表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/23

第十七話 光る空(中)


 薄い闇と静寂が窓一つ無いその場所に満たされている。

 

 高々とした石造りの天井から水滴が一つ滴り落ちた。

 

 うんざりするほど長い滞空時間の後、水滴は石畳が敷き詰められた床の上で飛沫となって弾けとんだ。

 

 そして広々としたこの空間は再び静まり返り、たった一人の人物の息遣いだけが控えめにこだましている。


 老人の瞳は四方を石壁で囲まれた巨大な部屋の全体をくまなく観察し、そこに刻まれた叡智の痕跡を入念に確かめている。


 壁一面に彫り込まれた無数の『紋様』は淡く輝き、照明の無いこの部屋をぼんやりと照らしている。


 教主は巨大な部屋の中央、『祭壇』と呼ばれている場所に立っていた。

 

 祭壇は石造りのテーブルのような趣きを見せ、その表面には円を描くように均等に配置された古代文字の連なりと、複雑な記号の組み合わせがレリーフとして描かれている。

 

 仰木邦光が死亡した今、この場所を知る者は自分だけであると教主は確信していた。数十年前に仰木から『魔法』の共同研究の提案とともに、この場所の存在を伝えられた。それ以来、教主は幾度と無くこの場所を訪れている。

 

 数百年前に何者かによって建造されたと推測されるこの施設。それが作られた正確な目的は<統法機関>の研究によっても完全に解明することは出来なかった。

 

 ただ、この部屋全体が一つの『魔法の術式』であること。そして<大喪失>によって魔法が世界から失われ数百年が経つ現在でも、この術式がその効力を失っていないことは明らかだった。


 不意に、教主が激しくせき込む。口元を押さえた手の間から血が飛ぶ。彼は祭壇に手をついてふらつく体を支えた。


 <術石>はあくまでも身体能力を強化するものであって、病を治すものではない。


 もう自分には時間が残されていないことを自覚する。急がなければ全てが水の泡と化す。


 もはや自分が人生を費やして作り上げた<教団>も、教主の中では大した重みを持っていない。彼の中にあるのはただ自分自身の体をむしばむ病を癒し、より永い命を得ることだけだった。

 

 そのための知識を教主は手にしていた。数十年にわたり<統法機関>が積み重ねた研究の先についに辿り着いた。

 

 この部屋一面を覆う術式が持つ巨大な潜在能力。そこから引き出した魔力を用いた治癒魔法によってこの身体を癒やす。

 

 そしてこの術式から発現されるであろう無限にも等しい魔力。それは国家間のバランスを覆す戦略兵器としての運用すら可能なポテンシャルを秘めている。

 

 遥かな過去に失われた力、『魔法』。それを唯一行使できる絶対者として、自分が世界に君臨することも夢ではない。


 ひきつるような笑顔から声が思わず漏れた。

 

「神の誕生だ」


 教主は口元から伝う血の筋にも構わず術式の起動準備を一心不乱に続けている。


 複雑な紋様が並ぶ『祭壇』の表面に手を触れる。指先を追いかけるように紋様が青く幻想的に輝いた。


 全ての手順は完全に理解している。興奮と狂喜に指が震える。


 そして教主は術式を起動した。


 祭壇を中心に白く柔らかな光がどこからともなく生まれる。自分の身体を包んでいく光が、全ての感覚を暖かいもので満たしていく。

 

 術式を通して発現した治癒魔法は完璧にその効果を発揮した。

 

 体を蝕んでいた病魔が一瞬で正常な細胞へと置き換わる。体に満ちあふれる精力を感じた教主が恍惚とした表情で天を仰ぐ。


「おお……」


 自分は勝った。運命に打ち勝ったのだ。両手を高く上げ、汲めども付きぬ泉のように身体の内から溢れてくる力をじっくりと味わう。

 

 果てしなく続く際限のない生命力の奔流。いつになっても終わりの見えないそれは、やがて教主に違和感を与え始める。

 

「お……おお……お、あ……?」

 

 術式の持つ『機能』によって『増幅』された治癒魔法はさらなるループへと突入する。

 

 教主の身体へ早鐘の響きのように注ぎ込まれる治癒効果は指数関数的にふくれあがり、ついには生命を維持する構造それ自体の許容量を超え始める。

 

 数十万倍に加速された新陳代謝が教主の口や鼻からどろりとした塊を溢れさせた。全身の体表面から老廃物が噴水のように吹き上がる。

 

 教主は声すら出すことも既にかなわず、ぬかるみをかき回すようなごぼごぼとした音が喉からこぼれ出す。

 

 瞬間的に失われる五感。恐怖の中で全身から力が抜け床に倒れこみ、意識は急速に闇へと飲み込まれていく。

 

 体細胞を構成する化学物質が水分とともに猛烈な勢いで排出される。急激に萎えしぼむ教主の体がその体積を早送り映像のように減少させていく。

 

 すでに人体の形を保っていない肉塊が、ぐずぐずとした粘性の高い赤黒い液体となった。やがてはそれさえも床に薄く貼り付き、完全に水分が抜けて乾いた泥のようにひび割れる。

 

 後には背広の上下と靴、そして静寂だけが残る。

 

 こうして死を意識する暇もなく、教主はその存在を世界から消し去った。

 

 そして術式は再び元の状態へと遷移する。この数百年ずっとそうであった状態へと。






 ブース全体をまんべんなく照らし上げる煌々とした人工の照明。

 

 タマメはその光の下でテーブルに頬杖をつき、机上にずらりと並べられた資料をぼんやりと眺めていた。


 科学捜査研究に携わるこの施設の一角は、しばらく前から大幅にレイアウトが変更されている。それは今回の案件に絡む物品群に、法的に意味のある証拠としての解釈を与える作業を目的としていた。


 少女の向かいには佐々森忠成がワイシャツ姿で手元の書類を丹念に読み進めている。


 彼らの背後では、種々の先端知識に通じた人員で臨時に編成された調査班がホワイトボードや液晶モニタを囲んで、ああでもないこうでもないと議論を交わしている。


 <統法機関>が事実上解体されてしばらくが経過している。しかし、そこで行われていた魔法関連の研究の全容を解明するという努力は遅々として進んでいない。


 『魔法』という失われた知識を俯瞰的に捉えることの出来る人間。それがこの世界のどこにも存在していない、というのがその大きな理由だった。


 したがって、ことあるごとにタマメが魔法のエキスパートとして意見を求められるのは自然の成り行きであり、今日もその一環として彼女はこの場に招かれていた。


 タマメは一枚の写真をつまんで持ち上げた。一見すると電子回路のように微細な構造の紋様がうねっている様子が拡大されている。軽く小首を傾げてから、傍らに立っている鷹城に視線を向けた。


「押収された<術石>の内部構造を隅々まで見たが、独立した魔法術式ではないな」


「どういう意味だ?」


 眉をひそめる鷹城を見た佐々森が立ち上がり、ホワイトボードに簡易な図を描いていく。


「ええと……<術石>は、より巨大な『システム』の『端末』と表現していいと思います。つまり<術石>がシステムを経由して『魔力』を発現させている、というイメージですね。私が<統法機関>にいた頃に閲覧できた資料からもそう読み取れます」


「その巨大な『システム』というのは?」


 重ねて問いかける鷹城に、タマメが首を振る。


「分からん。だが<大喪失>と無関係では無い……と思う」


 考えこむ鷹城から視線を外し、タマメは佐々森を見る。


「オオギから何か手掛かりになりそうな事を聞いてないか?」


「核心的な情報は、私みたいな末端には教えてもらえなかったよ」


 手を上げて首を振った佐々森が、視線をさまよわせながら記憶を引っ張りだす。


「仰木さん……というか教主が、厳重に情報を管理していた。かなり神経質に扱っていた印象だな」


 ぽんと両手を合わせた鷹城が、場を和ませるような笑顔で二人を眺める。


「いずれにせよ、魔法云々を抜きにしたところで、今回の事件にケリをつけることは十分可能だ。時間はいくらでもあるんだ、じっくり調べてくれ」






 石造りの巨大な部屋は相変わらず静寂と控えめな闇に満ちていた。

 

 何一つ動く物は無い。この空間に時間の流れがあると確認させる物は、壁一面に刻まれた紋様が時折その輝きを増減させる光景くらいだった。


 教主が人知れずこの世から去ってから、更に数週間が経過している。


 『祭壇』は、その極めて複雑な『術式』を制御するインタフェースである。

 

 そしてこの術式は、ある『破滅』を導く物であった。

 

 だが術式は本来の目的を果たしておらず、この数百年間ある状態を維持することに注力している。『何者』かによって術式内に設定された安全回路が絶望的な破滅を日々先延ばしにしていた。『今のところ』は。

 

 しかし結局のところ、それは単なる時間稼ぎ以上の物ではない。

 

 『何者』かがその身を賭して作り出した猶予は無情な速度でゼロへと近づきつつあった。

 

 そして今日、この時、術式は『崩壊』する。






 天童静がソファから頭だけを起こしてドアの方へぐるりと視線を向けた。

 

「なんでお嬢が来てんだ?」


「いやー、タマちゃんたちが普段なにやってんのかなーって思って、ちょい見学というか」


 制服姿の護皇院姫子がぽりぽりと頭をかきながら、部屋の中をきょろきょろと見回す。

 

 <GKIインフォメーション>一階資料室。書架の間で書類の整理作業をしていた篠崎八潮がひょいと顔を出す。


「姫子、ほんとに来たんだ」


「えへへ」


「あまり邪魔しちゃダメだよ」


「わーかってるって。八潮は固いなあ」


 手をひらひらさせながらブラウスの胸元をゆるめ、空調によって冷やされた室内の空気をあおぎ入れる。暦の上では秋も近いというのに、この日は季節が逆戻りしたような陽気だった。


 静がにやにやと口元を緩ませながらソファの背に身体を乗り出す。


「分かるわー。将来は芹岡のオッサンみたいになるタイプだな」


 けらけらと笑い合う姫子と静を見て、八潮が仏頂面になる。


 静の向かいではタマメが何やら分厚い専門書を読みふけっている。テーブルの上にはやはり堅苦しそうなタイトルの書籍が、すでに読了した分とこれから手をつける分としてそれぞれ左右に積み上げられている。


 右目を白い眼帯で覆った少女は、文字を追いかけることに意識の大部分を傾けている。そのせいで、タマメの思考は何のフィルターも通らずそのまま素直な言葉としてぽつりと発せられた。


「ヤシオのそういうところが好きだがな」


 しんと静まる室内。


 周囲の空気を訝しげに見回すタマメが、自分の不用意な発言にようやく気付く。タマメの白い頬が一気に真っ赤になった。慌てて本を持ち上げて顔を隠して、声にならない声でもごもごと言い訳を始める。


 ソファの上で小さくなるタマメに、静と姫子が小悪魔のような笑みを唇に乗せた。タマメを頭上から覗きこむ静が、ますます縮こまる少女の頭を撫で回す。


「はー。最近のガキんちょはマセてんな」


「う、うるさい」


 書架の間で何とも言えない気まずそうな顔をする八潮を、姫子が肘で突っつく。


「ひゅーひゅー、八潮モテモテじゃん」


「ひ、姫子まで何言ってんだよ……」


 野呂栄作はその様子をにこやかに眺めながら、紙パックのコーヒー牛乳に口をつけていた。


 ひとしきり少年をからかってから、姫子が静に視線を向ける。


「ははは……あ、そうだ、静さん。お爺ちゃんがたまには道場来いって言ってたよ」


 静の背筋がぎくりとこわばった。へらへらしていた表情がいきなり曇り、口元がひきつる。泳ぐ視線とともに震える声を喉から絞り出す。


「え。あ……ああ、時間が空いたらな」


 挙動不審になった静が気を紛らすようにタバコを取り出す。ようやく解放された気配に、タマメがふうとため息をついた。


 姫子がぱちんと指を鳴らして、八潮に自分の学生鞄を押し付けた。


「あ、私ちょっとコンビニ行ってくる。お菓子とか買ってくるし。皆でおやつにしようよ」


「邪魔するなって言ったの覚えてる?」


 八潮の突っ込みにぞんざいな返事をしながら、姫子が外に出て行った。


 ストローに口をつけたままの栄作が、窓から見える空に視線を何気なく向ける。


 雲がところどころに漂い、ゆっくりと流れていく。


 のんびりとした空気は永遠に続くようにさえ感じられる。


 その瞬間、タマメの心をある『感覚』が貫く。


 弾かれるように立ち上がった少女が、視線を左右に躍らせた。見開かれた左の瞳が驚愕に染まっていく。


 少女のただならぬ気配に静や八潮が困惑の色を浮かべた。持っていた本がタマメの手から床に滑り落ち、ばたりと耳障りな音を立てる。


 静が、火をつけようとしていたタバコを口から外した。

 

「どした、チビ助?」


 タマメはそれに答えることなく、心ここにあらずといった表情でドアの方へとよろよろと進んでいく。


 ドアを開け、一瞬立ちすくんだタマメの表情が引き締められた。


 少女は上へ昇る階段へと駈け出す。あっけに取られていた八潮がようやく我に返り、タマメの後を追いかけて走りだした。






 <GKIインフォメーション>の屋上に飛び出したタマメが遥かな空の彼方を食い入るように見つめている。


 控えめにそよぐ風に、少女の金色の柔らかい長髪が小さく揺れている。


 柵を両手で握りしめ、仁王立ちになったタマメの左目にはかつてないほどの緊張感が満ちていた。


 追いついた八潮が後ろから少女の様子をうかがう。


「あの、タマメさん?」


 タマメの口から、ぽつりと声がこぼれた。


「『竜』の気配だ」


 八潮がその意味をタマメに聞き返すことは出来なかった。


 ガラスが割れるような轟音が大気を震わせる。八潮は反射的に体をすくませその場で固まった。


 そして『それ』が出現した。


 八潮は呆然として空を見上げた。この時ほど自分の目を疑ったことは無い。


 『それ』は空を網の目のように覆い尽くしていた。


 真紅に輝く無数の光の帯が、空全体に複雑な紋様を描いている。


 円や多角形、太陽や月その他の天体を意味する記号、太古に失われた古代文字。それらの羅列が気の遠くなるような緻密なディテールのもとに組み合わされ、赤い光学パターンとなって空を埋め尽くしていた。


 三百六十度全ての方向、天頂から地平線の下までありとあらゆる空が、その赤く輝く紋様で塗りつぶされている。


「何だ……これ」


 体のおののきを止められない八潮がそう呟いた時。

 

 空の一角、比較的小規模な円と古代文字で構成された領域が不気味に脈動し、ぐるりと回転した。


 次の瞬間、その領域の中心部から目も眩むほどの白い輝きが放たれる。

 

 午後の太陽すら霞むほどの光量によって、八潮とタマメの影が黒くコンクリートの上に伸びる。


 強烈な白色光は直径数十メートルの巨大な一本の『矢』となって猛烈な速度で射出され、分厚い雲を瞬時に蒸発させつつ地平線の彼方へと突き刺さる。

 

 一瞬遅れて、緩やかな地響きが建物全体を震動させはじめる。


「何なんだよ、これ……」


 立ちすくむ八潮は、眼前に広がる巨大な異変の前に力なく言葉を繰り返すことしか出来ない。


 柵を握るタマメの両手に強く力が入り、歯がぎりりと食いしばられる。少女の青い左目は、その果てを射抜かんとばかりに空の向こうを鋭く睨みつけている。


 世界の終わりが始まろうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ