夏の傷
2 夏の傷
どん底ならさ、落ちるとこまで落ちてごらんよ。
底までいけば、足がつくだろ?
そしたら少し座って休むなり、立って歩くなり好きにしたらいいさ。
痛みもかなしみも知らない人間が強いんじゃない、――なんだよ、ばかだなあ。知らないのかい? 強さなんて、それこそが神さまとおんなじ絵空事。
痛みにもがいて這いつくばって、それでも立ち上がる生き物をこそ、格好いいって言うのさ。
ん? きみのことだよ。
★
大きな松の樹のある御宮さんに夏がやってきました。
緑の葉は風にさらさらと囁き揺れて、木漏れ日を風に乗せて届けてくれます。蝉も鳴きに鳴いて、うだるような暑さに砂地にかげろうが揺らめきます。だいぶ日中は暑くなってきたので、太陽の高いうちはあまりお御宮さんに人は来ません。朝早くには、変わらず散歩に来るおじいさんやおばあさん、犬の散歩のおじさんが訪れますが、あとは夕方。日の傾いた頃に、小さな子供や、ボールを抱えた小学生たちが待ってましたとばかりに集まります。ようく知っている子は、境内がちょうど影になっていて、風通しも良く、涼むにはとても気持ちがいいので、中学生のグループなんかがおしゃべりしていたりもします。
そんな、梅雨も明けた夏も盛りの頃。どうやら中学生らしい夏服の男の子が数人。御宮さんの少し奥まったところで、なにやら大きな声で楽しげにわらっています――いいえ、嘲笑って(わらって)います。
数人ではなく、数人と一人と言った方が適切でしょう。
同じ学生服の少年一人を取り囲んで、蹴っ飛ばし、いたぶるために殴り、嘲笑って、彼の白いシャツは、鞄やらと一緒に砂にまみれていました。
数人のうちの一人が、近くにあった木の枝をバキバキと折って、彼の背中に向けて振り上げます。他もまるで遊ぶように手近な木の枝に手をかけ、メキメキ、ミチミチと引きちぎるように枝を折ろうとします。少年はぼんやりと、ただうずくまっていました。
そのとき、カラン、コロンと場違いに涼やかな音が割り込んできました。
「おい、そこの少年ら。一体何をしているのかな?」
彼らがいる、さらに奥にある石の祠に、いつから居たのでしょう。ずいぶん変わった格好をした男の子が、腰掛けた足に頬杖を付いてゆるく口の端を上げています。木漏れ日の落ちた飴色の髪と同じ色の目が、やけに剣呑な。
朱色の羽織をひらりとなびかせて、カランコロンと下駄を鳴らしながら、風変わりなその男の子は呆気にとられている彼らに重ねて問います。
「一体、何を、したんだ、って訊いたんだけど。聞こえてる?」
まるで子供に尋ねるようなその口調に、手に枝を持った少年たちは、さっと標的を変えました。
お前の知り合いか、と低い声で問われ、うずくまったままの少年は首を振りました。
「なんだよ、おれらがいじめでもしてるように見えたのか?」
「オマエこいつの知り合いでもないんだろ?」
「関係ねえやつはさっさと消えろや」
口々にそんなことを言う少年たちに、男の子はきょとん、として歩を止めました。
「……なに、いじめてる自覚、あったんだ。」
はあ?! といきり立つ少年たちもどこ吹く風で、男の子はすっと指をさします。
「そんなことはいい。ぼくが訊いてるのは、それ。」
手に手に枝を持った、少年たちを指さして。
「その枝を、どうしたんだ、って訊いてんだよ」
はあ? 今度は見下したような声と、嫌にわらった目が、青年を嘲笑います。
「どうした、って折ったに決まってんじゃん」
「なんだこいつ、馬鹿じゃねえの」
うずくまった少年は、ぼんやりした頭で、それでも不思議に思いました。
この子は、一体何をしにきたんだろう、と。
あんなちいさな子供に、何ができるんだろう、と。
そのとき、ぴりっと空気が冷たく張り詰めたのを感じて、少年は体を起こしました。ぼんやりしていた意識も一瞬で覚醒するほどの――それは、怒気。
「そう、じゃあ、きみたちは殺しを犯したんだね。」
「無抵抗の、報復もしないものを、ただそこに居たからというだけで殺した、と。――もうお前ら人間じゃあねえなあ、獣以下だ。自分が生きるためでもない、私利私欲で命を殺めるどころか、ただなんとなく殺すなんて、鬼と呼ぶにも鬼に失礼だ。なあ?」
カラン、コロン。歩くたびに鳴る下駄の音は、やけに寒くて、冷たくて。
それでも「意味わかんねえ」というそれらに、男の子はすうっと、真っ直ぐ後ろを指さします。
「見てみろよ、あれがお前らのした結果だ。」
どく、どく、どく。
妙な音に振り返ると、さっき折られた枝の、ずたずたに折られた枝の切り口から、真紅なんて、深紅なんて綺麗なものじゃない、やけに生々しい赤色が溢れ出していました。
でろり、どろぉり、とろとろ、ぬらぬらと、傷口を舐めるように、鉄の匂いをまき散らしながら、鼓動に合わせて傷から血が流れます。まるで、折られた木たちの涙のように。どく、どく、どく、止まらない泣き声のように。
「ほぅら、お前らがやったんだって見ればわかる」
にいっと細めた目は、ひどく残忍にわらって、真っ直ぐ、彼らを指さしました。
「ずいぶん殺したんだねえ。まだ殺すのなら、ぼくがここできみたちを殺してもいいはずだよね?」
少なくとも腕くらいは引きちぎっていいはずだよねえ、と、ゆっくりと男の子が近づいてくるたびに、カラン、コロンと鳴る下駄の音が冷えていきます。座り込んだままの真っ白いシャツの少年は、呆然と目の前の光景を見ていました。
「これだけ殺しておいて殿様気取りとはね――よっぽど首をちぎられたいのかな?」
――ぬる、り。
何か言おうとして開きかけた口は、違和感に閉じられて、やがて声にならない驚愕と悲鳴が吐き出されました。
自分の手を見た彼らが目にしたのは、まるで人の腕をもいだように赤色を滴らせた真っ赤な枝と、やけにぬめる赤い液体に濡れた手と腕、そして全身に赤色を浴びて真っ赤になった夏服でした。
その姿は、返り血を浴びた殺害者そのもの。
たらり、と、頬を伝い口に液体が流れ込むに至ってようやっと、彼らは自分の髪からも――血が滴っていると気づいたのでした。
――ひ、と、ご、ろ、し。
上がった口の端は捕食者のそれ。囁かれた五文字に、彼らは成すすべもなく走り去って行きました。
へたり込んだままの、少年を残して。
「二度と来んなよーっ、と。立てるかい?」
彼らが石段を文字通り転がり落ちて、完全に御宮さんから出ていくと、男の子は思いっきり伸びをして、先程までの怒気はどこへやら、カラコロと気さくに下駄を鳴らして、少年にちいさな手を差し伸べてきました。辺りを見回すと、真っ赤に染まっていた木は、何事もなかったように、ただ引き裂かれた切り口を晒しているだけで、少年は、わけがわからなくなってしまいました。なんだか頭がぐらぐらしてきたような気さえしてきました。
「わ、きみ肘んとこ切れてんじゃん…え、うわ、きみ鼻! 鼻血出てる!」
「え…?」
ぼたっ、と生温い感触に下を見ると、ズボンに赤い丸。
うだるような暑さも相まって、少年はずるずると力が抜けていくのを感じました。
――ほんとはすぐ、ここから離れたかったのにな。
そんなことを、いまさらのように思いながら。
気がつくと、彼は境内に仰向けに寝転がっていました。
鼻と腕には手ぬぐいのようなタオルが当てられていて、鼻血はほとんど止まったようですが、仰向けだったからか、喉の奥がなんだかおかしな具合です。
「気分はどう?」
降ってきた声を見上げると、男の子がすぐ隣に腰掛けていました。
「ごめんね、ほんとは鼻血って仰向けはよくないんだけど、仕方なくてさ」
「ああ…いいよ、ごめん」
「ばかだなあ、こういうときは謝るんじゃなくてありがとうでいいんだよ――あ、肘。すこし拭いただけだから、ちゃんと水で流しておいでよ」
言って、御宮さんの小さな水道を、ちょいちょいと指でさします。
これくらいいいです、と言う少年に「甘く見ると痛い目みるから洗っといで」と有無を言わさない調子で返されてしまい、のそのそとけっこう深く切れていたらしい肘を水道の水で流しました。――完全に、ペースも調子も狂わされてしまったな、と思いながら。
「そういえば、さっきのアレ、なに?」
「さっきの? …ああ、あれか。あれはさ、うん、ただの手品だね。」
「手品?」
「そ。手品、手品。」
「…なんかもう、カッコ悪いとこ見られたし、どうでもよくなってきた………」
格好悪い? と寝転んだ男の子に聞き返されて、少年は腰掛けたまま頷きました。
「今日みたいなの、初めてじゃないんだ…見りゃ分かったと思うけど。なんでかなあ、僕とくになんにもしてないんだけどね、ただ穏やかに、というかごくごく普通でいられたら、それだけでよかったのに。」
なんでこんなこと話しちゃってんだろ、と思いながら少年がぼそぼそつぶやくと、すっと冷えた声が返ってきました。
「あんなもんに、理由なんてないさ。」
カラン、コロンとゆっくり下駄を鳴らしながら、男の子はあくびをひとつ、少し遠くを見るように続けました。ちいさなどんぐり眼は不思議に大人びて、――遠い、遠い日を、思い出しているような、むかし話をなぞるように。
「ひとは、ずうっと変わらない。自分と少しでも違うもの、自分が気に入らないもの、自分にとって邪魔なもの――そんなどうしようもない、好き嫌いとかなんとなくとか出来心で、他人を排除するし、痛めつけるし、殺し合いだってする。意味も理由もなしに命を殺めるなんて、人間以外はやらないよ。狩りは生きるために殺すこと、だから必要以上は殺さない。生きることが殺すことなら、人間のそれは生きることを楽しむために他を殺す。救いようもないし、――そもそも救いなんてない生き物さ」
でも、と、すらすらと言葉を並べたそこに男の子は呟きをひとつ。
「だからさ、救われるんだよ。」
要領を得ない言葉に、少年が怪訝そうに首だけで振り向くので、彼は少しわらって言葉を重ねます。
少年には何も聞かないまま。
「カミサマホトケサマ…えーと、イエスサマ? なんにせよさ、困った時に神に頼んだって、なんにも助けちゃくれないだろ? それはさ、――神さまなんて、いないようなもんだからさ。救いがあんまりにない世界だったから、人間は神さまを、――困ったときや辛いときや悲しい時に、生きる理由を作ったのさ。」
無いから、作った。
無かったから、作った。
無かったから、作れた――救えた。
男の子は無感情に呟いて、そういう貪欲さみたいなもんは人間の評価すべきところだね、と言い、少年と目を合わせると、言いました。
「だからさ、きみも救えるってことさ。」
「誰を?」
「ばかだなあ。きみ自身だよ。こればっかりは、きみにしか救えやしないのさ。」
どんなに愛されたって、恵まれたって、お金があったって、友人がいたって、家も服もあったかいごはんがあったって。
不幸な人は、自分を不幸だという。だから幸せじゃない。なれない、――ならない。
「さかしまに、なーんにもないように見えるのに、幸福だってひともいる。不思議だろ?」
さらさらと夏風に木の葉が揺れて、木漏れ日がゆらり。
男の子は、唐突に起き上がるといいました。
「ね。どうして木や草花は言葉を話さないか知っている?」
わかんない、少年が答えると、朱色の羽織をふわりと揺らして、風変わりな子供は教えてくれました。
きみが知らないからぼくが知ってんのさ、そう言って。
「木や草花はさ、話さないことを自分で選んだのさ。だって話せばきっと、彼らの悲鳴を面白がって、ただいたぶるためだけに花をちぎって、木を切り、草を燃やす輩が必ず現れるだろう? ――だからって、そいつらが怖くて口をつぐんだのじゃあない。ここは取り違えちゃいけない。」
「例えば、帰り道に、家族にあげようと花を摘む子。ちいさな妹や、お母さんにかな。きっとそんな優しい子は、花が口をきけるようになれば、花を摘まなくなるだろう。かわいそうだから、って道端の花を思いやってね。――だから、草木は口をきかないのさ。誰かのためにと、やさしく花を摘む子の心が、痛むことのないように。」
くしゃくしゃと、いきなり髪を混ぜるように力任せに頭を撫でられた少年が「うわあっ」と身をよじると、子供はあけすけな笑顔で思いきりわらいました。
いきなりなんだよ、とぐしゃぐしゃの髪を手で整えていると、カランっ、と小気味よく下駄が鳴って、男の子は境内から飛び降りると、少年のカバンを拾ってきてくれました。いつの間にか、眩しい西日のオレンジが景色を染めています。
ありがとう、と差し出されたカバンを受け取ると、子供はにっとわらって言いました。
「どーいたしまして!」
そろそろ帰るよ、と少年が立ち上がった別れ際でした。
「死んじゃだめだよ?」
カラン、コロンと下駄を鳴らした男の子が、不意に言いました。
「こーんなちっさい御宮さんの、いるかわかんない神さまでさえ、いるだけでいい、って毎日誰かしらお参りに来るんだ。――生き物のきみなら、ずっとずっとそうでしょ。いるだけでいい、生きてるだけで、充分だって、――ね。知ってた?」
知らなかった、声が震えてやしないだろうかと一生懸命わらってこたえた少年に、朱色の羽織にオレンジを乗せた微笑みが言いました。
「ばかだなあ。きみが生まれる前から、ぼくはずっと知ってたよ。ぼくがずっと、知ってるよ。」
手を振り振り石段を降りると、男の子の姿は見えなくなっていました。けれど、なんとなく分かっていたような気がして、少年は夏の夕暮れのなかを、ゆっくり家路についたのでした。
★
「……おじいちゃあん」
カラカラと引き戸の開く音がして玄関に行くと、いつかによく似た夏の夕暮れの中、近くに住む孫娘が、しゃくりあげながら腕で目をぬぐって、泥だらけで立っていました。
彼は慌てて駆け寄ると、肩をさすりながら「どうした、どっか怪我してないか?」と尋ねました。すると安心したのか力が抜けたのか、わんわんと泣き出した孫娘の声に彼の妻も飛び出してきました。彼はお風呂の支度をお願いすると、ちいさな肩を支えたまま、とりあえず荷物を下ろさせていきました。不意に、ん、という声がして、見ると、ちいさな手に、ちいさな花束が握られています。
「おじいちゃん、と、あばあちゃん、に、おみやげにっ、て、」
しゃくりあげながら差し出された、握り締めたために、少しくたっとなってしまった草花の花束。
彼は細い目をさらに細くして、心から愛おしそうに微笑むと、ちいさな手ごと、そっと花を包んで「ありがとう」と言うと、涙に震える手を、ちいさな背中を、ずっとさすってやりました。
「今日は晩御飯、じいちゃん家で食べてくか? ゆっくりしてっていいからな、大丈夫、大丈夫。」
ちいさな、けれど戦うその背中をさすりながら、彼はお風呂が沸くまで、ずっとそばにいました。「泣いちゃえ、泣いちゃえ」そう言って、「ようがんばった、えらかったなあ」とさすって。――見えない傷を労わるように、寄り添うように。
お風呂上りのちいさな、あたたかい、華奢な戦士――ちいさな孫娘を膝にのせて、つらつらとなんでもない話や、泥だらけになったいきさつなんかを二人はぽつぽつと話しました。おばあちゃんは静かに、傍らで繕いものをしていました。
「あたし、間違ってない。絶対、まけないんだ」
つぶやいた幼い声に、彼はゆるくわらうとちいさな頭を撫でて言いました。
「なら、目一杯やっておいで。傷つくことは負けでも弱くもない。傷とか、見えない痛いのは、知らないより知ってる方がいいだろうよ。――知ってる方が、うん、よかったなあ。」
彼はいつかの夏を思い出すように、そこからいままでを辿るように、少し遠くを見つめてクスリとわらいました。
這いつくばって、どん底まで落ちて――底から掴んだ灯りは、いまも彼の心で燃えています。
「どんなに大切でも、じいちゃんにお前の心がわかんないみたいに、どれだけ痛いかは、その人にしかわからん。――でも、傷を知っていれば、想像できる。わかろうとできるし、わからなくても、そばにいられる。」
彼が掴んだのは、光はでなく灯りでした。
灯りは、ともすものだから。――人が、作り出すものだから。
「めーいっぱいすっ転んでこい、いつでもじいちゃんとばあちゃんがここに居るから。逃げたって蹴っ飛ばしたっていいんだ。――お前がいてくれるんなら、それだけで、じいちゃんもばあちゃんも幸せなんだ。」
この子の答えは、この子にしか見つけられないと、彼は知っていました。
「お前が生まれてくれて、どんなに嬉しかったことか。ほうら、生まれただけで、お前はじいちゃんばあちゃん、父さん母さんも嬉しくさせてくれたんだ。お前はいるだけで、ほんとうに、それだけでいいんだよ。」
ふぇ、ちいさな肩が震えるのを、彼はいつかの傷跡の残る、大きな手で撫でてやりました。彼の妻もそっと傍らに来て、髪を梳くように優しい手つきとまなざしで、ちいさな愛し子をなでています。
優しく在ろうとする、やさしい彼らに、夏の夜風が慈しむように触れて、窓際に置かれたちいさな花束が、リリンと鳴る風鈴に合わせて、ふありと揺れました。
ちいさな、優しい花束が、夏の夜に揺れていました。




