春の栞
1 春の栞
ありがとうとごめんなさいが言えりゃいい、って言うだろう?
それはさ、ありがとうもごめんなさいも、一人ぼっちでいたら言えない言葉だからさ。
この子が――我が子がひとりぼっちになりませんように、って。
きっと始めはそういう意味だったはずなんだ。いまはもう、――昔も変わらないか。子供は親のアクセサリーみたいになって、エゴとかプライドとか、そんなんを満たすために「イイコ」を子供に求めるけれど、でもきっと、いまもいるとこには、ほんとの意味で言ってる人、いると思うよ。
独りぼっちになろうとするな、って。
いい子でいなさいって意味じゃなくて、きっとさ、そういうことだよ。
きみは、とっても素敵な子だよ。
★
大きな松の樹のある御宮さんに、桜が咲きました。
はらはらと薄紅色の花びらが舞う木の下を、ランドセルを背負った小学生たちが歩いてゆきます。黄色いカバーをかけた、ぴかぴかのランドセルの一年生も二人、通学団に新しく仲間入りしました。
西日の眩しい、ゆうやけこやけに染まる少し前。春めいた、甘くて少し冷たい風の通るお社の裏手で、ひっくひっくとしゃくりあげる声が膝を抱えています。隣に置かれたランドセルには黄色いカバー。
「ねーえ、ちいさなお嬢さん。なにがそんなに悲しいの?」
驚いた女の子が顔を上げると、いつの間にか、お社の淵に誰かが腰掛けています。
ぶらつかせている足で下駄がカラコロ鳴っていて、朱色の着物みたいな羽織を着た、飴色の髪をした男の子。
ずいぶん変わった格好をした、女の子と同い年くらいの男の子は、髪とおんなじ色の目で、女の子を見ています。
「ね。なんか、かなしいの?」
びっくりしたのが落ち着くと、今度はまた、涙で視界がぼんやり滲んできました。泣かないように唇を噛んで、何か話さなきゃと思っていたら、
「泣きそうなら泣くのがいいよ、気が済むまで泣いたらいいさ」
泣かないで、どころか、風変わりな男の子がそんなことを言うので、彼女は抱えた膝に顔を埋めて、ぽろぽろ、ぽろぽろ泣きました。カラン、コロンと下駄を鳴らすだけで、あとは黙ったまま。甘くて少し冷たい風の中、男の子はずっとそばに居てくれました。
風が耳を通ってゆく音、揺れる木の葉の音、鳥の声。ときどきカラン、コロンと鳴る下駄の音。――誰かの、音。
優しい、心地いい沈黙もあるんだな、女の子は思いました。
「あのね、ともだちが、上手にできないの」
ひとしきり泣いた女の子は、膝を抱えたまま、ぽつぽつと話し始めました。
「あそぼうよって、自分から言えなくて。だってね、わたし、外で遊ぶより、本を読むほうがすきなの。だから、ほんとは一緒に本を読んだり、好きな本の話をね、したいなあって思うんだけど、みんな外に行っちゃうから、一緒に行こうよって言われると、行っちゃうの」
赤く腫れた目元を、涼しい風が労わるように撫でていきます。
「だって、ひとりは、さみしい。」
外で遊ぶのも嫌いじゃないしね、でもね、と潤んだ瞳はささやくよう。
「本ばっかり読んでると、わらわれるし、おかあさんが心配するんだ」
外でばかり遊んでないで勉強しなさい。
宿題は忘れずにきちんとやりなさい。
危ない場所には行ってはいけません。
危ないことをしてはいけません。
お友達をたくさん作りましょう。
みんなで仲良く元気に遊びましょう。
『このクラスは明るく元気なクラスです。』
大人が子供に言う、これらの事柄はきっと、間違ってはいないことです。けれど、正解ではないし、正解なんかないのです。
これらが正しいのなら、宿題も勉強もきちんとする大人しい子供は、「明るく元気な」クラスのどこにいればいいのか。
聡い子供は気付いていました。
これらが正しいからではなく、マルバツをつける大人たちが、こうあって欲しいと思う子供の姿を勝手に決めて、それを正解にしてしまったこと。その「正解」とは、自分がかけ離れていること。
「でも、みんなとわたしは、違うでしょう?」
明るくて、勉強が嫌いで、外にすぐ飛び出してしまって、たくさんの友だちと、放課後遊びに出掛けていく。
注意したって聞きやしないけれど、踏み外すことはしない、そんな理想の子供のモデル。
「みんな、だって、一人ずつ、みんなちょっとずつ違うのに」
そんな子供にはなれやしない、引っ込み思案で物静かな自分。
ただ、すきなものをすきでいるだけなのに。
「ふむ。んで、なんか、かなしいの?」
カランと軽い下駄の音に、穏やかで、柔らかな目が彼女をのぞき込みます。
「迷子の迷子のちいさなお嬢さん、ってとこさねえ。聡いんだね、きみは。賢いってこと。子供はみいんなそうなんだけどね。お嬢さんはその上さらにいろいろ考えちゃうみたいだ、考えなくっていいことまで、さ」
ひとりごとみたいに言って、彼はもう一度尋ねます。
「ね。ちいさなお嬢さんは、かなしかったの?」
びいだまみたいにまあるい目と目を合わせて、女の子は考えました。そういえば、最初っから聞かれていたのに、ずっと答えていませんでいたからね。
友だちのこと、学校のこと、お家のこと、家族のこと。そして、自分のこと。――ああ、そっか。
「かなしかったんじゃない、弱虫な自分が、きらい。なさけない、んだ」
首をふりふりへにゃりと力なくわらう女の子に、飴色の子供はいたずらっ子の目でわらうと、組んだ足に頬杖を付いて、身体ごと彼女の方を向きました。
「ね。お嬢さんは、お嬢さんがきらい?」
「……きらい。」
「じゃあ、なんで泣いてたの?」
「? それは、元気な子になれないから…」
「なれないから、悲しいんじゃあないんだよね?」
「かなしいんじゃ、ない…」
「なれないから、悔しかった?」
「悔し……?」
「なれない自分が、かわいそうだった?」
女の子はドキッとしました。
ギクッとした、と言ってもいいでしょう。
そうだ、わたしが情けないのは、すきなものをちゃんとすきって言えない自分だ。
思ってること、言えないで、ぜんぶ周りのせいにする自分だ。
だってわたしは、元気で明るい子になんか、なりたくない。
言葉は、とってもこわいから。
「……そうだね、ただ可哀相がってただけだ」
格好わるいね、とため息をつく彼女に彼は言いました。
「なんで? ちゃんと泣き止んだろ」
ずうっと泣いてても良かったのに、ほら、ちいさなお嬢さんは、小さいのに、自分で泣き止んで、自分でぼくに話せたろ?
飴色の目を細めて、にいっとわらって言いました。
「そんなきみは、とっても素敵だよ」
いいこと教えてあげるね、彼は人差し指を口に当てて片目を器用につむってみせました。
「いっくら自分が嫌いでも、自分の一番の味方は、自分自身なんだよ」
自分とは戦わない、争わない――なっても好敵手≪ライバル≫くらいだね。お互いを刺激し合ういい関係だ。
「自分をかわいそうだって慰めてやることも時には大切さ、ずっとそうやんのは別。それがもう一回立って歩く力になるならさ、いいんだよ。だってほら、何がどれだけ痛かったかは、どうしたってお嬢さんにしか分からないんだから。でもさ、お嬢さんは泣いて、泣き止んで、なんでかもちゃーんと見っけて、大丈夫に出来たでしょう?」
ほんとはずっと、いままでも、きみはきみを大丈夫にしてきたんだ。
だから、今日のきみがいるんだって、きみは知ってたかな?
そんなの知らないよ、と口を尖らせる女の子に、飴色の少年は得意げに言いました。
「ばかだなあ。きみが知らないから、ぼくが知ってて、だから教えに来たんじゃないか」
朱色の羽織が風にふわりとなびいて、女の子の膝に花びらが降ってきました。
薄紅色の、ちいさな花びら。
「ね、ちいさなお嬢さん。きみはなんだって出来る。お望みならばどこまでだって行けるんだよ。空だって飛べるさ、きみが知らないから、ぼくが知ってるんだ」
「――ほんとに?」
小さな花びらを、小さな手でそうっと包んで、女の子は立ち上がって振り向きます。
んーっと伸びをして、ずっと座り込んでいた身体をほぐすと、片手を握ったまま、器用にランドセルを背負いました。
飴色の少年はカランコロンと満足そうに下駄を鳴らして、目一杯わらってみせました。
「ほんとに。いまだって自分で立ち上がれただろ?」
立ち上がって、歩いて、つまづいて、
座り込んで、走って、転んで、うずくまって、時には寝転んで。
「そんなふうに、続いてく。んで、きみはずっと大丈夫にしてきたし、してゆける」
「大丈夫じゃない時が来たって、大丈夫になるから、すきなようにやってみたらいいだろ。お嬢さんが忘れるから、ぼくがいつだって、いつまでだって、――きみが生まれる前から知ってるんだ。」
「ほら、あんだけ泣いたらお腹すいたろ。そろそろお帰り。」
西日がだいぶ傾いて、空に夜が滲んできました。
確かに、とてもお腹が空きました。すっきりと、さっぱりと。
「うん! ありがとっ」
カランコロンと鳴る下駄に手を振って、女の子は家路を急ぎます。
石段を降りたところで振り返ると、御宮さんのどこにも、あの男の子はいなくなっていて、握った桜の花びらだけが、さっきまでの時間は本当だったんだと教えてくれていました。
晩ご飯をおかわりして、宿題をして、本を読んで、お風呂の順番を待ちながら、女の子はふと思いました。
――そういえば、あの男の子は誰だったんだろう?
同じくらいの年頃だけれど、通学団ではみたことのない子だった気がします。
本に挟んだ、桜の花びらを眺めてあれこれ考えてみましたが分からず、おかあさんに聞いても分からなかったので、おばあちゃんに聞いてみることにしました。
「あらあら、それはあの御宮さんの神さまに会ったのかもしれないわねえ」
泣いていたことは内緒にして、不思議な男の子に会ったことを話すと、おばあちゃんは細い目をさらに細くして、嬉しそうに教えてくれました。
大きな松の樹のある御宮さんには、人好きだけれど怒ると怖い神様が住んでいる。
ときどき人に化けては、社の中にいる人間に話しかけたり、一緒に遊ぶこともある。
カランコロンと鳴る下駄に、鼻緒と同じ、朱色の羽織を着た子供の姿で――
★
「ねー、もう行くよー?」
「わあっ、ごめん。もうちょっとだから!」
とある高校の図書室で、セーラー服に身を包んだ女の子が、本を山と抱えて友達に呆れられています。
「あんたほんと好きねー」
「うん。何か読む?」
「えー……あ、じゃあ帰りにCD屋さん寄ってこうよ。本屋もあるし、あたしもオススメあるし、一緒に見よう?」
「やった、ちょうど新刊出てたんだ」
「よし、決まりー」
「じゃあ、私返却と貸出お願いしてくるね」
図書室の窓際の席は、満開の桜並木がずらりと見渡せる、彼女のお気に入りの場所です。
放課後の、人もまばらな図書室には、本を目的に来ているのは彼女くらいで、ノートを広げて勉強しているひとが二人と、貸出カウンターに図書委員が一人いるだけです。
「えと、こっちが返却で、こっちは貸出をお願いします」
「はい。……あ、落ちましたよ」
「え? あれ? わっ、ありがとうございます。うわあ、よかった」
「それ、桜の花びら?」
「あ、はい。小さい頃に祖母と作った宝物で……ほんとうにありがとうございました」
「へえ、そんな綺麗に残るんだ。――いいね、そういうの」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
「っと。はい、お待たせ。返却は二週間後になります。……すごいね、いつもこんなに読んでるの?」
「あ、はい。本すきなので、えと、よく借りてて……」
「へえ、……あ、これ俺が好きなやつだ。」
「え? あ、えと、その作家さん読んだことないけど気になって、借りて、みました」
「そうなんだ。これはいいよ、オススメ。――栞、もう落とさないようにね。」
「え、あ、はい。あ、ありがとうございましたっ」
ばたばたと転がるように出ていく彼女を、彼が面白そうにくすくすわらいながら見送っていたのは、内緒のお話。
その頬が、少し赤くなっていたのも。
「どしたの? 真っ赤だよ?」
「な、なんでもないのですよ……お、お待たせ。」
図書室から飛び出してきた彼女が、どきどきとうるさい心臓の、胸の前で握り締めている栞。
それはラミネート加工で作られた、手作りの栞でした。
朱色の台紙とリボンに、桜の花びらが一枚のシンプルなそれは、だいぶ使い込まれた年月を感じさせます。花びらだけが、彼の言ったように不思議と色あせずに、淡い春のままで時を止めています。
「ほら、ちゃんとしまったら行くよー。おやつに!」
「また? いっか、そういえばお腹すいたね」
そういえば――この子と仲良くなったきっかけも、この栞だったっけ。
校庭をぐるりと囲う桜並木の下を歩きながら、ふとそんなことを思い出しました。
学年が上がったクラス替えの春、読んでいた本に栞を挟もうとして、「それって手作り?」と話し掛けられたのでした。「手作りだよ、……作る?」一生懸命、彼女がそう言うと、彼女は身を乗り出して「それってさ、CDの帯とかでも作れる?」と興奮したように話し始めたのです。
すきな歌手がいること、あんまり有名じゃないしグッズもあまり買えないけど、買える範囲でCDも買っているということ、だから綺麗に保存できるようになるならすごく嬉しいし助かるのだと言いました。その次の日に彼女は初めて友だちを家に呼びました。
それからずっと、いまも続く縁に、彼女は心がふありとあたたかくなるのを感じました。
今度、あの人に会えたら。
オススメしてくれた本の感想を言ってみよう。
返しに行く時もまた、栞を持って行ったら会えるかな。
また、話せるかな。この子と仲良くなれたみたいに、話せたらいいな。――あれ、もしかして。
あの時の花びらの、この栞のおかげ……?
――まさか、ね。
クスリと落とされた囁きを、いつかのような甘くて少し冷たい風が、花びらと一緒に優しく空へと舞いあげてゆきました。




