一話 死する覚悟、最後の時
予想だにしなかった彼の姿が、柚葉の目の前に現れた。
相変わらず黒いコートで全身を覆い、櫂人の容姿をした謎の男、幻。
どこか切なそうに、遠くから、その泣き顔を見つめていた。
「ま、ほろ」
なぜ、彼が好きなんだろう。最愛の元彼、櫂人にそっくりだからなのか。
完全にそれを否定できないでいるが、それだけではない。
彼がどういう存在で、敵か味方かなんてわからないが、柚葉を此処まで導いてくれたのは紛れもなく彼のおかげだ。
死という逃れられない運命に負けそうな弱い心を、この人にだけは知ってほしい。戦神子の真の役目を教えてくれた人が彼でも、この心と想いを知って欲しくて、柚葉は駆け寄った。
もしかしたら、逃げてしまうかもしれない。少しの不安が胸を過ぎったけれど、そんなことはなかった。
大きな背中に手を回し、胸に顔を押し付ける柚葉に驚きつつも、優しい手つきで子供をあやすように、上下にゆっくりと髪を撫でる。
だが表情は、どこか暗いままで、視線を合わせようとしない柚葉をただただ見つめる。
「柚葉」
「……本当は、死にたくないよ」
言葉と共に、背のコートを掴む力が強まる。確かに、誰だってそう簡単に死を受け入れられるはずがない。
幻は、撫でる手を止めずに、静かに相槌を打った。
「櫂人の為なら、死ねると思ってた。少しの恐怖はあったけど、そう思ってたの。でも、日が経つにつれて、どんどん怖くなってくの。やっぱり、死にたくないって思いが、強くなって。だって、私、気付いたから」
「……何をですか?」
くいっと顔を上げた柚葉の涙目が、月明かりで少しだけ輝いて見える。それは、気のせいだろうか。
少しだけ、彼女の頬が赤いのも、その涙も理由も、もしかしたらと期待している自分に、心の中で赤信号を出す。
彼女を、これ以上好きになってしまっては、後がつらいだけだと。
幻は、とある決意を胸に今、此処に居るのだ。それは、自分に興味を持ってくれた柚葉のために、決めた重大な決意である。そう、たとえそれが、彼女の最愛の人と見間違えるほどそっくりな容姿が理由だとしても。
「私、私は、幻が――」
「好き、ですよ」
先に告げたのは、幻だった。愛おしそうに、けれど、どこか儚げに柚葉を見つめ、その両頬にそっと手を添える。
「えっ……」
目を大きく見開いた柚葉が、予想外の展開に思わず口を開く。と同時に、幻の顔が一気に近づき、互いに1cm程の距離を保ったところで止まる。
緊張は高まり、荒くなりそうな呼吸を、必死に抑えようとする柚葉に対し、幻は表情を変えずにいた。瞬きせず、その目に柚葉の顔を焼き付けておくかのようにじいっと見つめ続ける。
「ですが、貴女はきっと、違います」
「ち、違わないよ! 私だって、幻のことが好――」
言葉は、幻の口づけによって阻まれた。呼吸を奪うかの如く激しいキスの前、舌を口内に入れようとする行為に、柚葉は無意識に、彼の肩を強く前に押した。
「ほら、ね」
「ううん、ずるいよ! そんな、いきなりなんて」
今度は意地悪く笑んで見せた幻から距離をとった柚葉は、口元を手で覆う。
「私のこと、拒否しているんですよ。だって私は、櫂人にそっくりですからね」
「そ、それは――」
確かに、彼を想うきっかけはそうだったかもしれない。そして、最初の何度かは彼に会うたびに、櫂人への想いを募らせたことがあるのも、事実だ。
「まあ、そんなことはいいんです。パルテノン帝国に貴女を連れて行かなきゃ、私が殺されますから」
無理矢理その小さな手を取り、懐から取り出した金属製の指輪を嵌める。
淡い緑色に光る小さな宝石が、細い光の道を森の奥へと導くように伸ばしていく。
「これを辿れば、パルテノン帝国に着きましょう。ここからは、貴女一人で行ってください」
「……」
その所為の間も、柚葉は涙を流しながら、幻を見ていた。その指先から肩、足まで微かに震えている。
「そんなに怖いなら、四護神を呼んでもいいんですよ? まあ、私を殺したところで、貴女の運命は変わりませんが」
私の知っている幻じゃない、とでも言うように、唇を噛み締めながら、幻へと視線を注ぐ。
けれど、柚葉は首を横に振り、彼女を守るために存在する四護神を呼ぶことはしないと意思表示した。
「……どうして、そんなことを言うの」
「私は、私の役目を果たさなくてはいけないですから」
「幻の、役目?」
戦神子を、正しき道に導くことだろうか。このとき、柚葉はそう思っていた。
「そうです。だから、貴女も役目を果たしてください。大丈夫、来世ではきっと、幸せになれますよ」
そう言って微笑んだ幻は、柚葉に背を向けると、森の闇へと消えていった。
残された柚葉は、その後を追おうとするが、彼の足は早く、追いつくことができなかった。
乾いた涙の跡を、もう一度流れる涙が地面に落ち、無気力になってその場に崩れた。
(本当に好きなのに、理由がわからないなんて……)
もし、幻の行為を受け入れていたなら、彼が好きだと言う理由を口に出せたなら、こんなことにはならなかったかもしれない。
結ばれることなんてないと、心でわかっていたけれど、互いに想い合っているのに結ばれない程つらいことなどない。
けれど、戦神子としてアゼ―レ超大国を救うためには、立ち止まってなどいられない。
幻に言われた通り、役目を果たさなくてはならない。
子供じゃないんだから、と涙を拭い、膝をついてゆっくりと立ち上がった。
指輪は変わらず、光の道となって柚葉の行き先を指し示している。
「……行こう」




