体育祭②
『それでは、一〇〇メートル走スタートです!』
突如として鳴り響いたアナウンス。本日最初の種目に出場する手たちが、スタート地点に向かっていった。
「悠陽! 頑張って!!」
悠奈さんがデジカメを片手に叫んでいる。周りには人のいない不思議な空白ができていた。きゃっきゃきゃっきゃと叫んでいる悠奈さんに近づきたがる奴は……あぁ、他の生徒の保護者と思われるお父様方が目を奪われているか。
まだスタートしないようなので、俺が悠奈さんの観察を続けていると、先ほどまで空いていた空白を埋めるようにして、三十人程度の生徒たちが集まってきた。
「もしかして、悠陽ちゃんのお母さんですか?」
「え、えぇそうですが」
「私は悠陽ちゃんのクラスで委員長をしている斉木蘭と申します」
「そうですか、娘がいつもご迷惑をおかけしているようで申し訳ありません」
「迷惑だなんてそんな! クラス中が悠陽ちゃんに楽しませてもらってますよ!」
「え、あ、はぁ……」
そういえば、俺が悠陽の家に行った時も友人が来たことはなかったと言っていたな。きっと娘の友人を名乗る人物とどのように接するのか決めかねているのだろう。仕方がない、助け舟を出しに行くか。
俺は日陰になっていたテントに後ろ髪をひかれながら、悠奈さんたちのもとへと向かった。
「悠奈さん、今日は悠李ちゃんはどうしたんですか?」
「あ、あなた! 悠李は今日、学校に行っているわ。だから、家には誰もいないの。……どうする?」
「悠陽の応援をしに来たんじゃなかったんですか……」
「あら、そうだったわ」
「ほら、お前らももうすぐ悠陽が走るんだから集中しろよ」
「「「はい! お母さん!」」」
「こんなんですけど、ちゃんと悠陽の友達なんで安心してください」
「そうなの? それなら、悠陽のことをこれからもよろしくね」
「「「はい、お母様!」」」
元気よく返事をしたこいつらは直立不動で悠陽のスタートを待っている。こいつらが軍隊でも作ったら相当な練度になるのではないだろうか。というか、俺とそうやって、区別をつけるのか。
もう何も言うまい。こいつらに敵視された日が俺の命日になることだろう。
「位置について、よーい……」
危険な集団と俺が戯れていると、台の上でピストルを持った体育教師が大きな声を張り上げた。
スタート地点には一年生女子が六人。赤いハチマキが三人、白いハチマキが三人だ。そのうち一番外側、観客から見えやすい位置でクラウチングスタートの態勢を取っている悠陽に、いつものごとくおちゃらけた様子はない。今までに見たことのない眼光で、悠陽は一〇〇メートル先のゴールテープを一瞥した。
——パァン!!
ピストルからの発砲音で、六人が一斉に地面を蹴った。そして、一斉に声を出し始める観客。そして、悠陽の応援隊はなぜかチアリーディングの様に飛んだり跳ねたり、投げ飛ばしたりを繰り返している。
俺の隣にいる悠奈さんは、ゴールの瞬間を撮影しようと、デジカメを覗き込んでいた。
スタートから、一秒程度が経った頃だろうか。悠陽は他の生徒たちと一メートルほど差をつけ、すでに独走状態。最初から騒ぐ気満々だった奴らを除いては、応援の声よりも感嘆の息が漏れている。
そして、二秒三秒と時が進んでいくと、その時間をも置いてけぼりにするように悠陽は駆け抜けていく。きっと、野生の動物でもここまで走ることに情熱を燃やすことはないだろう。走る、というその行為そのものに魅せられた悠陽は、競争相手を全く気にしていなかった。
そういえば、悠陽が本気で走っているのを見るのは今日が初めてかもしれない。グラウンドで駆け回っているという話はよく耳に入ってくるが、実際にその姿を目にしたことはなかった。
そして、悠陽は一番乗りで俺のすぐ目の前までやってきた。どういう風に応援するのが、正解なのだろうか。本気で頑張っている人に対して、がんばれというのもおかしな話だし、無言で見続けるというのも変な話だろう。
考え抜いた俺は無言で手を振った。特に深い意味はない。頑張れだなんて傲慢な気持ちを含めたつもりもない。
今、悠陽と目が合った気がする。いくら集中しているとはいえ、普段と違う環境で知り合いが手を振っていたら、気になってしまうか。少し反省せねば。俺が手を振るのをやめると、悠陽は一瞬、残念そうな表情を浮かべ……転んだ。
それと同時に、俺の隣から焚かれるシャッター。光るカメラが映し出した光景はきっと、空中に投げ出された悠陽の身体だろう。
俺は、転んだ状態で動かなくなった悠陽に向かって走り出した。
「すまん」
テントの下で悠陽の膝を消毒しながら呟く。結局悠陽は途中棄権で失格となった。もう少し待ってやれば動くことも可能だっただろうが、そこまで体育祭にかけることはない。それよりも、早急な手当が必要だと判断したまでだ。
どろどろと流れ出していた鮮血をふき取り、現在は消毒中。顔をしかめる悠陽を悠奈さんが後ろから取り押さえていた。
「謝るくらいなら、消毒しないで欲しいんすけど! 痛いっす! 痛いっす! 痛いって言ってるんだから、一回止めてもらっていいっすか!?」
「あ、すまん」
無心で消毒していたのが仇となってしまった。悠陽が悠奈さんを振り払って、俺の頭に自分の頭を打ち付けてくる。
「そんなに怒るなよ」
「あたしがなんで怒ってるか分かってるっすか?」
「なんでって、消毒が痛かったんだろ?」
「違うっすよ! あの時、あたしが手を振り返そうとしたら手をひっこめたっすよね!? なんでっすか! せっかく手を振り返してあげようと思ったのに、手をひっこめるって! 喧嘩売ってんすか!?」
「いや、悠陽の邪魔になるかなと思っただけなんだが」
「あなたは、乙女心ってものが分かってないわね」
「悠奈さんまで急にどうしたんですか」
「最近は、家に帰ってきてからも克人さん克人さんってそればっかりだもの」
「ちょっと、お母さん!? 急に何言ってるの!」
「そうですよ、急に関係ない話をしないでください」
「悠陽ちゃんも苦労するわねぇ」
悠奈さんはそう言って、もう一度悠陽の身体を押さえつける。とりあえず、今は消毒をしなくては。俺はもう一度悠陽の膝に消毒液をぶっかけた。
「痛みもそのうち快感に変わるわ」
悠陽の耳元でなにやら不穏なことを言う悠奈さんを無視して、俺は消毒を済ませた。
「大丈夫」
絆創膏がはがれないようにと久々井先生が悠陽の膝に包帯を巻いた。作業工程をすべて終えた先生は、俺と悠陽に向かって冷めた目を向けている。
「保健室の常連に手伝いをお願いした私がばかだった」
「すみません、私も伝えるのが遅くなりました」
美樹まで俺たちをそんな目で見るのか。いや、美樹がそんな目を向けるのはいつものことだ。
「赤坂、君はあと何に出る? 競技によっては止める」
「あとは、部活対抗リレーと学年種目の玉入れだけっす」
「まぁ、激しい接触のある競技じゃないだけまだマシ。でも、本気で走っちゃだめ。また血が出てくる」
「わ、分かったっす」
悠陽は納得と言うまでの表情ではなかったもののしぶしぶ了承はしたようだ。
「次は志島君の種目でしたね」
「うわーっ、急に膝が痛くなってきたぞ!」
「行ってこい」
俺の小さな反抗は、突然現れたせっちゃんの一言で抑え込まれた。そんなに睨まなくてもいいのに。




