第27話 真帆の負傷と回復
翌朝、蒼真は目覚まし時計より早く目が覚めた。
体のあちこちが重い。昨日のダンジョンの疲労が一晩寝ただけでは抜けきっていない。指を握って開く。真帆の《小回復》で塞がった右手の裂傷は痕すら残っていないが、骨の奥に鈍い記憶が残っている。
あの岩の上から弓を引いた感触。
布団を蹴り上げて起き上がる。洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分と目が合った。くまが薄く出ている。それでも口角は勝手に上がった。
昨夜メンテナンスノートに書き込んだ改善点が、頭の中でまだぐるぐる回っている。後方警戒の運用、矢の消費管理、里奈の《氷矢》との連携。課題は山ほどある。だが不思議と焦りはなかった。
――課題があるってことは、まだ伸びるってことだ。
制服に着替えながらスマホを確認する。悠斗から朝のメッセージが入っていた。
『今日放課後、真帆の再検査終わったら見舞い行くぞ。航も行く』
蒼真は即座に返した。
『当たり前だろ』
◇
授業は普段通りだった。
後藤の座学はダンジョン内での応急処置の基礎知識で、昨日の実習が嘘のように穏やかな教室の空気が流れている。蒼真は窓際最後列から黒板を見ながら、ふと斜め前方の席に目をやった。
里奈の席。
昨日まで目が泳ぎがちだった横顔が、今日はまっすぐ前を向いている。ノートにペンを走らせる手も止まっていない。蒼真はそれを確認して、視線を黒板に戻した。
後藤先生の言った通りだ。追い詰めるな、腫れ物にするな。見守れ。
悠斗が船を漕ぎ始めている。航が前の席から振り返り、無言でシャープペンシルの尻で悠斗の手の甲を突いた。悠斗が「いっ」と小さく声を上げて跳ねる。後藤が黒板に向いたまま「橘、寝るなら廊下で好きなだけ寝ろ」と言い、教室に笑いが起きた。
蒼真も笑った。声を出して。
――こういう日常が、昨日の第2層の後だと妙にありがたい。
◇
放課後。
学院の医務棟は本館から渡り廊下で繋がっている。再検査を終えた真帆は、医務室ではなく医務棟一階のロビーのソファに座っていた。
制服姿。左肩に湿布が貼られているのが襟元から僅かに覗いている。栗色のポニーテールがいつもより少し乱れていたが、蒼真たちの姿を見つけた途端に顔がぱっと明るくなった。
「あ、来てくれたんだ!」
真帆が立ち上がる。その動きに痛みを庇う素振りはなかった。
「当たり前だろ。再検査どうだった?」
蒼真が訊くと、真帆は左肩をぐるりと回して見せた。
「完治だって。先生に《回復》もかけてもらったから、もう痛みもないの。先生には『明日から通常訓練に戻って大丈夫』って言われた」
「おお、よかったー!」
悠斗が大きな声で言い、真帆の頭をぽんぽんと叩こうとして航に手を弾かれた。
「左肩だぞ。触るな」
「いや右手で頭を」
「どっちにしろ距離が近い」
真帆がくすくす笑っている。その笑い方がいつも通りで、蒼真は知らず詰めていた息をほどいた。
ロビーのソファに六人分の席はない。蒼真が「外出るか」と声をかけると、紅葉が「中庭のベンチ空いてたよ」と親指で医務棟の裏手を指した。
◇
中庭のベンチは医務棟と訓練棟の間にあり、午後の陽が斜めに差し込んでいた。ベンチ二脚を向かい合わせにして、六人が腰を下ろす。
蒼真と悠斗と航が片側。向かいに真帆と里奈と紅葉。
真帆が自動販売機で買ってきたスポーツドリンクを両手で包みながら、少し照れたように切り出した。
「ちゃんとお礼言いたくて。昨日は……怖かった。正直に言うと、殴られた瞬間、頭が真っ白になった」
六人の間に静かな空気が流れる。蒼真は真帆の言葉を遮らずに待った。
「でも、気がついたら里奈ちゃんが《氷矢》で撃ってて、紅葉ちゃんが私の前に立ってて、悠斗さんと宮瀬くんが前に出てて」
真帆の声が少し震えた。でも、笑っていた。
「みんなが助けてくれた。だから怖かったけど、怖いだけじゃなかった」
悠斗が鼻の頭を掻いた。航が黙って頷いた。紅葉が「あたしは索敵ミスった側だからね」と苦く笑う。
蒼真は真帆の目をまっすぐ見て言った。
「真帆は倒れてなかったぞ。殴られて、それでも立ってた。あの状況で立ってたのは普通じゃない」
「……そうかな」
「そうだよ。ヒーラーが倒れたら全員終わりだ。お前が立ってたから、俺たちは動けた」
真帆が目を瞬いた。スポーツドリンクのボトルを握る指に力がこもる。
その隣で、里奈が膝の上で拳を握っていた。
「……私のせいで、真帆が殴られた」
里奈の声は小さかった。でも昨日までの震えはなかった。
「パニックを起こして逃げた。後衛が一人減って、真帆に負担がかかった。それは事実で」
「里奈ちゃん」
真帆が遮った。柔らかい声だった。
「昨日の医務室でも言ったけど、戻ってきてくれた時、本当に嬉しかったの。《氷矢》がハイゴブリンに当たった時、私泣きそうだった」
「……泣きそうだったのは私の方だよ」
「じゃあおあいこだね」
真帆が笑う。里奈の目が潤んだが、唇を引き結んで堪えた。
「次は逃げない」と言ったあの夜を、里奈は自分の中でもう一歩進めようとしている。蒼真にはそれが分かった。
「次は逃げない」
里奈が言った。昨夜一人で呟いたのと同じ言葉。でも今度は、五人の前で。
真帆がまっすぐ里奈を見返した。
「なら私は倒れない。ヒーラーが倒れたら全員終わりって、神代くんに言われちゃったし」
「いや今の俺の台詞をそう使うか」
蒼真が苦笑すると、悠斗が「名言の即リサイクル」と声を上げて笑い、航が「消費サイクル早すぎだろ」と被せた。紅葉が「あたしも何か宣言した方がいい?」と首を傾げ、悠斗が「紅葉は索敵ミスをもう」と言いかけて紅葉に脛を蹴られた。
「分かってるっつの! 言われなくても次は後方まで見る!」
「いっ、いたいいたい!」
六人の笑い声が中庭に広がった。午後の陽が六つの影を長く伸ばしている。
蒼真は笑いながら、この空気を覚えておこうと思った。
――バラバラだった六人が、少しだけ「班」から「仲間」になった瞬間だ。
◇
解散後、蒼真は一人で屋内訓練場に向かった。
弓を引く。的に当たる。繰り返したあとに矢を回収する。また引く。
昨日のダンジョンでの反省が、一射ごとに身体に刻まれていく。後方の気配に意識を割きながら前方の敵を射る。その感覚を、的射訓練の中で再現しようとした。
五十射ほど引いたところで、右手の握力が落ちてきた。昨日の疲労がまだ残っている。
――無理するな。今日はここまでだ。
弓を下ろし、額の汗を拭う。訓練場には蒼真の他に数人の生徒が残っていたが、弓を引いているのは蒼真だけだった。いつも通りの光景。
帰り支度をしながら、ふと真帆と里奈の顔を思い出した。
「次は逃げない」
「なら私は倒れない」
あの二人は強い。俺が思ってたより、ずっと。
蒼真は弓袋を肩にかけ、訓練場を出た。五月の夕暮れの風が頬に当たる。サンサンロードを抜けて立川駅方面へ歩きながら、蒼真は口元が緩むのを止められなかった。
――六人で、また潜りたい。
マンションに帰り着き、弓の手入れを終えてベッドに座る。スマホを開くと、悠斗からグループメッセージが来ていた。真帆と里奈と紅葉も入った六人のグループ。
『真帆復活記念に明日メシ行こうぜ! サンサンロードの定食屋!』
航が『お前が払うのか』と返し、悠斗が『割り勘に決まってんだろ!!』と叫んでいる。紅葉が『定食屋賛成。あたし唐揚げにする』と食い気を見せ、真帆が『私も行きたい!』とスタンプ付き。里奈がしばらく間を置いて『……行きます』と短く返していた。
蒼真はスマホを両手で持って、返信を打った。
『全員集合だな。楽しみにしてる』
送信して、スマホを枕元に置く。天井を見上げた。
――明日が楽しみだ。こんなに単純なことが、こんなに嬉しい。
目を閉じる。昨日のダンジョンの闇と、今日の中庭の陽射しが、瞼の裏で交互に浮かんだ。
中庭の陽射しの感触の方を選んで、蒼真は寝返りを打った。




