦槌。
叩きつけられた一撃は石すら粉砕する威力だったが、ヒルは寸前で躱し、その柄を蹴って宙へ舞い上がる。
落雷のごとき斬撃。
頭蓋が割れ、オークは自分が死んだことに気づく間もなく崩れ落ちた。
そのとき、頭上に影が落ちる。
見上げる間もなく、巨躯の悪魔が空から降り立ち、鋭い鉤爪をヒルの喉元へ振るった。
彼は咄嗟に身をひねり、剣を地へ突き立て、それを支点に宙返りで回避する。
空中で悪魔の角を掴み、その勢いのまま背へ乗る。
雷光をまとう剣が背骨へ突き刺さった。
体内で雷が炸裂し、巨体が痙攣する。
ヒルは刃を引き抜くと、蹴り飛ばすように跳び退き、悪魔の死骸をそのまま味方ごと群がる敵陣へ叩き落とした。
戦場は、まさに地獄そのものだった。
それでも、誰ひとり折れなかった。
一体倒しても、すぐに次が来る。
闇は渦を巻き、ますます濃く、重くなっていく。
戦の圧力が、すべてを押し潰そうとしていた。
ヒルは歯を食いしばる。
全身が焼けるように痛み、四肢にはじわじわと疲労が広がっていた。
それでも彼は止まらない。
最後の息が尽きる、その瞬間まで。
戦いは続く。
肉と鋼がぶつかり合う音が止むことはない。
遠くでは爆発が響き、煙と血の匂いが風に乗る。
大地は震え、空気は硫黄と焼けた肉の臭気で重く濁っていた。
だが、ヒルにとって世界はただひとつだった。
戦うこと。
それだけだった。
戦場の轟音は遠のき、彼の視界には次の敵しか映らない。
剣が閃くたび、血飛沫が舞う。
一歩進むごとに、その身体は無駄なく流れるように動く。躱し、斬り、踏み込み、返す。
彼はもはやひとりの人間ではなく、災害そのものだった。
世界の命運をその背に負いながらも、立ち止まる余裕などどこにもない。
巨躯のオークが斧を振り上げて突進してくる。
ヒルは真正面から踏み込み、一閃でその脚を断ち切った。
膝から崩れ落ちるより先に、剣が頭蓋へ突き刺さる。
傷口から噴き上がった青い炎がオークを内部から焼き尽くした。
だが、もう次へ向かっている。
背後から迫った悪魔を振り向きざま斬り裂き、そのまま槍を突き出してきた別の敵の攻撃を剣で弾く。
喉が裂け、血が溢れる。
青い火花が散り、彼はまた地を蹴っていた。
別の場所では、黒髪の女が嵐のように暴れていた。
彼女の刃から放たれる蒼炎は長大な弧を描き、その軌道上にいるものをまとめて灰へ変えていく。
手を振るえば炎が地を叩き、その反動で彼女の身体は大きく宙へ跳ね上がる。
高く。
戦場の混乱すら見下ろす高さへ。
空中で身をひねり、下方の悪魔たちへ火焔の奔流を放つ。
熱は地面を焼き、瞬く間に一帯を火の海へ変えた。
着地したその瞬間には、もう次の敵の胸板を蹴って再び跳ぶ。
足元の炎を噴射のように使いながら長距離を翔け、その一跳び一跳びが死を運ぶ斬撃となる。
巨体のオーガが振り下ろした大槌を、彼女は爆炎で弾き飛ばした。
続く一撃で背後へ回り込み、剣を背骨へ深々と突き立てる。
爆ぜる音とともに刃が脊髄を断ち、怪物はその場に崩れ落ちた。
それでも彼女は止まらない。
炎と憤怒。
ただひたすらに前へ、前へと進む、止まることのない災厄だった。
白き鎧のエルフは、気高き優雅さそのものだった。
彼女の剣は寸分の狂いもなく敵を切り裂き、その一挙手一投足には一切の無駄がない。
風のように軽やかな身のこなし。その細身の体躯からは想像もできないほどの破壊力が、一撃一撃に宿っていた。
群がるゴブリンの軍勢が彼女へ殺到する。
だがその姿は一瞬でぼやけ、次の瞬間には一体の胸が裂け、さらに跳びかかってきた別の個体も真っ二つになっていた。
煙の奥から現れたのは、禍々しい気配を放つ魔将。
鋭い爪が空を引き裂く。
けれど彼女は微塵も動じず、手首を返して風を呼んだ。
解き放たれた風圧が魔将の腕を絡め取り、その動きを封じる。
そして彼女は炎と風を螺旋状に重ね合わせ、巨大な火炎竜巻を生み出した。
蒼炎と暴風が渦となって魔将を呑み込み、あとには焼け焦げた残骸すら残らなかった。
さらに彼女は、たったひとつの優雅な動作で宙へ舞い上がる。
風の翼がその背を支え、神秘的な光をまとった彼女は、空から竜巻と火焔の嵐を呼び起こし、近づくものすべてを消し飛ばしていった。
だが、戦場の中心にいるヒルの身体には、ついに限界が迫っていた。
青い炎は揺らぎ、手足は鉛のように重い。
鎧は血にまみれ、それでも彼は剣を振るい続ける。
何体倒しても終わらない。
むしろ敵は増えていくばかりだった。
そして――その前に、巨大な魔将が立ちはだかった。
ヒルの呼吸は荒く、視界は揺れる。
だが休んでいる暇はない。
彼は吠えるように踏み込み、剣を振るった。
だがその爪は、押し寄せる津波のように重く、速かった。
次の瞬間、胸を引き裂くような痛みが爆ぜる。
身体が吹き飛ばされ、地面へ叩きつけられる。
骨まで軋む衝撃。
それでも彼は歯を食いしばり、立ち上がろうとする。
ここで終われるはずがない。
膝をつき、青い炎を再び剣へ灯す。
身体は壊れかけていた。
だが、その意志だけはなおも燃えている。
霞む視界の先に、彼は彼女を見た。
混沌の中でも凛と立つ、白鎧のエルフ。
――彼女なら、託せる。
ヒルは残された力を振り絞り、剣を戦場の彼方へ投げ放った。
青い炎を尾のように引きながら、剣は目にも止まらぬ速さで空を裂いて飛ぶ。
彼女はそれを空中で掴み取った。
握った瞬間、青い炎が彼女の全身へ奔る。
その瞳が力に燃え上がり、周囲の風が一気に荒れ狂った。
炎と風が混ざり合い、凶暴な嵐となって渦を巻く。
彼女がただ一言、命じる。
その瞬間、戦場そのものが震えた。
召喚された暴風と火焔の怒りに、目の前の魔将は反応する間もなく呑み込まれていく。
だが、その光景を最後まで見届けることはできなかった。
戦いはなお続いていたが、ヒルの世界はゆっくりと暗く沈んでいく。
もう、すべてを出し尽くした。
戦いは続く。
けれど、彼にとっては、ここで終わりだった。
血と炎の喧騒に満ちていた戦場へ、新たな気配が降り立つ。
それは、空気そのものを押し潰すような邪悪な重圧だった。
影の奥から、彼女は姿を現す。
ヴェイルの闇を統べる将。
歪んだ紫の鎧に身を包み、その動きは惨劇を嘲笑うかのようにしなやかだった。
青白い肌には黒い筋が血管のように浮かび、その口元にはこれから起こる破滅を心から愉しむような笑みが刻まれている。
虚無そのもののように黒い瞳が、悪意を滲ませながらゆっくりと戦場を見回した。
鉤爪が地を叩くたび、足元の大地までもが震えているように見える。
「これはこれは……抵抗の最後の残り火、というわけ?」
その声は死そのもののように冷たい。
すでに満身創痍の黒髪の女が顔を上げる。
手にした剣は、もはや炎の欠片を宿すだけの壊れかけた刃。
白鎧のエルフもまた構えを崩してはいないが、消耗は隠せない。
逃げる余力も、万全の状態で戦う力も残っていなかった。
それでも――二人は一歩も引かなかった。
ヴェイルの将は、嗤う。
片腕を振るうと、その周囲の風景すら彼女の意志に歪められるように揺らいだ。
黒いエネルギーが爪先から爆ぜ、衝撃波が大地を砕きながら走る。
黒髪の女が、残った力のすべてを込めて前へ出た。
手から放たれたのは、灼熱の炎。
だが、将はただ半歩身体をずらしただけだった。
まるで、その炎など塵にも値しないと言わんばかりに。
反応する暇すら与えない。
次の瞬間には、その爪が黒髪の女の胸を裂いていた。
「あっ……」
か細い息が漏れ、身体が崩れ落ちる。
鮮血が戦場へ散り、彼女を包んでいた炎は最後に一度だけ揺らめいて、消えた。
残ったのは灰だけだった。
それを見て、白鎧のエルフが一気に間合いを詰める。
巻き起こした旋風が彼女を守る盾となる。
だが――将の方が速かった。
闇の爪が空間を裂く。
風の障壁はあまりにも容易く破られ、粉々に砕け散った。
次の瞬間、将の手が彼女の喉を掴み、その華奢な身体を軽々と持ち上げる。
「あら、ごめんなさいね」
甘く、残酷な声。
「でも、あなたたちに勝ち目なんて最初からなかったのよ」
そして、たった一度の無慈悲な捻り。
首が砕ける音が響く。
蒼い瞳から光が失われ、その身体は人形のように地へ落ちた。
戦場が、一瞬だけ静まり返る。
将の視線が、ヒルへ向く。
傷だらけの身体でなお膝をつくヒル。
胸は血に濡れ、視界も定まらない。
それでも彼の中の火は消えていなかった。
剣を探す。
だが、もう手元にはない。
彼女が振るっていたあの剣も、砕け散っていた。
将は鼻で笑う。
「哀れね。必死で、滑稽で……」
黒いエネルギーを宿した爪を掲げ、終わりの一撃を放とうとする。
ヒルは立ち上がれない。
それでも、その瞬間――
彼が投げた剣が、青い炎を宿して輝いた。
光を放ちながら宙を駆け、差し伸べられた彼の手へ飛び込んでくる。
握った瞬間、倒れた者たちの想いまで宿したかのような力が、再び彼の中で燃え上がった。
「……俺は、まだ終わらない」
しゃがれた声で、ヒルは唸るように言った。
だが将は笑う。
「いいえ。あなたは、もうとっくに終わっているわ」
次の瞬間、二人は激突していた。
青い炎をまとう剣と、闇そのものの魔力を宿した爪。
ぶつかるたび火花が散り、衝撃が走る。
その一撃一撃には、この戦いの終焉そのものが込められているようだった。
ヒルの身体は限界を超えていた。
それでも瞳の中の炎だけは消えない。
だが、ヴェイルの将の力はあまりにも絶対的だった。
最後の咆哮とともに放たれた一撃が、ヒルの胸を深く貫く。
鎧を裂き、肉を裂き、骨までも断ち切って。
ヒルの身体がびくりと跳ねた。
命が流れ出していく。
血は地面へ広がり、膝から崩れ落ちる彼の手から剣が滑り落ちた。
青い炎が、最後に一度だけかすかに揺れ――そして消える。
残ったのは、ただ闇だけだった。
……だが、それでも終わりではない。
戦場はなお混沌の只中にあった。
血と鋼と炎が渦巻く、終わりなき嵐。
空は魔力によって裂かれ、大地は破壊の重みでひび割れていく。
断末魔は不気味な合唱となり、あたり一面に響き渡っていた。
その中で、ヒルはもう一度、立ち上がろうとしていた。
砕けた鎧が辛うじて身体に張りついているだけの有様。
全身は血にまみれ、今にも倒れそうだ。
それでも、彼の身体はまだ諦めていなかった。
彼の剣はもうない。
白きエルフの戦士へ託し、いまは戦場の彼方にある。
左手の向こうでは、黒鎧の戦士がなおも敵群の中で戦い続けていた。
傷だらけになりながら、それでも炎をまとって。
そして戦場の中心には、なおヴェイルの将が立っている。
深淵の闇を身に纏った、破滅そのものとして。
「しぶといのね、ちっぽけな戦士」
その声音は、甘く歪んだ愉悦に満ちていた。
「でも、しぶといだけでは足りないわ」
掲げられた爪の先に影が渦巻き、無数の虚無の槍となって放たれる。
ヒルは咄嗟に身を翻し、紙一重で回避した。
だが、さっきまでいた場所は闇の爆発に呑まれ、土砂と破片が四方へ吹き飛ぶ。
武器はない。
あるのは、剥き出しの怒りと、身体が砕けるまで戦い抜くという意志だけ。
白きエルフは、嵐の化身のように戦場を駆ける。
歌うような剣筋。
巻き付く風の魔力が、ひと振りごとに暴風となって敵を粉砕していく。
壊れた敵の残骸を踏み台に、さらに跳ぶ。
そして放たれた一閃が、進路上のすべてを消し飛ばした。
反対側では、黒鎧の女が煉獄の化身となっていた。
蒼い炎を宿した両手が敵陣へ火の奔流を叩き込み、悪魔もオークも関係なく焼き払っていく。
彼女は止まらない。
だが、その彼女でさえ感じていた。
もう戦況は、手の届かない場所へ傾き始めていると。
そしてヒルは――
もう何も抑えなかった。
喉の奥から獣じみた咆哮を上げた瞬間、その全身から青いエネルギーが噴き上がる。
炎が爆ぜ、彼は弾丸のように前へ飛び出した。
拳が、ヴェイルの将の闇を纏った身体へ叩き込まれる。
将の身体が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
だが、次の瞬間には反撃が来る。
爪の一閃がヒルを空中へ吹き飛ばし、彼は砕けた大地を滑るように転がった。
それでも止まらない。止まれるはずがない。
再び、彼は突っ込む。
今度はさらに速く、さらに荒々しく。
拳も蹴りも、限界を超えた速度で叩き込まれるたびに空気そのものが弾ける。
ヴェイルの将もまた一歩も退かず、死を宿した爪で応じた。
ぶつかり合うたび、周囲の空間が歪み、地面が裂ける。
互いに譲らない。
どちらも引かない。
「獣みたいな戦い方ね」
将が、ヒルの次の拳を紙一重でかわしながら薄く笑う。
「でも、獣も最後には死ぬのよ」
振り抜こうとした腕を途中で掴まれる。
そのまま捻り上げられ、骨が砕ける音が響いた。
激痛が脳を焼く。
さらに膝が腹へ叩き込まれ、ヒルの身体は再び大地へ激突した。
「これがあなたの限界?」
彼女は見下ろしながら囁く。
「期待外れね」
ヒルは血を吐いた。
唇から零れる赤。
それでも、なお地を掴み、立ち上がる。
身体は悲鳴を上げていた。
それでも心だけは折れない。
戦場の彼方では、白きエルフが敵を斬り裂き続けている。
黒鎧の女もまた、怒りを炎へ変えて戦い抜いている。
二人とも、まだ戦っている。
ならば――
自分も、戦うしかない。
最後の力を振り絞り、ヒルはもう一度だけ将へ飛びかかった。
純粋なエネルギーをまとった拳。
それを迎え撃つのは、闇を宿した爪。
ぶつかった瞬間、衝撃波が地を裂いた。
空気が歪み、時間さえ止まったように感じられる。
次の瞬間――痛み。
焼けつくような激痛が胸を貫いた。
将の爪が、彼の心臓へ届いていた。
ヒルは息を呑む。
視界が滲み、手足から力が抜けていく。
体内の炎が消えていくのがわかった。
膝が崩れ落ちる。
「よく頑張ったわ」
将が、耳元で囁くように言った。
爪が引き抜かれる。
ヒルは膝から崩れ落ちた。
それを、白きエルフが見た。
遠く離れた戦場の中で。
息が止まり、わずかに動きが鈍る。
黒鎧の女は裂けるような叫びを上げ、炎を爆発させながらヴェイルの将へ突撃した。
だが、将はそれすら待っていたかのようだった。
片手を払う。
地面から噴き出した影の触手が、白きエルフの身体を串刺しにする。
彼女の体が震え、握っていた光る剣が手からこぼれ落ちた。
蒼い瞳から、命の光が失われていく。
黒鎧の女は、怒りのすべてを火焔に変えて将へ迫る。
燃え盛る拳が振り下ろされる。
だが将は、それをあまりにも容易く受け止めた。
そして、もう片方の爪を彼女の胸へ突き立てる。
それで――すべてが止まった。
三人の戦士は、もう動かない。
最後の抵抗の火も、最後の希望の残り火も、静かに消えていく。
そのとき。
ヴェイルの闇そのものが、戦場へ満ち始めた。
生きた深淵のように膨れ上がるそれは、あらゆるものを押し潰し、呑み込み、世界そのものを塗り替えていく。
ヒルは、それを見た。
本当の恐怖を。
全身が凍りつくような、魂ごと握り潰されるような圧倒的な恐怖。
これまで戦ってきたどんな敵とも違う。
これは、ただの強敵ではない。
これは、滅びそのものだった。
ヴェイルの将は、倒れた戦士たちの間に立ち、その静寂を味わうように目を細める。
純粋な闇の奔流を纏ったその姿は、もはや戦場の支配者ですらない。
ただ、深淵へ傅く使徒だった。
やがて彼女はゆっくりと片膝をつく。
押し寄せる漆黒へ敬意を示すように。
戦場は、もう戦場ではなかった。
そこはヴェイルの領域。
絶対的破壊の支配する、終焉の王国。
彼女の双眸――虚無そのもののような瞳が、勝利に濡れて輝く。
脈動する闇が大地を呑み込み、残されたわずかな抵抗すら喰らい尽くしていく。
そして彼女は、やがて空を見上げた。
抗う者たちすべてが崩れ去る、その必然の瞬間を待つように。
そして――
ヒルは目を覚ました。
喉が引き裂かれそうなほど荒い呼吸。
全身は汗でびっしょり濡れ、心臓が肋骨を叩くように激しく脈打っている。
彼は反射的に胸を押さえた。
裂けた傷があるはずだった。
だが、そこには何もない。
戦場もない。
すべては夢だった。
いや――記憶か。
それとも、未来の光景か。
わからない。
それでも、魂の奥底で確かに理解していた。
戦いは、まだ終わっていない。
だが彼を本当に震えさせていたのは、ヴェイルの将ではなかった。
あの戦場すべてを呑み込んだ、ヴェイルそのものの闇。
想像を絶する、圧倒的な存在。
これまで何度も死を間近にしてきた。
それでも、あれほど底知れない恐怖を感じたことは一度もない。
あの深淵は、ただの敵ではない。
避けようのない終焉そのものだ。
もう、すでに勝っているかのような――
そんな絶望。
ヴェイルの将は確かにそこにいた。
だが、あれはただの先兵にすぎない。
本当の恐怖は、その先にいる。
そして彼女は――
ヒルを待っている。
第一章「混沌の世界」
ソラリスの都は燃えていた――火ではなく、恐怖によって。
通りを揺れる松明の灯りは、まるで揺らめく星のようだった。
だが、そこに祝いの空気はない。祭りの気配もない。
男たちの怒号、女たちの泣き声、子どもたちの必死な叫び。
それらが折り重なり、恐怖と混乱に満ちた不吉な交響曲を奏でていた。
かつて誇り高く、気高く生きていたソラリスの民は、もはや別の何かになっていた。
追い詰められ、檻に閉じ込められた獣のように、壁へ牙を剥いている。
王宮の巨大な尖塔の下、市場広場はすでに戦場と化していた。
略奪者たちは木製の屋台を荒らし、果物の木箱をひっくり返し、蜜酒の樽を叩き割る。
ひとりの肉屋が、自分の店を守ろうと包丁を振り回していた。
押し寄せる暴徒へ必死に抵抗する。だが、彼はたったひとりだった。
群衆はあっという間に彼を押し倒し、通りへと引きずっていく。
その悲鳴は、飢えた獣のような群衆の咆哮に飲み込まれた。
痩せ細った娘を胸に抱いた男が、王宮の門を守る近衛兵へ必死にすがっていた。
「頼む! 中へ入れてくれ! 王なら何とかしてくれるはずだ……助けてくれ!」
だが、衛兵は答えない。
ただ石のような無表情のまま、斧槍を握る手に力を込めていた。
白くなるほど強く。
ソラリスの民は、ただ恐れているだけではなかった。
追い詰められていたのだ。
そして、ルナ姫にはそれを止めることができなかった。
街を見下ろす高いバルコニーから、ルナは自分の民が互いを傷つけ合う光景を見つめていた。
風が彼らの声を運んでくる。
呪い。祈り。悲鳴。
「王は私たちを見捨てた!」
「姫はどこだ!? どうして魔法を使わない!」
「ヴェイルが来るぞ……みんな終わりだ!」
ルナの指先が石の手すりに食い込み、爪が冷たい表面を擦った。
叫び返したかった。
父は何もしていないわけじゃない。王宮も、できる限りのことはしているのだと伝えたかった。
けれど――何を言えばよかったのだろう。
もう時間がなかった。
唸る風を裂くように、低い声が響いた。
「こんなところにいるべきじゃない」
振り返ると、部屋の扉のところにセンチネルが立っていた。
黒と橙の鎧は松明の光を受け、鋭い影を床へ落としている。
その顔には幾筋もの傷が刻まれ、表情は読めない。
それでも今夜は、彼の目の奥にわずかな柔らかさがあった。
「それは、あなたもでしょう」
ルナが小さく返すと、センチネルはバルコニーへ歩み出た。
石床に響く靴音は重い。
「暴動はひどくなる一方だ」
「分かってる」
「明日、王が民の前に立つ」
ルナは目を伏せる。
「……それで何かが変わるとは思えないわ」
老戦士はため息をつき、手袋越しに顎を撫でた。
「ルナ。中へ来い。話がある」
ルナは少しためらったが、やがて彼のあとについて部屋へ戻った。
扉が閉まり、外の混乱は厚い石壁の向こうへ遠ざかる。
室内では、揺れる蝋燭の火が暗い石壁に影を踊らせていた。
しばらくのあいだ、センチネルは何も言わなかった。
ただ重い籠手を外し、脇へ置く。
現れた手には古い火傷、深い切り傷――生涯を戦いに捧げてきた男の傷跡が刻まれていた。
やがて彼は口を開いた。
「戦況は悪い――そんな生ぬるい話じゃない、姫。もう負けている」
ルナの胸がきゅっと縮こまる。
「そんなの……嘘よ」
センチネルは厳しい目で彼女を見た。
「すぐに現実になる」
そう言って彼は近くの机の隠し収納へ手を伸ばした。
蓋が開くと、その中のものがちらりと見える。
「……その本は?」
古びたそれに目を引かれ、ルナは思わず尋ねた。
センチネルは一瞬だけ動きを止め、それから分厚い革表紙の古書を取り出した。
表面には淡く光る古い紋様が刻まれている。
「初代王の法典だ」
慎重に抱えながら、彼は説明した。
「ソラリスの土台になった書だ。歴史だけじゃない。王国の法、古い慣習、そして我々の魔法がどう成り立ち、どう理解されてきたか――その根本まで記されている」
そう言って本を丁寧に戻すと、今度は一枚の地図を取り出し、机の上に広げた。
それは普通の地図ではなかった。
表面が淡く輝き、三つの世界の“現在”を映し出している。
ソラリス、ルミナ、ヴァーリス。
それぞれが光る紋章として描かれていた。
だが、その光は弱まっていた。
ルミナの森には赤い筋が広がり、ヴァーリスの海には濃い黒い影が絡みついている。
ルナは息を呑んだ。
戦況が悪いことは知っていた。
ボロボロになった飛空艇でソラリスの港へ逃れてくる難民たちも見てきたし、乗組員たちが理性を失うほどの恐怖を語るのも聞いてきた。
でも、これは――
想像していたより、ずっとひどい。
センチネルの声は重い。
「各世界との通信は、ほぼ断たれた。最後にルミナへ向かった空船も帰ってこない。向こうの女王がまだ生きているかも分からん。ヴァーリスは完全に沈黙した。闇は確実に迫っている。連中の最強の艦隊でも、いずれは持たん」
ルナの手が強く握られる。
「なら援軍を送ればいいわ。まだ船は――」
「足りない」
センチネルは言葉を切るように遮った。
「お前の父上が何もしていないとでも思うのか? ソラリス最強の騎士団も、火鍛えの鋼で武装した大隊も送り出した。だが……誰ひとり戻らなかった」
ルナの身体が冷えていく。
「でも、戦艦は……」
「燃え落ちた残骸だ」
センチネルは平然と言った。
「世界と世界の狭間を漂っているだけだ」
ルナは黙り込んだ。
幼い頃から、彼女はソラリスの誇る飛空艦が空へ昇る姿を見て育った。
金に飾られた帆船のような巨大艦。
船体にはルーンが刻まれ、帆が受けるのは風ではなく、魔力の流れそのもの。
嵐を越え、偉大なるエーテルを渡って世界と世界をつなぐために造られた船たち。
そのすべてが、失われた。
「じゃあ……」
ルナの声はかすれる。
「私たちは、どうすればいいの……?」
センチネルが身を乗り出し、鋭い視線を向けた。
「ガーディアンを見つける」
ルナの肩が小さく揺れる。
ガーディアン。
三つの世界の姫たちとの絶対の絆によって生まれる、魔法に選ばれた戦士。
これまでにも三人いた。
闇が現れるたび、三つの世界の姫たちは、ただひとりの戦士を選んできた。
心も、身体も、魂さえも捧げ、己の属性の力をその身へ注ぎ込む。
ヴェイルそのものへ立ち向かえるほどに強くなるまで。
そして毎回、ガーディアンは闇を打ち破ってきた。
――代償と引き換えに。
「そんなの、ただのおとぎ話よ」
そう言いながらも、ルナは分かっていた。
それが嘘だということを。
ガーディアンは実在する。
そうでなければならない。
もし存在しないのなら、もう自分たちは終わっている。
センチネルは首を振った。
「ガーディアンは伝説なんかじゃない。あれだけが、俺たちと滅びのあいだに立っている唯一の存在だ」
そこで一度言葉を切る。
「王は命じた。夜明けとともに捜索を始める」
ルナは喉を鳴らした。
「……見つからなかったら?」
センチネルの表情がわずかに沈む。
「そのときは、お前もヴェイルに呑まれる。ソラリスも落ちる」
ルナは机の上の地図を見つめた。
指先が、弱まっていくソラリスの光をなぞる。
胸の奥の重みは、秒ごとに増していくようだった。
戦況は悪いどころじゃない。もう負けている。
センチネルの言葉が、頭の中で何度も反響する。
けれど、まだ認めるわけにはいかなかった。
彼女は顔を上げる。
声は、自分が思うよりもずっと落ち着いていた。
「仮にガーディアンが実在するとして、どうやって探すの? 記録にはほとんど何も残ってない。“世界の外から来る戦士”なんて、あまりにも曖昧すぎるわ」
センチネルは腕を組み、黒と橙の鎧をわずかに軋ませながら息を吐いた。
「曖昧だ。だが手がかりは一つある。エーテルのさらに向こう……魔法の届かない場所だ」
戦場を潜り抜けてきた鋭い目が、まっすぐルナを見る。
「世界のない世界がある」
ルナは眉をひそめた。
「そんなの、ありえない。すべての世界はエーテルの中にあるはずよ」
「いや」
センチネルは訂正する。
「一つだけ、そうじゃない場所がある」
彼が地図の端を叩くと、表面が揺らぎ、その下から古い文字が浮かび上がった。
初代王たちの流麗な言語で記された一節だ。
ルナの目が見開かれる。
『魔法の視界の届かぬ彼方、空が無限に触れる場所に、最後の炎は眠る。呼ばれし時のみ、彼は目覚める』
ルナの心臓が大きく脈打った。
「最後の炎……」
声にしただけで、それが現実になってしまいそうだった。
「それが……ガーディアンだっていうの?」
センチネルはうなずく。
「辻褄は合う。伝承が正しければ、ガーディアンは俺たちのどの世界の人間でもない。常に外から選ばれてきた」
ルナはその文字を見つめた。
指先がわずかに震える。
「じゃあ……この“エーテルの向こう”にある世界が、本当に実在するっていうの?」
センチネルは珍しく、すべてを知っているような薄い笑みを浮かべた。
もう一度地図を叩く。
すると地図は星々を越え、渦巻く銀河を越え、やがて一つの小さな青い星へ焦点を合わせた。
ルナは息を呑む。
「その言葉……“Earth”……三世界語では“地面”って意味よね。どうして世界の外にある場所が……土なんて名前なの?」
「Earthだ」
センチネルの声は静かだが確信に満ちていた。
「魔法の影響を受けない、唯一の場所。ガーディアンがいるなら、そこだ」
ルナは浮かぶ青い星を見つめた。
理解が追いつかない。
魔法のない世界?
自分たちを救うはずの存在が、そんな場所にずっといた?
馬鹿げている。
けれど、センチネルが信じている。
伝承もそこを指している。
なら――
「どうやって行くの?」
震えそうになる声を抑えながら、ルナは訊いた。
センチネルがもう一度地図に触れると、青い星の映像は消え、表面は元の地図へ戻った。
「王宮の地下に古い門がある。何世紀も前に封じられた転移門だ。昔の王たちはエーテルの向こうを恐れていてな。だから閉ざした」
ルナは腕を組み、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「で、当然あなたは開け方を知ってる……ってこと?」
センチネルは低く笑った。
「長く生きていれば、いくつかは覚える」
だがすぐに、その顔つきは引き締まる。
「ただし、一度向こうへ行けば、もう魔法には頼れない。Earthは俺たちの世界とは違う。あちらに溶け込み、ガーディアンの居場所を探し出し、ヴェイルに気づかれる前に連れ帰る必要がある」
ルナは眉を寄せた。
「本気で、ヴェイルがそこまで追ってくると思ってるの?」
「分からん」
センチネルは認めた。
「だが、可能性は捨てない」
ルナは深く息を吸い込んだ。
拳が自然と握られる。
魔法のない世界。
そんなもの、信じがたい。
だが今の自分の周りで起きているすべてだって、本来ならありえないことばかりだ。
これが唯一の手がかりなら、信じるしかない。
ルナはセンチネルの目を見返した。
「なら――夜明けに出発するわ」
夜明け――
自室の鏡の前に立ち、ルナは短い黒髪にそっと手を通した。
いつもなら揺るがない暗い橙色の瞳に、今だけはかすかな迷いが宿っている。
借りた学生服の襟元を整える。
見慣れない布の感触が、肌に妙に落ち着かない。
濃い色のブレザーに白いシャツ、そしてプリーツスカート。
鎧とは似ても似つかない簡素な服装だった。
鏡の中の自分を見つめる。
これから始まる旅の重みが肩へとのしかかっている。
それでも立ち止まるわけにはいかない。
ソラリスの民には、自分が強くあらねばならないのだから。
彼女は袖を引き、腕の光る紋様が見えないよう整えた。
血筋の証。世界と結ばれた証。
静かな熱を帯びたその刻印は、まるで彼女の覚悟に応えるように脈打っていた。
ルナは息を吐き、背筋を伸ばす。
もう後戻りはできない。
最後にもう一度だけ鏡の中の自分を見つめ、小さな短剣を鞄の中へ滑り込ませた。
持っていける唯一の武器だった。
窓から差し込む朝日が、これから進む道を照らしている。
もう、覚悟は決まっていた。
ヒルは飛び起きた。
呼吸は荒く、全身が汗でびっしょり濡れている。
シーツは乱れ、夢――いや、悪夢の残響がまだ意識の端を掻きむしっていた。
こめかみを押さえ、頭から追い出そうとする。
だが、一つだけはっきりと残っていたものがある。
――彼女。
混乱の中に立つ、短い黒髪と鋭い黒い瞳の少女。
知らないはずなのに、知っている気がした。
ただの夢ではない。
あまりにも現実じみていた。
苛立ったように呻き、ヒルはベッドの端に腰を下ろして両手で顔を覆った。
……病気かもしれない。
脳腫瘍とか、そういうやつかもしれない。
頭がおかしくなる前兆とか。
幻覚を見る人間がいることくらいは知っている。
きっとそれだ。
そうじゃないと説明がつかない。
胸が苦しく、胃が重くねじれている。
理性は、ただのストレスだと叫んでいた。
学校、生活、いろんなものが積み重なっただけだと。
でも心の奥では、そんな説明を信じていなかった。
無理やり立ち上がり、ふらつく足で洗面所へ向かう。
電気をつけると、白い光が目に刺さった。
顔をしかめながら洗面台に身を乗り出し、鏡を見る。
見慣れた自分の顔だった。
少し疲れていて、少し青白いくらい。
それ以外は何も変わらない。
光る紋様も、魔法も、自分の心が壊れている証拠もなかった。
ヒルは小さく息を吐き、歯ブラシへ手を伸ばす。
何でもいい。いつもの動作に集中したかった。
現実に足をつけたかった。
だが、そのとき鏡に妙なものが映った。
落書き。
いや――文字だ。
ヒルの腹の底が冷えた。
見たことのない言語だった。
どこの国の文字かも分からない。
なのに、見た瞬間に意味が分かってしまった。
ただの記号じゃない。
そこには重みがあった。意味があった。
『視えぬ彼方のヴェイル。待ち続ける最後の炎』
ヒルの呼吸が止まりかける。
震える指でその文字へ触れた。
本物だ。
しかも――自分が書いたのだ。
眠っている間に、どういうわけか。
それだけでも十分おかしいのに、さらに最悪なのは……その意味まで分かってしまったことだった。
パニックがこみ上げる。
だが、無理やり押し殺した。
今は駄目だ。
学校がある。
普通でいなきゃいけない。
ヒルは慌てて文字を拭き取った。
頼むから忘れさせてくれと祈りながら。
全部、今の自分に起きている“何か”の副作用であってほしいと願いながら。
でも、心の底ではもう分かっていた。
まだ終わっていない。
学校の廊下は人で溢れていた。
肩をぶつけ合いながら歩く生徒たち。
雑談、笑い声、課題への文句。
どこにでもある日常の喧騒。
けれどヒルの意識は、ほとんどそこに無かった。
頭の中は、夢のこと、文字のこと、あの少女のことでいっぱいだった。
歩いている感覚さえ遠い。
身体だけが勝手に動き、思考だけが終わらない輪の中でもがいているようだった。
ルナ。
その名前に意味なんてあるはずがない。
なのに、あった。
脳にも、もっと深い場所にも、その名前は刻み込まれている気がした。
朝からずっと、皮膚の下を這い回るような不快感を振り払おうとしていた。
無視しようとしていた。
けれど消えない。
ずっと、心の端を噛み続けている。
鞄のストラップを強く握りながら、ヒルは一限目の教室へ向かう。
頭上で蛍光灯が唸り、遅刻を告げるベルの余韻が廊下に響く。
だが彼はほとんど反応しなかった。
昨夜からずっと、心拍が落ち着かないままだったからだ。
「ヒル?」
声が霧のような思考を切り裂き、現実へ引き戻した。
瞬きをして振り返ると、友人の大輝が怪訝そうにこちらを見ている。
「お前、大丈夫か? なんか幽霊でも見たみたいな顔してんぞ」
「……あんま寝れてなくて」
ヒルは首の後ろを掻きながら答えた。
少なくとも、それは嘘じゃない。
大輝はじっと彼を見つめたあと、肩をすくめる。
「まあ、そりゃそうか。昨日の数学テスト、見事に死んでたしな。たぶんそれが取り憑いてんだろ」
ヒルは無理やり笑った。
「……まあ、そんな感じ」
嘘が胸に重く沈む。
でも本当のことなんて説明できない。
そもそも、自分でも何が本当なのか分かっていない。
教室へ入ると、いつも通りの光景が広がっていた。
小さなグループで喋る生徒たち。
何かを説明している教師の声。
すべてが時計仕掛けみたいに流れていく。
ヒルは窓際の席に座った。
少しでも風に当たれば頭が冴えるかと思ったが、何も変わらない。
気づくと、ノートの端に何かを書いていた。
ただの落書きじゃない。
鏡に浮かんでいた、あの文字だった。
意味も分からないまま書いているはずなのに、手は迷わない。
まるで昔から覚えていた文字を書くみたいに、自然に動いてしまう。
背筋を冷たいものが走る。
……何なんだよ、これ。
その頃――
ルナは建物の屋上の縁に腰かけ、眼下の街を見下ろしていた。
Earthは……奇妙な場所だった。
騒がしく、人が多く、ソラリスとは何もかもが違う。
空気には知らない匂いが混じり、建物は鉄の巨人のように空へ伸びている。
視界のどこを見ても人、人、人。
こんなに大勢の人間を一度に見たことなどなかった。
ここへ来てまだ数時間しか経っていない。
それなのに、もう十分すぎるほど感じていた。
違いを。
この世界が、魔法とはまったく別の力で脈打っていることを。
それは粗削りで、剥き出しで、どこか生々しかった。
数歩後ろには、腕を組んだセンチネルが立っていた。
いつもの険しいしかめ面は、今夜はさらに深くなっている。
「そろそろ動くぞ。これ以上ここにいれば、余計な目を引く」
ルナは短い黒髪をかき上げながら息を吐いた。
「分かってる。ただ……少しだけ、時間が欲しかったの」
暗い橙色の瞳が、下の通りを見つめる。
圧倒されるのは覚悟していた。
けれど、それ以上に予想外だったのは――胸の奥に続く、この奇妙な引力だった。
何かが。
あるいは、誰かが。
すぐ近くにいるような感覚。
理由は分からない。
ただ、それを突き止めなければならないとだけ思った。
「……感じる?」
ルナが小さく呟くと、センチネルはしばらく黙ったのち、うなずいた。
「ああ。だからこそ長居はできん。俺たちに分かるなら、ヴェイルにも分かる」
ルナは拳を握る。
ヴェイル。
この世界にまで連中がいるかもしれないと考えるだけで、肌が粟立った。
「なら急がないと。ガーディアンがここにいるなら、あいつらに見つかる前に先に見つける」
センチネルもうなずく。
「だったら探すぞ」
ルナは深く息を吸い、胸の奥のざわめきを押しやるように立ち上がった。
自分を呼ぶ何かがあるのなら、必ず見つける。
見つけなければならない。
そして、一刻も早く。
学校の一日は、鈍い嵐のようにのろのろと過ぎていった。
ヒルはどの授業にもほとんど集中できなかった。
ノートに浮かんだ文字。
本来あってはならない、あの言葉。
誰にも見られる前に消した。
けれど、あの文字が残した感覚だけは消えてくれない。
昼休み、大輝がヒルの目の前で手をひらひら振る。
「もしもーし? 地球に帰ってこーい、ヒル。また意識飛んでるぞ」
ヒルは瞬きをした。
「悪い……ちょっと、疲れてるだけ」
大輝は眉を上げたが、それ以上は追及しなかった。
「体育の前にはちゃんと起きとけよ。校庭で寝落ちして先生にキレられるとか、笑えねえからな」
体育のことを考えただけで、余計に疲れた。
何もかも普通のふりをする気力なんて、今の彼にはなかった。
そして放課後。
最後のチャイムが鳴り、生徒たちが校舎を出ていく中で、ヒルはまた感じた。
あの、見えない引力を。
今朝よりも強い。
まるでどこかへ導かれているみたいに。
ヒルは、その感覚に従って歩き出していた。
どうしてかは分からない。
けれど、足が勝手に動いた。
学校から少し離れた静かな通りへ向かっていく。
歩けば歩くほど、確信が強まる。
誰かがいる。
そして――見つけた。
ヒルはその場で立ち止まった。
夕陽に染まる通りは静かで、伸びた影が舗道を長く切っている。
鼓動が耳の奥で暴れ、呼吸が浅くなる。
そこにいた。
夢の中の少女。
会ったことなんてないはずなのに、なぜか知っている少女。
壊れかけた街灯の下に立つ彼女は、暗い橙の瞳でまっすぐヒルを見つめていた。
まるでこの瞬間を、彼と同じようにずっと待っていたかのように。
ヒルは唾を飲み込む。
……ありえない。
こんなの、ありえない。
ついに自分は壊れたのかもしれない。
ストレスも、文字も、悪夢も――全部が積み重なって、とうとう本格的な幻覚を見るところまで来たのかもしれない。
「ヒル」
ただ名前を呼ばれただけだった。
なのに、その響きだけで背筋に震えが走る。
喉が強張る。
「……誰、だよ」
少女は一歩前へ出た。
迷いのない、静かな動き。
「ルナ」
ヒルは、思わず笑いそうになった。
やっぱりその名前だ。
あの文字で何度も何度も書いた名前。
ここ数週間ずっと頭から離れなかった名前。
彼は髪をかき上げ、そのまま強く掴む。
痛みで現実につなぎ止めようとするみたいに。
「いや、いや……ありえないだろ。夢だ。俺、まだ夢見てんだ。か、頭ぶつけたか何かで――」
「夢じゃない」
ルナの声は静かで、でもはっきりしていた。
「感じてるんでしょう? この引力を」
感じていた。
それが何より怖かった。
今日一日ずっと、全部を気のせいだと思い込もうとしてきた。
でも彼女の近くに立った瞬間、それが無駄だったと分かってしまう。
確かに何かがある。
自分を彼女へ、彼女たちへと結びつける“何か”が。
ヒルは一歩下がり、首を振った。
「無理だ。俺にはこっちの生活がある。学校もあるし、親だって――」
「家族は無事だ」
別の声が、そこで割って入った。
ヒルははっとしてそちらを見る。
ルナのすぐ後ろに、腕を組んだ男が立っていた。
いつの間にいたのか分からない。
センチネル。
圧のある存在感に、思わず息を呑む。
表情は読めない。けれど、何かがおかしい。何かを隠している。
「……誰だよ、あんた」
ヒルの声にはわずかに警戒が混じっていた。
センチネルの目がわずかに揺れる。
答えるかどうか、見極めるように。
「お前が生まれるより前から、この戦いを続けてきた者だ」
答えになっていない。
でも、それ以上聞きたくもなかった。
ルナが静かに息を吐く。
「ヒル、時間がないの。ヴェイルがあなたを探してる。早くここを離れないと」
ヒルは乾いた笑いを漏らした。
「離れる? そんな簡単に言うなよ。変な夢を見たからって、よく分からない二人の知らない奴について行けって? 冗談じゃない」
さらに一歩下がる。
「普通じゃないんだよ、こんなの。俺も……多分もう普通じゃない。脳腫瘍とか、精神病とか、そういうのかもしれないだろ。病院にいるべきであって、こんなところで――」
そこで言葉が止まった。
引力が、さらに強くなる。
空気そのものが震えていた。
音のない振動が、骨の奥まで響く。
ヒルは知っている。
ルナを。センチネルを。
どうしてかは分からないのに。
深く息を吸い込み、ヒルはようやく言った。
「……もし本当にこれが現実なら、すぐには無理だ。先に片づけなきゃいけないことがある」
ルナとセンチネルが視線を交わす。
センチネルは少し眉を寄せたが、ルナはうなずいた。
「分かった」
なぜか、その一言にヒルは救われた気がした。
「……じゃあ、来てくれよ。俺を意味不明な異世界戦争に引っ張り込むっていうなら、せめて先に親には会ってもらう」
家までの道のりは、ひどく現実感がなかった。
今にも目が覚める気がした。
世界が元通りになってくれる気がした。
けれど、一歩進むたび、息をするたび、現実だけが重く輪郭を増していく。
全部、本物だ。
ルナは隣を歩きながら、どこか静かだった。
センチネルは少し後ろをついてきて、近所の様子を警戒するように見回している。
敵地の偵察でもしているみたいだった。
ヒルは横目で彼を見る。
……この人、やっぱ変だ。
堅すぎるし、警戒しすぎてる。
まるで最初からここに馴染む気がないみたいだ。
「……あんた、あんまり喋らないんだな」
ヒルがぼそっと言うと、センチネルはちらりと視線を寄越した。
「喋るのは俺の役目じゃない」
「はいはい。そういうタイプね」
ヒルは呆れたように目を逸らす。
「ミステリアスな戦士サマってやつか」
それを聞いて、ルナが本当に小さく笑った。
その表情を見た瞬間、なぜかヒルの胸が少しだけ苦しくなる。
やがて三人は、ヒルの家へ辿り着いた。
小さな前庭のある、ごく普通の二階建て。
玄関灯の温かな光が、舗道へこぼれている。
ヒルの胃がきりきりと痛んだ。
こんなの、どう説明しろっていうんだ。
大きく息を吸い込み、彼は扉を開けた。
「母さん? 父さん?」
母は台所にいた。
フライパンから音が立ちのぼる。
彼の声に振り返り、笑みを浮かべる。
「ヒル、遅かったじゃない。夕飯もうすぐ――」
だが、その視線がヒルの後ろに立つルナとセンチネルへ移った瞬間、笑顔が止まった。
「……あら。お客さん、連れてきたの?」
ヒルは言葉に詰まる。
「えっと……うん。ちょっと、説明が長くなるんだけど」
すると父がリビングから出てきて、二人の見知らぬ客を警戒するように見た。
「誰なんだ?」
ヒルはルナを見る。
次にセンチネルを見る。
そして、もう一度両親へ視線を戻した。
……どう説明すればいいんだよ、こんなの。
もし楽しんでいただけたら、シェアしたり、コメントを残してもらえたら嬉しいです。
好きだったところはもちろん、気になったところや合わなかったところも、ぜひ教えてください。
私にとっては初めて触れる場所でもあるので、こうして作品を届けられるのが新鮮で、とても楽しいです。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。




