シーン4 美少女忍者の決断を促す暗示的な夢(後編)
殿が目を覚ましたのは、城の奥にある寝所である。
領主のものとしては、それほど広くはない。せいぜい16畳といったところであろうか。
羽二重の布団から白い寝間着姿の身体を起こすと、何も着けてはいない。
ふと傍らを見ると、先ほどの娘がやはり白い寝間着をまとって、静かに寝息を立てていた。
殿は思わず布団から転げ出る。
じたばたと畳の上を尻で這って、その突き当りで後ろ手に襖を開こうとすると、一寸たりとも動かない。
「誰か!」
答える者はない。
再び叫ぶ。
「誰か!」
布団の中で身体を起こした娘が、心配そうに見ている。
もっとも、そんなことに彼は頓着しない。
「誰かおらぬか?」
襖の向こうで家老の声がした。
「おりませぬ」
「おるではないか!」
それは叱責というより悲鳴に近かった。
それでも、のらりくらりと答えるのは年の功であろうか。
「おりましても参りませぬ」
「これ! 主君の命に」
もはやそれは哀願といってもよかった。
だが、家老は応じない。
重々しく答える。
「一命にかけましても」
「五右衛門風呂がどうのこうのと主君を騙して、このような……腹を切れ打ち首じゃあぁぁ~ッ」
その叫びは、涙声でしかなかった。
家老は若き主をたしなめる。
「男が泣くものではございません、ここは笑うところでございます」
笑うどころか、学問を積み重ねてきた領主は、大いに自尊心を傷つけられてすすり泣いた。
「このようなふしだらな姿、明日からワシは城内を歩けまい」
「それで城内をお歩きになれないとなれば我らは出仕できませぬ」
しれっと答える老臣に、若者は君主として怒りの呻き声を上げる。
「そこまでして主君を愚弄するとは」
「このような腹、いくらでも切ってご覧に入れますゆえ、どうかお世継ぎを」
殿の言葉を遮るかのように襖の後ろで言い切った声はくぐもっていた。
おそらくは平伏しているのであろう。
お互い無言のまま、暗闇の中で時間が過ぎる。
しばらくして、殿の背後で立ち上がった娘が声をかけた。
「殿……私でよろしければどうか」
寝間着がするりと脱ぎ捨てられる。
畳の上に音もなく落ちた衣よりも、その脚はなお白い。
その皺ひとつない膝が、布団の上に落ちる。
「見てください」
顔を背けていた白い寝間着姿の殿が目を固く閉じたまま、黒髪の流れる艶やかな背中を思い切ったように抱き寄せる。
その向こうに見える端正な顔には、黒縁の眼鏡……。
「ダメ! お兄ちゃん!」
そう叫んで飛び起きると、そこにはもう、誰もいなかった、
夜更けの暗闇が、御贔屓アイドルのポスターが何枚か貼られた部屋を静かに満たしている。
「夢か……」
一葉には会った時から懐き、その言いつけには絶対服従の冬彦が瑞希の部屋に入り込むわけはない。
だいたい、あんな器用な一人芝居など、いくら瑞希が文字通り手取り足取り教えたとしても一朝一夕で演じられるはずがなかった。
そんなことを考えている間に、ようやく得られた睡眠を楽しんだほうが合理的で合る。
瑞希は再び布団に潜り込んだ。
だが、夢というものは望んでも続きが見られないものであるし、望まなくても見てしまうこともある。
……次の朝、本当に殿の姿は城内になかった。
夕方になって、家臣たちは殿の御前に呼び出される。
もちろん、黒縁の眼鏡などかけてはいない。
見れば、殿の隣には一人の娘が控えていた。
殿は娘を抱き寄せ、端正な顔に笑顔を浮かべて告げた。
「『葦』と呼ぶことにした」
「では、私共はこれで」
襖の向こうで足音がする。
「いくらでも腹を切ると申したな」
身構える一同。
「主君の寝所を冒したのじゃから、それが当然じゃろう」
襖がバタンと開くと、そこには逞しい男たちが、帯刀したまま何人も並んでいる。
「お主ら、帰れるものなら帰ってみよ」
「では」
「ここは笑うところじゃぞ」
暑苦しい男たちの手ではあったが、その場でささやかな祝宴が用意されたのである。
そういった経緯で「葦」と呼ばれたその娘は、結局のところ子を生したわけでもないのに、殿にはたいそう可愛がられた。
自らの分を弁え、人前に出ることさえなかった彼女を、側近たちもまた、かえって丁重に扱ったのである。
そんな数年が過ぎたあるときのこと。
幕府から治水工事の命令が下った。
近隣によく洪水を起こす大川があったのである。
その川は広く深く、また東へ西へ大きく蛇行していた。
梅雨や秋雨、野分の時期には、水があふれては多くの田畑や家、時には人々をも呑み込んでいた。
「なぜ、かような小藩に」
多額の資金が必要である。
そもそも参勤交代にせよ、こうした土木工事にせよ、周辺の裕福な大名の財力を削ぐために行われるものであった。
「百姓たちもよう我慢してくれておるのに」
「これ以上、年貢を取り立ててれば一揆も起きよう」
取り立てる年貢は、一揆が起きても仕方がないぎりぎりの割合であった。
「仕方があるまい。あるだけの財物を投ぜよ」
殿の命に従い、めったに開けられないご金蔵の中が改められた。
勘定方が殿の御前に平伏したのは、その日の夕暮れ時のことである。
その報告によれば、金蔵を開けてみたところ、財物のほとんどが何処かへ消えていたとのことだった。
「いったい、誰がどうやって……」
鍵を持っているのは、殿しかいない。
若き領主は居並ぶ家臣を見渡して詫びた。
「ワシの不徳の致すところじゃ」
「誰が悪いかは、今はどうでもよいのです」
「そうだ、とにかく普請を済まさねば」
早速、近隣の百姓たちが人足として集められたが、なにぶん報酬の安い割に危険な仕事である。
仕事への意欲は低く、作業は予定通りに進まなかった。
その結果は、ある雨の夜、最悪の結果をもたらした。
「起きよ! 起きよ!」
家臣たちは夜中に自宅の戸を叩く音で目を醒ました。
城からの使いだった。
やがて、蓑笠姿の家臣たちは、土木工事の現場で呆然とする羽目になった。
暗闇の中で提灯とかがり火に照らされる濁流は、藩のなけなしの財を投じた河岸補強の石垣や杭を、埋め立ての土砂を残らず押し流してしまったのである。
幸い、死者こそなかったが、次の朝から城中は大騒ぎになった。
「腹を切る!」
「待て、お主が腹を切っても川はまた暴れる」
「しかし、このままでは殿に面目が立たぬ」
「そうじゃ、殿は? 殿はいずこにおられる?」
そこへ現れたのは、目の下に隈を作って腑抜けになった若き領主であった。
白い寝間着のままである。
緩い帯がほどけると、寝間着の前が開いて褌が露になる。
それも構わずに上座に就いた殿の前で、家臣たちが一斉に平伏して異口同音に言う。
「ご心痛お察し致します」
普請方と思しき者が、腹の底から絞り出すように悲痛な声で言った。
「このたびの不始末、腹を切ってお詫びいたしますれば」
家老が手を突いたまま、後ろへ首をひねって叱りつける。
「これ!」
普請方は、伏せた顔を家老に向けて抗弁する。
「このまま生き恥を晒しても、後の者に示しがつきませぬ」
畳に伏した家臣たちの顔が次々に持ち上げられた。
「示しがどうこう言うておるときではない!
「そうじゃ、おぬしだからこそこれで済んだのじゃ……」
家臣一同の騒然たる中で、彼らの主はぼんやりと天井を見上げたままつぶやいた。
「葦……」
1人が身体を起こして叫んだ。
「そうじゃ、葦じゃ」
ばらばらと、家臣たちが身体を起こす。
家老が背筋を伸ばして、振り向きもせずに尋ねた。
「葦殿がどうした?」
言い出したものは、目を血走らせて答える。
「……人柱に据える」
予想された答えだったのだろう、家老はうつむいた顔をしかめて一喝した。
「たわけ!」
非難の声が轟轟と沸き起こる。
「世迷言を申すな!」
「葦殿に罪はない!」
「それこそ一揆が起こるぞ!」
そんな非難の嵐の中、主君はがっくりとうなだれてつぶやいた。
「おらんのだ」
「え?」
一同が驚きの一言を発するなり静まり返ったその場で、殿は肩を震わせて告げた。
「葦が、いなくなった……」
こうなっては、どうすることもできない。
家臣一同、腹を切って幕府に詫びを入れ、主君だけはお咎めがないようにと話を決め、水杯を交わすために帰宅した。
ところが。
妻や娘たちは、男たちを叱り飛ばしたのである。
「なんと意気地のないことを! それでも男ですか! 情けない」
「そうですお父様、こんな侍の娘に生まれたことが恥ずかしゅうございます」
「戻って知恵を絞るのです」
「それができなければ、男の汗をお流しなさい」
やがて城に戻った男たちは門の前で出会うたびに、またすれ違うたびに、お互いの顔色をうかがった。
だが、誰一人として腹を切ろうとする者はない。
ある者は城内の一室でぼんやりと襖絵を見つめ、ある者は廊下で欄間の彫物を見上げ、またある者は庭で薄黒い雲の破片が飛ぶ空を見上げる。
そうこうするうちに、城の門前が騒がしくなった。
「いかん! 強訴だ!」
「百姓どもが押しかけてきただと?」
「一揆か? 一揆か?」
「槍は? 鉄砲は?」
「あれば売り払って普請の足しにしておるわ!」
仕方なく、一人の侍が竹光を腰に門の外へ出れば、そこには無数の鍬が鈍い光を放って揺れている。
「何用じゃ」
一人の男が平伏すると、波が引くように百姓たちが地に伏した。
「手伝わせておくんなさいまし」
「無理じゃ、石代、材木代はおろか、おぬしらに払う手間賃もないのじゃ」
「ようございます、どうか」
「何故じゃ」
「実は……」
聞けば、百姓たちの家では、女たちが一切の務めを放棄してしまったということであった。
食事も作らなければ、畑仕事もしない。
特に妻たちは、男たちに知らん顔。
たまに口を開けば、穀潰しだの宿六だのと罵詈雑言を浴びせる。
極めつけは、この一言だった。
「男扱いしてほしければ、お城へ行ってお侍さんたちに力を貸してやることだね。手間賃だのなんだの、みみっちいことは言いっこなし」
中には夫の傍で寝るのが嫌だと言って、土間にムシロを敷いて寝た妻もいた。
情けない顔をした百姓たちの顔を見て、武士たちの顔からは思いつめた険しいものがなくなった。
知らせを聞いた家老が自ら、門の前に姿を現す。
力強い声で、一言だけ告げた。
「では、参ろう」
百姓も武士も身分の違いを問わず、その場に歓声が上がる。
その日のうちに、男たちは大水の現場で働きはじめた。
流されたものが可能な限り回収され、崩れた堤は現状復帰される。
仕事は担当箇所で分けられた組別の交代制が敷かれ、帰宅した者は妻や娘に温かく迎えられた。
彼女たちは男たちをねぎらい、疲れを癒やし、また話を聞いては知恵を授けた。
「水は水のあるところへ流れるのよ」
「あれだけ折れ曲がった川なんだから、一旦あふれたら、その角にあるところが押し流されるのは仕方がない」
「仕方がないことなら、無理に思い通りにしようとしないことよ」
「それは、女も同じことよ」
やがて河岸の堤は完成し、女たちの知恵によって、大水を洪水になる前に流す水路が掘られた。
土木工事は間に合い、殿は上座に座った幕府の使者からお褒めの言葉をいただくことになる。
だが、使者が去って、正装して平伏していた若き領主が再び顔を上げたとき、その目は宙を泳いでいた。
まるで、いずこかに去った黒髪の女を探し求めるかのように。
彼は女の名をつぶやいたが、それは「葦」ではなかった……。
「亜矢先輩……」
冬彦の声で、瑞希は長い夢から目覚めた。
はっとしてベッドの脇を見ると、グレーの絨毯の上にはもちろん誰もいない。
隣の部屋からの寝言のようだ。
吉祥蓮の忍者ゆえに聞こえたのならよいのだが。
兄妹のプライバシーは、意外にない。
ライトブルーのカーテンから漏れる朝日が、薄いピンクの壁紙をぼんやりと照らしている。
枕元の時計を見ると、6時をちょっと過ぎたころだった。
明るいオレンジ色のパジャマ姿で身体を起こした瑞希は、それほど乱れてはいない髪を指でくしゃくしゃにしてため息をついた。
「世話が焼けるんだから、お兄ちゃん……」




