夏休み⑨
「それじゃあ、ごゆっくりしていってください。私は少し席を外させていただきますね」
悦子さんは静かに立つと「失礼します」と上品に頭を下げてからふすまを開けて出て行った。
「これは、悦子さんが作ったんですか?」
「そうじゃ。わしも手伝うといったんじゃが、お客にだせなくなるといって婆さんに台所から追い出せれてしもうたわい。わしがやったのはこれだけじゃ」
そう言って箸でつまんだ刺身をひらひらと揺らす敬さん。決して行儀という点ではよろしくないのだが、このご老人がやると人の好さがにじみ出ていた。そう言ってうまそうに脂ののったマグロをぱくりと食べ、一気に日本酒をあおる。
俺は酒のうまさは分からないが、マグロの旨さは知っている。正直なところ、ここ数日は炎天下に身を投じすぎていたせいか食欲がなく、つい数秒前までも俺の胃は食物の到着を拒んでいた。
しかし、目の前の敬さんを見ていると、自然と口内に涎がたまってきた。敬さんを見習った俺は、深紅に染まったマグロの赤身を箸でつまんだ。
普段ならこんなにうまそうな刺身を食べるのには、多少のためらいを覚えるのだが、今日ばかりは違う。舟形の器には様々な種類の刺身が所狭しと並んでおり、食べても減らないのではと考えられるくらい。俺はつまんだ刺身を小皿のしょうゆに少しつけてから口に運んだ。
その途端、濃厚な味を秘めながらもサッパリとした風味が俺の口いっぱいに広がった。程よい弾力が新鮮さを物語るが、筋張ってはいない。数回咀嚼したのちに嚥下すると、俺の口には魚のうまみだけが残る。俺はそのうまみを逃がす前に白米をかき込んだ。
「そこで、これをクイっと行くのが最高なんじゃがのぅ。今は、酒のうま味よりも米の方が良いか。はっはっは」
俺が刺身に気を取られていたうちにさらに酒を飲んでいたようで、顔の赤みが増している。
「ほれ、休んでないでさっさと食べんか。その大トロなんて、学生の身分じゃそう簡単に食べれものじゃないぞ?」
敬さんは俺の刺身を箸で刺す。やはり行儀は悪いのだが、そもそも良家の当主なのだから俺がどうこう言うのもおかしな話だろう。
俺は敬さんに言われた通り、大トロを刺身でつかもうと箸を伸ばした。しかし、赤身と違って表面の脂で一度つかみ損ねてしまい、正面に座る敬さんがニヤニヤとしていた。
俺は気を取り直して大トロに挑んだ。先ほどよりも深くつまみ、同じ轍を踏まぬように細心の注意を払った。
「醤油はつけないで食べてみるんじゃ」
俺は敬さんの言う通り、赤と白のコントラストを持った切り身を口に入れた。
はじめに、ねっとりとした脂が俺の舌を包み込んで、魚のおいしさを俺に届ける。次いで、この切り身は先ほどの赤身よりもずっと柔らかく、噛むたびに内側から脂があふれ出た。一度咀嚼しただけでそのほとんどが消えたのではなかろうかというほど、溶けるのが早い。
名残惜しさを感じた俺はもう一切れ、大トロを口に突っ込んだ。そして、三切れ目、四切れ目、五切れ目。俺は箸の止め方を忘れたかのように、旨味の塊を口に入れ続けていた。
「おうおう。この魚を遠慮なく口に突っ込み続けるとはのぅ。君はきっと大物になるじゃろうな」
敬さんの口調は決して責め立てるようなものではないのだが、我を忘れてしまったことに対する恥ずかしさからも俺は自然に頭を下げてしまっていた。
「すみません。ただ、こんなマグロ食ったことなくて」
「気にするでない。それよりどうじゃ? うちに婿になる気はないかのぅ? 魚は新鮮なものが手に入るし、家族が言うのもなんだがうちの孫は見てくれだけは良いからの。君は家事が得意なようじゃし、考えてくれはくれんか?」
このマグロがいつでも食べられる……。いやいや、敬さんも冗談で言っているだけだろう。俺が答え淀んでいるのがよほど面白かったのであろう敬さんはまたも一杯あおった。
「わしたちが少し過剰な教育をしてしまってのぅ。それに反抗するように料理はせん、掃除はできん、と生活力の低い孫になってしもうたわい。勿論、自慢の孫娘じゃがの」
「えぇ。緑川先生にはいつもお世話になっております」
「普段の呼び方で構わんよ。あれはあれで喜んでいるようじゃから。ところで、君たちはいつまでここにいるんじゃ?」
一言話すたびに杯を空ける敬さんは酔いが回ってきているようで、少しずつ呂律がおかしくなってきていた。
「ご迷惑にならないように明日には帰ろうかと思っています」
「迷惑じゃなんてとんでもにゃい。それに、明日はここらで夜祭が開催されるんじゃ。もし、用事がないんじゃったら明日の夜は祭りに行ったらどうじゃ? 帰るのは明後日でも遅くはなかりょう」
「夏祭りですか。では、お言葉に甘えさせていただきます」
悠陽が喜びそうだな、とそんなことを考えているとふすまがぴしゃっと開いて、悦子さんが入ってきた。
「ちょっと爺さん。飲みすぎですよ。ごめんんさいね、酔っぱらいの相手をさせてしまって」
「いえいえ、俺も楽しかったですから」
「ごめんなさいね。食べ終わったらそこにそのまま置いといてくれればいいから。ほら、爺さん、行きますよ?」
悦子さんは敬さんに肩を貸して、ゆっくりと出て行った。担がれたへべれけは、
「節のこと、頼むぞぉ」
と、俺に言葉を残していった。
「分かりました」
俺は相手が絶対に聞いていないだろうとは思いつつもなんとなく回答する。二人が完全に部屋から出たのを見て、俺は再度、食事に手を付け始めた。
食事を終えた俺は食器をそのままに自分の部屋に戻った。いつもなら、食器くらい自分で洗うのだが、今日は疲れてやる気が出ない。申し訳ないなと思いつつも、部屋のベッドへとダイブした。
目を覚ますと、部屋の窓からオレンジ色の光が差し込んでいる。しかし、その日差しの方向は昨日、開票作業をしていた頃と全く同じ。時計を見るとあと少しで午後六時になることを指し示していた。確かに何度か起きては寝てを繰り返したようなうっすらとした記憶はある。まさか、こんなにも時間が経っていたとは。
上半身だけをベッドから起こすと、寝すぎたせいか頭に鈍痛が走る。肩も腰もと、時間が経つにつれて不調が垣間見えてくるが、気にしすぎるのは良くない。昨日までの激動による筋肉痛だろう。
ぼやける世界を回復させるように目を擦っていると、部屋の扉がノックもなく突然に開いた。
「克人さん! お祭り行くっすよ!」
寝起きには少々響きすぎる悠陽の声が俺の脳を揺らす。意識の覚醒に時間を要する俺に対して、目の前の少女はそんな事情などお構いなしと、言葉の弾丸を連射してきた。
「ちょっと、克人さん! ほらっ! なんか言うことはないっすか!?」
ベッドの傍までばっと一瞬で移動した悠陽。流石は運動少女、と感心する暇を与える気もないらしい。休日に寝ているお父さんを起こす幼稚園児のように、悠陽はベッドに飛び込んできた。流石は悠陽の身体能力。助走もなく跳んだとは思えない、時が止まったかのような滞空時間でエネルギーを貯めていた。
しかし、今回はその時間が仇となる。俺は悠陽の高すぎる身体の下を横に転がるようにして回避した。結果としてベッドから落ちることにはなったのだが、大した高さではないので問題はない。悠陽のボディープレスを食らうよりも数段マシだ。
「避けるんすか!?」
「なんで受けてやらなきゃいけないんだ」
「男ならちゃんと受け止めてくださいよ!」
「男とか女とかそういう尺度で人を見るのは良くないんじゃないか?」
「急な正論は無しっす。それよかほら、どうっすか?」
悠陽は床に転がっている俺をベッドの上で座りながら見下ろした。その身をまとっているのは涼し気なピンクの生地。その布地には、色とりどりの花々が悠陽の内面を表すように咲き誇っている。紅色の帯が崩れかかっていることを除けば、可愛らしい女の子だ。
「どうも何も、浴衣着て暴れるるなよ。ほら、こっち来い」
悠陽をベッドから下ろし、俺は悠陽の前に立つ。浴衣を確認するが、腰紐と胸紐までは崩れていないため、おはしょりはきれいなままを保っている。腰紐まで解けていたら流石に俺が着せるという訳にもいかないが帯くらいなら俺がやっても問題ないだろう。
一応悠陽に確認を取ると、ぽけぇっと首を傾げて「なぜそんな確認を?」という表情を浮かべている。こいつにはいよいよ本格的な教育が必要な気がしてきた。が、それは俺の仕事ではない。しっかりしろや悠奈さん。
紅の帯を一旦ほどき、伊達締めを巻きなおす。悠陽の正面に立って、やり方を教えつつ帯を巻く。身体の前で結び目を作ってから後ろに回せば、自分でもできるはずなので、一から十まで教えているのだが、当の本人が覚えようとしなければ無駄な労力だ。
「できたぞ」
俺が声をかけると、悠陽はひらりとその場で回転し、浴衣の裾を楽し気に揺らした。
「いまさらっすけど、克人さんて何者っすか? なんかもう女子力とかでもない気がするんすけど」
「ま、悠陽とは生きている時間が違うからな」
「高々一年をそんなに誇らないで欲しいっす」
ジト目を向けてくる後輩女子は結びたての帯を遠慮なく揺らしていた。
「はしゃぐんじゃねぇ! 次はもう結ばねぇぞ」
ぴょんぴょんしている悠陽に大声を上げると、次の来客者が俺の部屋へと入ってきた。
「ちょっと悠陽さん、まだですか? 起きていたんですね。おはよう、ではないですか。志島君、おそようございます」
「おそようさん」
入ってきた美樹は悠陽と同じく浴衣を着ている。白地に青色の金魚が泳いでおり、紺色の帯が豊かな胸……。
「どこを見ているんですか。……。浴衣は小さいほうがきれいに見えるんですよ」
「オッシャルトオリデス」
美樹の眼圧に屈した俺は悠陽の方を見る。
「そうっすよ! きれいに見えるんすよ!」
いや、何も言ってないじゃん。
「志島君。早く行きましょう。着替えて準備してください」
そう言って美樹は俺に男物の浴衣を手渡してくる。これ以上待たせると、いよいよ不機嫌になるだろうということが容易に想像できるので、俺は急いで身支度を整えるのであった。




