鳥瞰編
俺は今、人工の水鳥を“巣”に返す途中だ。
耳に聞こえてくるのは、後部で回転するエンジンの音と、風切り音だけ。
最も気を配らなければならないのは、やはりエンジン音だ。
今は小気味よい音を立ててプロペラを回転させ、推進力を生み出しているが、いつ不調を起こすかわからない。
そんな危ない乗り物に乗るのは、馬鹿のやることだと俺は断言できる。
そして、自分もその馬鹿の一人だ。
「そろそろです ! 」
後席から声がした。
「ああ」
“巣”に近づいてきた。
高度を下げてエンジンをカットし、ふわりと滑空に入る。
エンジン音が消え、機体は静かに、滑るようにして、“巣”の近くに着水した。
“巣”からは、クレーンが降りてくる。
先端のフックに、担当の乗組員がぶら下がっていた。
「お疲れさんです」
「おう」
機体にフックがかけられ、ワイヤが巻き上げられていく。
人工の水鳥と俺達は空中に吊され……
やがて、“巣”の上に戻った。
この艦の名は、『若宮丸』。
俺達の乗るモーリス・ファルマン水上機を運用するための、移動拠点。
本来ならば、水上機ではなく陸上機の離着陸が可能な艦が理想だが、英国のような強国ですら、まだ実現していない。
そんな中で、日本が代案として考えたのが、水上機を運用する艦だったわけだ。
水上機をクレーンで海面に降ろして発進させ、帰還時にはやはりクレーンにより回収するという、手間のかかる方式だ。
英国でも、同じような試みがされたと聞くが、詳しくは知らない。
空を飛んで巣に帰った後は、無性に一人になりたくなる。
余韻に浸りたいのだ。
報告を済ませ、俺は後部甲板で海を眺めていた。
……黒い瞳の若者が
私の心をとりこにした
……もろ手を差し伸べ若者を
私はやさしく胸に抱く
女の歌声が聞こえた。
振り返ると、ふわふわとした茶色の髪に、青い瞳の少女が唄いながら歩いていた。
普通ならば、ここは女とは無縁の場所だが、彼女は例外である。
彼女こそが、この船……『若宮丸』そのものなのだから。
……愛のささやきを告げながら
やさしい言葉を私は待つ
俺は美麗な歌声を聞きながら、波の動きをぼんやりと目で追っていたが、彼女……若宮は俺の存在に気づいて、歌を止めた。
「続きを、唄ってくれ」
俺がそう言うと、照れくさそうに笑って、再び唄い始めた。
……みどりの牧場で踊ろうよ
私の愛する黒い瞳
……私の秘めごと父さまに
告げ口する人だれもいない
歌が終わると、若宮は俺の隣に歩み寄ってきた。
彼女は艦魂。船魂などとも呼ばれる。
その名の通り、船に宿る魂。
彼女たちの姿が見え、声を聞くことが出来るのは、ほんの一握りの人間のみ。
「すみません、お邪魔をしてしまいました」
「いや、お前なら構わないさ。今のは、何ていう歌だ ? 」
「『黒い瞳』……ロシアの民謡です。第二戦隊の人たちが、よく唄っているので……」
第二艦隊の第二戦隊は、先の戦で鹵獲した艦で成り立っている。
それらの船に宿る者達も、元はロシアの生まれだ。
そしてこの『若宮丸』は、その戦の最中に拿捕された、英国の貨物船を改造した艦。
茶髪に青い目という彼女の風貌は、それに由来する。
昔は何処の国でも、女は金塊や骨董品と同じ扱いだった。
時には献上品として使われ、時には政治の道具となり、ただ時代に流されることしかできなかった。
船魂も同じだ。
「やはり、船魂も故郷は恋しいか」
俺の言葉に、若宮は少し目を細めた。
「……中尉、もしかして私たちを、哀れんでいるのですか ? 」
「哀れんでほしいか、若宮 ? 」
「いいえ」
彼女……若宮はきっぱりと答えた。
「そういうのは、嫌いです」
「俺もだ」
俺は笑った。
若宮も笑った。
彼女もロシア生まれの船魂たちも、故郷を懐かしむことはあっても、今の自分の境遇を嘆いてばかりではない。
そこが自分たちの居場所だと覚悟を決め、生きる信念を持っている彼女たちに、哀れみなど失礼なだけだ。
「もっと何か、唄ってくれ」
「えっ……」
「嫌か ? 」
「いえ、中尉が聞いてくださるのなら……」
……若宮は照れながら、イギリスの民謡を歌い始めた。
それを聞きながら、俺はまた、波の動きを眺めるのだった。
… …
翌日。
朝食の後、俺は甲板に出ていた。
今日も、飛ぶことになっている。
「あっ、中尉」
俺を見つけた若宮が、微笑みかける。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
俺は周りに誰もいないのを確認し、挨拶を返す。
「今日も、爆撃を行うのですか ? 」
「ああ」
俺達の任務は偵察だったが、やがてついでに爆弾を落としてこいと言われるようになった。
砲弾を改造した即席爆弾で、威力は大したこと無いが、心理的な効果はあるのだろう。
「そう言えば、敵が新型機を出してきたって聞きましたけど……」
「ああ、日本にも民間に二機ばかりある奴だ。昨日も陸軍さんの航空隊が戦ったらしいが、全く歯が立たなかったそうだ」
「じゃあ、水上機だともっと不利ですね」
「そうだな。フロートがあるのはかなりのハンデだ」
普通だったら、女に話すには無粋な話題だ。
「空中戦になったら、どうします ? 」
「とりあえず、どうにかして爆弾を落とす。それが駄目なら、逃げる」
俺の答えに、若宮はくすりと笑った。
「どうした ? 」
「中尉は淡泊な人だなぁ、って」
若宮は言った。
「そうかね……おっ、そろそろ時間だ」
「はい、お気をつけて」
………
……
エンジンの回転数が上がり、機体が水面を滑走する。
そしてふわりと、空中に浮き上がる。
二枚の翼が風を切り、大空へと飛び立つ。
速度も上がり、青島の港が見えてきた。
「爆弾投下用意 ! 」
後席の少尉に呼びかけ、高度を下げていく。
相手の弾には気をつけなければ。
「中尉 ! 」
少尉が叫んだ。
「二次方向に、敵機 ! 」
言われた方向を見ると、確かに機影が見えた。
機首にプロペラがついていて、翼は一枚、鳩のような形をした飛行機。
ドイツ軍の『タウベ』だ。
特徴的な形状の翼を、ぐにゃりと曲げて旋回し、接近してくる。
「来ます ! 」
「やるしかないな」
タウベから、チカチカと光が見える。
拳銃を撃っているのだ。
俺はタウベの横に回り込むため、機体を旋回させる。
しかし相手は段違いの性能だった。
機体を四十五度以上傾けたかと思うと、俺の視界から逃れる。
少尉が拳銃を撃ち返すが、お互い三次元的に動き回いる飛行機だ。
滅多なことでは当たらないだろう。
無論、相手からの射撃も当たる可能性は少ないが、それでも安心して爆弾を落とせる状況ではない。
「中尉、右から来ます ! 」
「もう下へ行ったよ ! 」
俺は完全に翻弄されていた。
急降下していくタウベを追うが、奴はひらりと身を翻し、俺の後ろに回り込もうとする。
これでは埒が開かないし、燃料が無くなる。
こうなったら一か八か、奴を無視して爆弾を落としてみるしかない。
「くっ……南無三 ! 」
敵戦艦に機首を向け、高度を下げる。
対空砲火も始まった。
「爆弾投下用意 ! 」
叫んだその時、右側からエンジン音が急接近してきた。
いつの間にか俺の横に並んだタウベが、機体を数メートルほどの距離まで近づけてきたのだ。
俺は咄嗟に、操縦桿を左に倒した。
旋回して退避。
「……無理だ」
俺の口から、そんな言葉が出た。
機体性能だけではない、操縦士の腕にも差がある。
「中尉、そろそろ燃料が ! 」
「帰投する ! 」
任務失敗。
無様なことだ。
機首を『若宮丸』の方向へ向け、撤退する。
ちらりと後ろを振り返って見ると、タウベの操縦士が俺の方を見ていた。
その男が俺に向かって敬礼をしたのを見て、俺は自分が劣っているのは技量だけでないことに気づいた。
心の余裕でも、負けていたのだ。
……
……
帰還して報告を済ませた後、いつものように海を眺めた。
するといつのまにか、若宮が側に来ていた。
「空中戦をしたんですね」
「ああ、散々だったよ。性能も技量も、違いすぎる」
「大丈夫なのでしょうか ? 」
「戦況を考えれば、後は艦砲射撃と陸軍さんの歩兵部隊で、カタをつけられるだろう。上の連中には、もっと航空部隊の実績を作っておきたい奴もいるだろうが」
若宮はそれを聞くと、少し俯いた。
「どうした ? 」
「私……最近、夢を見るんです」
「夢 ? 」
「はい」
若宮は頷いた。
「自分の船体が、滑走路のような船になっていて、そこから沢山の飛行機が飛び立って行くんです。そして、敵の飛行機と戦って、敵も味方も次々に墜ちて……それがとても怖くて、とても綺麗で……」
「……」
その夢は、いつか現実となるかもしれない。
戦艦の船魂たちは、『若宮丸』のような航空機搭載艦の力を疑問視している。
いや、他にも疑問視する者は大勢いるだろう。
しかし空からの攻撃に対する恐怖は、相当なものだ。
今回の戦いで航空部隊の有用性が証明されれば、航空機は今より更に発達し、俺など及ばないような操縦士も生まれるだろう。
そしてやがては、航空機とそれを運用する艦が、戦の主役となる……。
無論、それを若宮は喜ばないだろうし、俺も喜ぶ理由は無い。
「私、空が怖いです」
「俺もだ」
「でも人間は、そんな空も支配しようとしている……人間も怖い」
「ああ、そうだな」
俺は頷く。
「だから俺は、飛びたいんだ。操縦桿を握っている間は、そんなことは気にならなくなる」
「飛ぶのって、そんなに凄いんですか ? 」
「凄いさ」
国がどうの、作戦がどうの……そんなことは関係ない。
飛びたいから、飛ぶ。
ただ、それだけだ。
「……私も中尉と一緒に、飛べたらいいのに」
「俺も、お前を乗せてやれたらと思うよ」
船魂は、船から離れられない。
そして、船と命を共にする。
そんな船魂だからこそ、空には特別な何かを感じるのかも知れない。
「蒼い海原で踊ろうよ、俺の愛する青い瞳……なんてな」
「……日本人もそういう冗談が言えるんですね」
頬を赤らめ、若宮は笑った。
「だがお前にはここで、俺の帰りを待っていて欲しい、って気持ちもある」
「……私も一番嬉しいのは、飛び立った飛行機が……貴方が帰ってきたときです」
……この美しい生き物は、俺が考えているよりも情熱的なのかもしれないな、などと思った。
「だから、何だ、これからも宜しく頼む」
「はい、中尉」
俺の側で、若宮は唄う。
俺はじっとそれを聞きながら、波と空を眺めた。
このまま時間が止まってもいいな、と、俺は考えていた。
…
モーリス・ファルマン小型水上機
日本軍がフランスから輸入した機体。
これより新しいモーリス・ファルマン大型水上機と共に『若宮丸』に搭載され、青島攻略戦に参加した。
陸軍機と共に、湾内の残存戦力調査という任務を果たし、それに加え即席爆弾による爆撃も行った。
エンジンは推進式。
エトリッヒ・タウベ
ドイツ、オーストリアなどで作られた航空機。
『タウベ』とは鳩のことで、その名の通り鳥のような形状をしているが、実際にはザノニア・マクロカルバという植物の種子の形状がモデルである。
抜群の安定性を持つ一方で運動性能は悪かったため、1915年夏には前線から退いたが、それまで各国の軍で使用された。
青島のドイツ軍機の中で、実戦に参加したタウベはたった一機だったが、当時最新鋭のその性能で日本軍機を翻弄した。
日本も民間から一機を徴用し、ニューポール機と共に青島へ派遣するが、実戦に参加する前に日本軍は勝利した。
流水郎「読んでくださってありがとうございます。今回は政治とかそういうのをあまり出さずに、ただひたすら空に魅せられたた男と、それを見守る艦魂を書きました。イメージ的にはスカイ・クロラの影響もあるかも」
小夜「本当に黎明期の航空隊は、大変だったよね」
流水郎「タウベに翻弄されたとはいえ、偵察任務はきちんと果たし、日本軍最初の航空作戦は、陸軍・海軍共に成功だったと言えるだろう」
絹海「この頃の飛行機、機銃は無かったんですか ? 」
流水郎「うん、最初飛行機は偵察用にのみ使われていて、敵機にあっても互いに敬礼したり、手を振ったりするだけだったらしい」
絹海「そ、そんなに呑気でいいんですか ? 」
流水郎「本文に書いたとおり、この頃の飛行機はいつエンジン不調で落っこちるかわからない不完全な乗り物だった。そんな死と隣り合わせの世界に生きる者としてのプライドから、「俺達はみんな、空に命を賭けるパイロットだ、仲間だ ! 」みたいな、敵味方を超えた共通の意識があったらしい」
小夜「ちょっと羨ましいなー」
流水郎「ところが飛行機による偵察が発達するにつれて、敵機を落とす必要性が生まれてきた。最初は、たまたま持っていた工具か何かを投げつけたのが始まりだったらしいが、こうなるともう後戻りはできない。石ころやレンガを愛機に積んで投げつけたり、当時は吹きさらしの操縦席だったから目つぶし玉とかも使ったらしいな。やがて護身用の拳銃で撃ち合ったり、騎兵銃を持ち込む者も現れたそうだ」
小夜「互いに動き回ってるし、空戦技術も発達してなかったから、滅多なことじゃ命中しなかったけどね。で、やがて固定機銃を装備した『戦闘機』が開発されて、本格的な空中戦の時代が始まるわけ」
絹海「なるほど……。ところで敵の『タウベ』っていう飛行機が旋回するとき、「翼をぐにゃりと曲げて」っていう文がありましたけど、この頃はエルロンが無かったんですか ? 」
流水郎「タウベの翼は『たわみ翼』と言って、主翼自体をねじ曲げて機体を傾ける方式だったんだ。本物の鳥に近い方式だね。すぐにエルロンが開発されたからあんまり使われなかったらしいけど、これはライト兄弟がたわみ翼の特許を握ってたことも大きいみたいだ」
小夜「その辺のことで、ライト兄弟は何度も裁判起こしたらしいよ」
流水郎「詳しいことはググってください」
小夜「ところで前に、「日本軍最初の航空母艦の話」って言ってたよね ? 」
流水郎「うん」
小夜「『若宮』って、水上機母艦じゃないの ? 」
流水郎「1920年、鳳翔が就役するよりも前に『若宮』は航空母艦に籍を置いている。航空母艦と水上機母艦が区別されるようになったのは、陸上機の離着艦ができる本格的な「空母」ができてからなんだ。だから、実質を無視して当時の名称にこだわれば、『若宮』は「日本で最初に航空母艦に分類された艦」なわけ」
絹海「……まあそうですね」
流水郎「さて、次は『若宮』視点になります」