定期試験⑥
学校に着くと悠陽は大きくため息をついた。自分の家族の言動を冷静に考えてしまったのであろう。落ち込んだ様子である。
既に時刻は十時を回った頃。夜の学校へ入るのは何か悪いことをしているような気がして胸が高鳴る。しかし、紆余曲折はあったものの本来の目的は悠陽の勉強。過ぎた時間は取り戻せないが、これからの時間をどう使うかには無限の選択肢があるだろう。
「今日はもう疲れたっす。勉強は明日からにしないっすか?」
「そうだな。今日は色々あったもんな、今日はもう休んで……って言うとでも思ったか?」
「うわっ。ノリツッコミっすか」
「うるせぇ、やるぞ」
奨学生部の部室に残されていたプリントの前に悠陽を座らせ、再度問題と向き合わせる。結局、遊んでいたも同然なので良い休憩になっただろう。悠陽は心身ともに疲れているようにも思われるが。
「分かったっす」
悠陽は最初から分かっていたかとでもいうように納得し、そそくさと筆箱をかばんから出して勉強を再開した。
悠陽は分からないと自分で判断すればすぐに質問をする。自分ができないということを理解しているだけあって自分で答えを見つけようなどと言うプライドはない。初見の問題への対応力は養われないが、一度は解いたことがある問題がその多くを占める定期試験では、この勉強方法は意外と効率的であったりする訳だ。
また、悠陽はその持ち前の素直さで俺のアドバイスを吸収していった。馬鹿正直と言い換えることもできるだが、ここは素直という言葉にとどめておくことにしよう。
国語の勉強同様、その集中力をいかんなく発揮した悠陽はちゃぶ台の前から動かない。そのまま数時間が経過し、付が変わる頃になると、悠陽は急に俺の方へと向き直りちゃぶ台を二回タップした。
「ギブっす」
「はいよ。お疲れさん」
数分前から悠陽の瞼が明らかに重くなっていたことに気づいていた俺は、そろそろ潮時だろうとは思っていた。俺がすんなり勉強の打ち切りを認めたことに驚いたのであろう悠陽が目を丸くしているが、気にせず言葉を続ける。
「明日も学校の授業はあるんだ、そろそろ休もう。ほら、シャワー浴びてきな」
この学園の運動部の部室がある運動部棟にはシャワーが完備されている。本来であれば部活のためにある設備なので、一般生徒は使えないはずなのだが流石はせっちゃんというべきか今週いっぱいは使えるようにしてあるらしい。悠陽はもともと陸上部に所属しているため使用権がある。とはいえ、この時間は本来であれば使えない。流石せっちゃん。恐ろしやせっちゃんである。
悠陽がシャワーに行ったのを確認し、俺もシャワーを浴びに行く。ちなみに男女のシャワー室は離れているため、うっかり間違えてしまう嬉し恥ずかしハプニングの発生する余地はない。
俺は普通にシャワーを浴び、部室に戻った。暗い廊下を歩くのは多少肝試しのような様相であったが、俺も悠陽もその辺りへの耐性を所持している。なんてことはない。
部室に戻ってもまだ悠陽の姿はなかった。俺は学園長が準備した布団を二セット敷く。しかし、学園長の準備した布団の山はまだ半分残っていた。あの学園長は意外と力があるようである。
こんなことを考えていると、悠陽が髪を濡らしたまま短パンにノースリーブといういでたちで部屋に入ってきた。
「あのな、俺も男なんだから。そんな無防備な格好で来るなよ」
「あ、すいませんっす——襲ったりしたくなったっすか?」
「襲いたい」
「え!?」
「嘘だ」
「そうっすよね」
同じようなやり取りを先ほど行ったような気もする。
「ほら、くだらないこと言ってないで早く髪乾かせよ」
俺は一応持ってきておいたドライヤーを悠陽に渡す。俺の髪は短く自然乾燥に任せているのだが、こんな時のために一応持ってきておいた。
「流石というか、ここまでくると女子力じゃなくてお母さん力っすよね」
悠陽はあきれたように笑うと、素直に髪を乾かし始めた。夜の学校にこだまするボーッというドライヤーの音は外から聞けば怪奇現象であるがこの学校に俺と悠陽以外はいない。
俺は再度確認する意味を込めて、悠陽に問う。
「俺もここで寝ていいのか? 気になるようだったら廊下で寝るぞ?」
「良いっすよ別に。克人さんのことは信用してますし。それにちょっとお話したいこともあるっすから」
何を話そうとしているかは分からないが、はっきりと言質が取れたので俺は部室の中の敷いてある布団の一つに潜り込んだ。目覚ましを午前七時にセットする。悠陽は俺から数分遅れたタイミングで布団へと潜ったようだ。
「電気消していいか?」
「真っ暗だと寝れないんで、ちっちゃい明かりつけといてもらっても良いっすか」
俺は蛍光灯を消し、なぜこんなものがあるのかは分からないのだが、部室に存在していたいわゆるベッドライトをオレンジ色に光らせる。
すると、悠陽はいつもとは少し違った声音でこう切り出した。
「あたしはもう寝ぼけてるんで、聞き逃してくれていいっすから」
はっきりとしたよどみない口調で言った悠陽が寝ぼけているはずなどないのだが、俺はそのまま否定せずに聞くことにした。
「今日はありがとうございました」
「一応、この部活への依頼だからな。それにクーラー欲しいし」
寝苦しいことこの上ない部屋の中で扇風機から巻き起こされた強風を浴びながら、俺は答える。悠陽は苦笑を隠すことなく浮かべ、こちらを向くように寝返った。
「それもそうなんすけど。あたしの家に来てくれてありがとうございました」
「ん?」
「あんなに楽しそうなお母さんは初めて見たかもしれないっす」
「そうなのか?」
「まぁ、浮かれすぎな感も否めなかったっすけど。あたしが初めて連れてきた友人っすから、お母さんもうれしかったんだと思うっす」
悠陽はオレンジ色に輝く室内の中、いつものようにニカっと歯を見せた。
「今度はせっちゃんも美樹も連れていくか?」
「プロポーズした相手のところに他の女を連れて行くって……克人先輩さすがっす!」
「おい後輩よ。お前がそちら側についてどうする」
一度ふざけた悠陽であったが再度真剣な表情になる。それは今までため込んでいたものをすべて吐き出すように。
「今まで、家に連れていくほど仲良くなった友達なんていませんでしたし、お母さんも心配してたんだと思います。それに、私自身もうれしかったっす。あたしにできた最初のお友達っすから」
「せっちゃんは少し違うが、美樹だって友達だろ? それにこの学校にはクラスメイトだっている。こんなことをいうのもなんだが、この学園のクラスメイトが今までのクラスメイトと同じだと思うなよ? ここにいる奴らはたいてい心に余裕のあるやつらばっかりだから。勿論、例外はいるだろうがな」
「さすが、貧乏人は客観的っていうかシビアっていうか」
「貧乏人はお互い様だ」
「違いないっす」
「なんだったら、俺がクラスメイト達の気持ちを聞き出してきてやろうか? 本当にお前を疎んでいるかどうか。安心しろ、全員一致でお前のことが嫌いだったらその時は慰めてやるから」
「うわっ、いい迷惑っすね。お節介にもほどがあるっすよ」
「俺を誰だと思ってるんだ?」
「学校一の女子力を持つ男、志島克人さんっす」
「人に言われると不思議な気持ちになるな。それに、最近じゃあ俺のことを陰でお母さんって呼んでるやつまで出始めてるんだぞ? お母さんはなお節介な生き物なんだよ。お前のお母さんが悠陽を心配するように、な」
ちなみに俺のことをお母さんと呼び始めたのは俺のクラスメイトだ。そいつがクラスメイトに広め、クラスメイトが部活仲間に広め、俺を学園内でお母さんと呼ぶのは周知の事実となっている。さすがに俺に面と面向かって言ってくる奴はいないが、俺でさえ知っている。にもかかわらず、悠陽が知らないということはやはり、聞く伝手がない、言い換えるならば友達がいないのだろう。
「まぁ、昔っから一人には慣れてるっすからあんまり深く考えすぎないでくださいっすね」
悠陽は最後にそうとだけ言うと、俺とは反対方向を向いた。刹那にすやすやと寝息を立てる姿には流石としか言いようがない。
悠陽のクラスメイトが悠陽を嫌っているはずなどないのだが、悠陽はどうも信じる様子はない。陸上部の練習時間にチラチラと悠陽の練習姿を見ているクラスメイトはたびたび目撃されているし、彼らもイレギュラーではある悠陽に対して、接し方がわからないのだろう。
俺は持ち前のお節介を発揮することに決めた。もう、学園中にお母さんと呼ばれる気もするが覚悟のうちである。そんな決意を胸に、俺は睡魔に意識を手渡した。
翌日、俺と悠陽は普通に起床した。もちろん、起きたら手がいかがわしい部分を触っていた、悠陽が俺の腕を抱き枕にしていた、といったようなことはない。俺たち二人は朝になってやっと来たせっちゃんにもらったコンビニおにぎりを頬張ってから、教室へと向かったのである。
*
「お父さん! ねぇお父さん!」
あたしは小さな右手を目の前にいる男に向けて、めいいっぱい伸ばしていた。しかし、その手は空気をつかむばかり。男は私からどんどん離れていき、見えるか見えないかのところで、知らない女と抱擁を交わしていた。
「悠陽、悠李、ごめんなさいね。私がふがいないばっかりにこれからたくさん苦労を掛けちゃうわ」
あたしの隣で目を腫らしている女性は、あたしの母親。右手にあたしの手、左手に悠李の手を握っているお母さんは涙をふくことも許されない。お母さんは、強い人だ。自分のことよりもあたしたちのことを第一に考えてくれる。それは、私が小学三年生の春の出来事だった。
月に一回家を空けていた父親が、半月に一回、週に一回、二日に一回、そして週に一度しか帰ってこなくなり、半月に一度、月に一度と顔を合わせる機会は徐々に減っていた。減れば減るほど、お母さんの元気もなくなっていった。
それでも、お母さんは強かった。あたしがテストで零点を取った時も、お母さんに買ってもらった靴をなくした時も、あたしが泣いて帰った時も。料理をしている手を止めて、あたしの頭をそっと撫でてくれた。そして、いつも同じ言葉をかけてくれた。
「あなたは強い子。私の自慢の娘よ」
そして、細い両腕をあたしの背中に回しあたしを胸で包み込む。
お母さんはいつも笑っていた。だが、その眼の奥はいつも悲しげな黒い輝きを伴っていた。
「おはよう」
私が目を覚ますと、優し気な青年の声が耳に届いた。青年——志島克人は見ていたノートから目を離した。その呆れたような、しかし優しい目にあたしの鼓動は少し早まった。
嫌な思い出だ。いなくなった父。あたしを疎むクラスメイト。勉強ができるのはそんなに偉いのか。
嫌な夢に、息が上がり、肩で呼吸をしているのがわかる。あたしの様子を訝しんだ克人さんはやはり優しく、お茶を差し出した。
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