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第十五話 子供たちの前を往く人(後)


 夕方と呼ぶにはまだ少し早い時間帯。学校からの帰り道、篠崎八潮とタマメは連れ立って歩いていた。


 ゆるやかに左右するカーブが下り坂になっているこの道路からは、ガードレール越しに住宅街を見下すことが出来る。


 タマメがふっと隣の八潮を見上げる。


「ところで、目は大丈夫か?」


 どことなく心配そうに見つめてくるタマメに八潮は笑顔で応える。


「ええ。時々、景色が妙に生々しく見えるくらいで……具合が悪いという感じでは無いですね」


 タマメがすっきりしない表情を八潮に向ける。


「近いうちに医者に診てもらえ……ここで少し休もう」


 ため息をついてタマメがそばの小さな公園を示す。そこにはそれなりの大きさの敷地が広がっている。道路際に植えられた木々や簡素な遊具が、通行者の視線から公園内を適度に覆い隠している。


 タマメの不安を紛らすように八潮は言葉を選んだ。


「不調というのとは少し違うような……何というか、むしろ調子が良すぎるというか」


 タマメにぐいと手を引かれて八潮は不承不承その公園に入り、その端にあるベンチへと向かう。


「いいから、そこで座っていろ。茶でも買ってくる」

 

 ベンチに半ば無理やり座らされ、八潮は小さくため息をついて柵の向こうに見える町並みに目を向けた。

 

 ぼんやりと屋根の並びに目を凝らす。意識の集中に応じて視界の『輪郭』とでも表現すべき物に明確な変化を感じ取れるようになっていた。やはりこれは気のせいではない。自分の『目』に何かが起きている。

 

 タマメに話すべきだろうかと思案する。だが今のところこの目に不都合がないのは事実だった。あまりタマメに心配させたくもないし、鷹城か佐々森あたりにまず相談してみるのが妥当のように思えていた。

 

 頭の上にぽんと載せられたペットボトルの感触に振り返る。タマメが不審げな表情で立っていた。


「どうした、ぼんやりして」


 八潮の心を探るようにしげしげと見つめてくるタマメから思わず視線をそらす。

 

 タマメは八潮の隣に座り、ペットボトルの蓋を外す。中身を一口飲んでから、タマメがあまり気分の乗っていない調子で話しかけてくる。

 

「お前のことだから、自分も一緒に行くと言い出すんじゃないかと思ったぞ」


 一瞬なんの話か理解できなかった八潮だったが、すぐにその意味に思い至り肩をすくめる。


「ああ、<統法機関>の話ですか? 僕が行っても役に立ちませんよ。ああいうのは鷹城さんみたいな本職に任せるのが一番です」


「それはそうかも知れんがな」


「第一、僕が行くと言ったら、タマメさんも行くんでしょう?」


 少女が小さな胸を張って腕組みをする。


「当然だ」


 ため息をついた八潮がペットボトルに口をつけて呟く。


「危ないこととかあったら困るんですよ」


「そうだな……ん? なんだお前、儂の心配をしてたのか?」


 タマメが眉を可愛らしく上げて八潮の顔を覗き込む。八潮が気まずさに視線をそらす。


「え? あ……いや、というか、えーと」


 しどろもどろになる八潮に、タマメの表情が徐々ににやけていく。


「な、何ですか」


 タマメが頬を赤くして、ベンチの上で八潮にぴったりと体を寄せて腕にしがみついてくる。それは反則ですと心の中で咎めつつ、八潮は少女のされるがままになっていた。


「お前、なかなか可愛いところもあるのだな」


「やめて下さいよ……」


 その時、公園の空気がわずかに変わる。八潮の体が一瞬で硬直し、それをタマメも敏感に感じ取る。


 この感覚を八潮は一度味わっていた。

 

 ゆっくりと体を回しその感覚の源に目を向ける。

 

 公園の入口で、血のように赤いコートをまとった長身の男がこちらに剥き出しの殺気を投じている。


 カルラはその平坦な黒で塗り固められた瞳を、タマメにぴたりと向けていた。


 八潮とタマメは思わず立ち上がり、周囲に視線を巡らせる。公園の中には彼らの他に人影がなかった。カルラが少しずつ近づいてくる。


「無駄だ。護衛は片付けた」


 カルラがそこでふと八潮の顔に気がついた。


「お前……何故生きている?」


 ひしひしと迫るカルラの圧力に呑まれた二人が言葉を出せずにいる。カルラが小さく肩をすくめて言葉を継ぐ。


「まあいい。もう一度殺してやろう。もちろん竜も殺す」


 タマメが呟くように八潮に伝える。


「ヤシオ、お前は逃げろ」


 八潮はカルラから視線を外さないまま、タマメの手を掴んで即答する。恐怖が混じっていたが、その声には確固たる決意が浮かんでいる。


「嫌です。一緒だと決めたんです」


「ダメだ。それでは二人とも死ぬだけだ」


 二人の会話が届く距離にまで近づいていたカルラが宣告する。


「結果は同じだ。二人とも殺す」


 カルラが右手の中に隠し持っている物が陽光を反射する。その瞬間、カルラはタマメに向かって右手を振った。

 

 十五センチほどの真っ直ぐな刃の投げナイフが正確にタマメの心臓を狙って猛烈な速度で飛んでくる。

 

 八潮の意識が一気に強烈な感情で塗りつぶされる。

 

 少年の右の瞳、<竜眼>に宿る青い光が微かに輝きを増した。

 

 かつてタマメが八潮の命を救うために差し出した<竜眼>。それが少年に与えた力をまだ彼自身深く理解していない。

 

 時間がゆるやかになるような感覚に疑問を抱くこともなく、八潮は宙を滑空するナイフの軌道を完全に知覚していた。

 

 油をかき回すような抵抗を感じつつ、八潮は手を渾身の力でナイフへと伸ばす。

 

 刃の冷たい手触りとそれを掴んだ痛みが伝わってくる。しかし激情に駆られた今の八潮にとってはさしたる障害にはなっていない。迷うこと無く空中のナイフを握りしめる。

 

 そして時間が元の速さを取り戻す。

 

 ナイフの刃先がタマメの制服の胸元数ミリ手前で停止している。刃を掴んだ八潮の左手から血が地面へと伝い落ちた。

 

 少年の意外な芸当にカルラが一瞬訝しげな表情をする。そして冷たいものが込められたカルラの声が響く。

 

「面白い」


 カルラがコートの内側から刀をすらりと抜き出し、八潮の方へと歩み寄り始める。

 

 タマメを背にかばうように八潮が前に出る。カルラが投げたナイフの柄を握り直してそれを構えた。

 

 恐怖は無かった。ただ純粋な怒りが彼を衝き動かしている。タマメの命を奪おうとしたこの男に対する怒りだけが、今の八潮にとってはただ一つの行動原理たり得る物だった。

 

 カルラが弾かれるような速度で踏み込んでくる。

 

 その動きに合わせて収斂された八潮の意識が、<竜眼>からその本質を一瞬の間だけ引き出し、彼の知覚とそれに付随する神経系を人ならざる領域へと押し上げる。

 

 斜め下から跳ね上がってくる刀身の速度は凄まじい。今の八潮にはその軌道を読み切ることができた。だが<竜眼>によって得られた超人的な反応速度は八潮の肉体そのものを劇的に変化させるわけではなく、カルラの刀を紙一重でかわすのがやっとだった。

 

 耳元を唸りを上げて通り過ぎた刃が、休む暇もなく振り下ろされる。

 

 人間を超越している速度で繰り出されるカルラの斬撃や刺突の嵐に、八潮は手に持ったナイフで反撃する暇すら見つけられない。

 

 そして少年は意識と肉体の速度のズレが広がるのを感じ始めていた。

 

 鍛錬を積んでいない八潮の肉体が意識の反応速度についていけなくなっている。

 

 体中の筋肉や骨格がきしみを上げ始めている。呼吸も乱れている。<竜眼>から力を引き出す行為それ自体が疲労を強いる物であることを今の八潮はまだ気付いていなかった。

 

 体力の限界が予想以上に近いことを悟った八潮は『賭け』に出る。

 

 あえて足を止めてカルラの攻撃を待つ。その誘いに乗ったカルラが、八潮の頭上から一直線に刀を振り下ろした。

 

 この瞬間を待っていた。ギリギリまで引きつけ最後の力を振り絞って刃先をかわす。

 

 わずかに皮一枚傷が入った喉元の皮膚から血の滴が飛ぶ。

 

 刀を振り切ってカルラの動きが一瞬止まったところを、八潮がナイフを捨てて一気に踏み込む。

 

 意表を突かれたカルラの手首を両手で掴んだ瞬間、八潮は勝利の希望を得た。

 

 八潮は切り札を持っていた。この状況を逆転する唯一の手段、かつて黒眼帯の男を倒した<護皇院流>の技。

 

 <術石>で身体強化している相手に圧倒的な威力を見せた技。それは正確な型と呼吸から発現する魔力で相手を打倒するものである。

 

 型も呼吸も完璧に、その技は決まったはずだった。

 

 しかし、カルラの体は両足を地にしっかりとつけたまま、微動だにしなかった。


 静まり返る公園。上空からヘリコプターの耳障りな音だけがやけに近くで聞こえている。

 

 絶望と共に、胃を氷を流し込まれるような感覚。致命的な危険の予感に八潮が体を離そうとした瞬間、カルラの蹴りが八潮の腹部に入る。

 

 胃と肺から空気が押し出され、体が浮き上がる。そのまま背中から地面に叩きつけられた体が一、二度回転する。激痛に声を上げることすらできなかった。

 

 地に伏し身動きできなくなった八潮をカルラが冷たく見下す。

 

「俺を<術石>持ちと思ったか。あいにく、俺の強さは俺自身の力だ。魔法などに頼ったまがい物ではない」


 タマメはその言葉に、この場を切り抜ける手立てが存在しないことを理解した。


 激痛にうずくまる八潮にカルラが刀を振り上げる。


 タマメが八潮の方へ駆け出しながら必死に叫ぶ。


「やめろっ!」


 カルラの瞳が闇に染まる。


「死ね」


 その時、風を裂くような音がどこからともなく近付いてくる。


 何かを叩きつけるような金属音とガラスが砕け散る音が背後から響いた。

 

 刀を頭上に構えたまま、カルラがゆっくりと振り向く。

 

 公園の入口に停車しているワンボックスタイプの車。激しい衝撃によって作動したセキュリティシステムが、がなりたてるような警報音を辺りに響かせている。

 

 車の屋根は大きく窪み、中央に人一人通り抜けられる程度の穴が空いている。

 

 車の後部ドアがつっかえながらスライドして開き、中から一人の男が降りてきた。彼は申し訳無さそうな顔で半壊した車体を振り仰ぐ。


「保険が下りるといいんだが」

 

 篠崎厳真はため息とともにそう呟いて前へ向き直ると、シャツの袖をまくりながら公園の中に足を踏み入れる。

 

 カルラは上空にちらりと視線を向ける。滞空するヘリコプターの側面扉が開かれ、中から地上を見下ろしている戦闘服姿の人間が視認できる。

 

 記憶の中でカルラは目の前の情報を瞬時に統合した。何かが地面に叩きつけられる衝撃と轟音。十階程度のビルの高さでゆっくりと旋回するヘリコプターと、その真下で大きく形を歪ませた車体。そしてその車の内部から姿を現した男。

 

 それが意味する物の非常識さを理解する。

 

 カルラはかつてないほどの高揚が沸き上がってくるのを強く実感する。この男は自分と同じ『領域』に達していると。

 

 厳真がカルラから五メートルほどの距離で立ち止まった。

 

 カルラの前でうずくまる八潮。その後方から八潮をかばうように背中に手を当てるタマメ。

 

 その様子に視線を向けた厳真の瞳がすっと氷のように鋭く光る。

 

「私の子供たちに触るな」


 厳真がゆっくりと踏み出す。カルラはその意識を厳真に振り向ける。手の届く所にタマメと八潮がおり、刀の一薙ぎで二人の命を消し去ることが出来る間合いである。

 

 それでも厳真に対して一瞬でも背を向けるという行為を彼の本能が許さなかった。


 何の小細工もなしに正面から歩いて距離を詰めようとする厳真にタマメが叫ぶ。


「ダメだ、親父殿! そいつは<術石>で身体強化をしていない! <護皇院流>の技は……『魔法』は発動しないのだ!」


 ようやく体を起こした八潮が周囲の状況を把握し始める。


「父さん……?」


 歩みを止めることなく、厳真が八潮たちに向かって静かに言葉を返す。


「大丈夫だ。二人ともそこを動くな」


 カルラが滑るような足運びで厳真の側面に回り込む。決して速い動きではないが全く隙のない体捌きであることが八潮にも分かる。

 

 厳真がカルラの動きを見て立ち止まった。

 

 カルラが厳真の周囲を回りながら徐々に距離を詰めていく。その様子を厳真はゆったりと両手を下げたまま見つめている。

 

 左右に不規則なステップを踏みながら、カルラが一気に速度を上げて厳真の懐に飛び込んだ。八潮は先ほどまでのカルラが手加減をしていたことを知った。今のカルラの動きは八潮が<竜眼>をもってしても目で追うのがやっとだった。

 

 厳真の首を真横に切り裂く軌道で刀が走る。刀に厳真の視線が向いた刹那、カルラが口から含み針を飛ばす。

 

 厳真はそれを気配だけで察知し体を半身に開き針をかわす。次いで迫り来る刀の切っ先に対して上半身をわずかにそらした。喉元をかすめるように通り過ぎる刀が不気味な風切音を鳴らす。

 

 その刀は厳真の目を欺くフェイクでもあった。刀の行方を追う厳真の視線の外から、カルラは袖口に仕込んだ投げナイフを二本同時に投擲する。

 

 刀が届くほどの距離から投げつけられたナイフは目視することも困難な速度で首と心臓へ迫る。

 

 厳真の右手が一閃し、ナイフを二本同時に片手であっさりと掴みとる。

 

 常人離れした反応速度を見せた厳真にカルラが動じることは無い。むしろ自分が感じたこの男の実力からすれば当然の結果であるとさえ考えている。自身の力を余す所なく発揮できる好敵手。その出現にカルラは密やかな悦楽すら感じ始めていた。

 

 カルラは体の回転を止めずにコートの中からもう一本刀を抜き出し、両手に構えた二刀で嵐のような連撃を繰り出す。

 

 赤いコートが翻り、禍々しい怪鳥のように厳真の視界の中に広がる。

 

 カルラの回転と足運びの速度が更に上昇する。常人の目にはそれはもはや赤い残像が唸りを上げているようにしか知覚できない。上下左右あらゆる方向から厳真の急所を狙う刃が稲妻のような速度で雨あられと繰り出される。

 

 両手を下げたまま、厳真はその場からほとんど移動すること無くカルラの猛攻をかわし続けている。厳真の表情は至って落ち着いたままで、その結ばれた口元に焦燥や恐怖の類の感情は何一つ存在していない。

 

 荒れ狂う嵐を、柔らかな柳が受け流すようなしなやかさ。奇妙に静まり返る公園の中、カルラが体と刀を捌く際の空気を切る音だけが不気味に続いている。

 

 そして不意に嵐が止んだ。

 

 カルラが一旦攻撃を止めわずかに間合いを取る。

 

 隙を突いて反撃するでもなく、自分の必殺の攻撃の連なりを涼しい顔でかわし切ってみせた厳真。未だに底を見せないこの男の力が、カルラの心中に薄い霞のようなものを漂わせ始める。

 

 逡巡するカルラの様子に、小首を傾げた厳真の低く通る声が投げかけられる。

 

「終わりか?」


 明らかに格下の者に向ける声色だった。屈辱にカルラの瞳が引き絞られる。

 

 それまでで最も速い踏み込みで、二刀同時に刃を突き入れる。

 

 二つの破壊音が響き、二つのきらめきが二人の頭上をくるくると回る。

 

 空中に舞い上がった二本の刀が、傾きつつある陽光を照り返しながら地面へと落ちていく。

 

 残心とともに拳を胸の高さでゆったりと構える厳真。

 

 カルラは厳真の目前で立ち止まっていた。

 

 自分の手に違和感を持ったカルラがその視線を落とす。手首と肘の間で不自然に折れ曲がる両腕。そして焼けるような激痛がカルラの理性のたがを外す。

 

 カルラは咆哮した。バネが弾けるような音と共に靴のつま先に鋭利な刃が現れる。渾身の力を込めて厳真の喉を蹴り上げる。

 

 勝ったと思った次の瞬間、カルラは自分が地面に顔を叩きつけて這いつくばっていることに気付く。歯を食いしばって立ち上がろうとした矢先に右膝に激痛が走る。

 

 膝から下が逆方向にねじり折られている。力を込めることができなかった。

 

 何が起こったのか理解できなかった。蹴り上げた足を完璧なタイミングでかわしつつ掴みとり、膝を支点に蹴りの勢いすら利用して枯れ枝のように足を破壊する。カルラにとってそれは頭では理解できても、自分に対してそれを行える人間が存在するということが信じられなかった。

 

 物を持つことも出来ない両腕と、歩行の用をなさない右足。カルラは目を血走らせつつ、左足一本で体をぎこちなく立ち上がらせる。

 

 息も切らさず、傷一つ負うこともなく自分を圧倒するこの男。カルラはこの男に対して今まで知る術のなかった感情を持つ。

 

「お前は……何だ」


 『恐怖』に目を見開くカルラの問いに、厳真は答えなかった。

 

 そして厳真は次の一秒間でカルラの左膝を蹴り砕き、左右の鎖骨を叩き折る。

 

 大地に崩れ落ち、立ち上がることすら出来ずに顔だけをどうにか持ち上げるカルラ。その表情は殺意と憎しみに満ち満ちている。

 

 負の感情に塗りつぶされ唸り声を上げるカルラを、厳真はただ黙って見下ろしていた。

 

 けたたましいブレーキ音が連続して響く。公園の入口に警察車両が相次いで姿を現した。

 

 駆け寄る警官たちの後ろから一人の場違いな人物が現れる。その和装の老人がゆったりとした所作で三人の元へ近づく。足をふらつかせながら、八潮がタマメの肩を借りて立ち上がった。 


 護皇院恭斎は柔和な笑みを浮かべて公園の外を指さしてみせた。


「こやつに眠らされた護衛役の公安職員も、命は無事なようだ。下手に騒ぎにして人が集まるのを嫌ったのかな」


 老人の言葉に八潮がほっとした表情になる。少年へ、にこやかにうなずいてみせた恭斎が、地面に横たわりぎらぎらと敵意をむき出すカルラを退屈そうな目で眺めた。


「厳真。こやつは儂が見ておく。お前たちは家に帰ってゆっくりするといい」


 恭斎と厳真の間で視線が交わされる。一瞬の沈黙の後、厳真が息をついて応じた。


「……はい。よろしくお願いします、先生」


 厳真は恭斎に一礼すると、八潮とタマメを促して公園の出口へと向かっていった。彼らの後ろ姿を見送った恭斎が、改めてカルラに視線を投じる。


 その小柄な体躯から発せられる殺気を、カルラははっきりと感じ取った。全身にまとう雰囲気とは裏腹なおだやかな声色で恭斎が言葉を紡ぐ。


「さて、若造。そのナリではさすがに動けんと思うが、無駄に抵抗してくれるなよ。儂は厳真ほど優しくなければ器用でもない。うっかり殺してしもうた日には寝覚めが悪いでな」


 おどける口調とは裏腹に、細い目の奥から射してくる瞳孔のどす黒い光。その威圧感にカルラはただ黙り込んだ。






 空が赤く染まり始めた頃、篠崎家の母屋が見えてきた。


 その時、八潮とタマメの前を歩いていた厳真がぽつりと言った。


「八潮。よく頑張ったな」


 出し抜けに向けられた言葉に八潮が狼狽する。


「え。いや、僕は結局何も……」


 未だに痛みが引く腹部を無意識に押さえて声を落とす。歩く速度をわずかに緩めた厳真が、八潮の方へちらりと振り向く。厳真の声は八潮の心に静かに染み渡っていった。


「私が間に合ったのは『お前』が戦ってくれたからだ。お前は大事なものを守り切った。立派だと思う」


 隣からもタマメが八潮を見上げてうなずいてみせる。


「うむ、胸を張っていいぞ、ヤシオ……ああ、ところで親父殿」


 タマメの呼びかけに厳真が珍しく不意をつかれたような顔を見せた。


「ん、何だ?」


 タマメは両手を後ろ手に組み、いたずらっ子のように輝かせた視線を厳真に向けた。


「先ほど『私の子供たち』に触るな、と言っていた気がするが」


 にやにやと厳真の横顔を見上げるタマメ。自分が言った言葉の意味を遅まきながら理解し、厳真がびくっと背筋を伸ばす。視線をあらぬ方向へとさまよわせながら、厳真が口ごもった。

 

「あ、いや……済まない。気を悪くしたなら……」


 ぷっと吹き出したタマメが厳真の背中を叩く。


「いいや。親父殿は、儂らの親父殿だ」


 タマメはそう笑って、厳真のがっしりした腕にすがりついた。まごつく厳真の後ろ姿を見ながら、八潮もつられて笑顔になる。

 

 その時、八潮は自分が言うべき言葉を見つけた。

 

「父さん」


 門の前で立ち止まった厳真が八潮の方へ振り返る。


 八潮は自分の中の想いをその一言に乗せた。


「ありがとう」


 厳真の唇に、はにかむような微笑が浮かぶ。

 

 父のそんな表情を八潮が見たのは久しぶりの事だった。

 

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