第141話 それぞれの場所
第5層から戻った後の学院は、妙に明るく見えた。
ダンジョン入口を抜けた瞬間、草原の風は消え、代わりに初夏の湿った空気が頬に触れた。制服ではなく探索装備のまま立っていると、廊下を通る一年生たちがちらちらとこちらを見る。二年Sクラス第4班が第5層から戻った、というだけで視線が集まるのだから、Sクラスという場所はやはり目立つ。
蒼真は重藤弓の弦に指を添えた。
指先には、まだ最後の弦音が残っている。
リーダー格の急所ではなく、前足の付け根を射抜いた一射。
倒すためではなく、流れを折るための矢。
その横で、凛の火は必要な敵だけを焼き切っていた。大きく広げればもっと早く片づいたかもしれない火を、必要な範囲へ絞り、それでも火力そのものは落とさない。
あの一射を必要だったと言われた事実が、体の内側にゆっくり残っていた。
「神代」
装備点検室へ向かう廊下で、真田が振り返った。
「後藤先生に報告したら、今日の記録は俺がまとめる。だが、最後の射線については、お前の言葉で補足してくれ」
「了解。狙った場所と、撃たなかった二射目の理由も書く」
「ああ。そこが重要だ」
久我が大剣を肩に担ぎ直し、唇を尖らせる。
「俺の左を割った大活躍も重要だぞ」
「もちろん書く。『久我が声を大きくしながら左を割った』って」
「声は関係ねえだろ!」
「関係あります。左の位置が分かりやすかったので」
綾瀬が真顔で言うと、久我は一瞬言葉に詰まり、それから笑った。
「律にまで言われると、なんか本当に関係あるように聞こえるな」
「実際、ありました」
「あるんかい」
凛は杖を抱えたまま、蒼真の右肩を見ていた。
「神代、肩は」
「まだ重い。でも痛みはない」
「それ、さっきも聞いた」
「答えも同じだ」
「同じならいいけど、後で悪くなったら言いなさいよ。白瀬が怒るから」
「凛ちゃん、私だけ?」
「私も怒るけど」
凛は当然のように言ってから、視線を逸らした。
ほのかが「うん、二人で怒ろうね」と穏やかに頷く。蒼真は返事に迷って、結局「気をつける」とだけ答えた。
以前なら、Sクラスの会話に自分が混ざっている感覚は薄かった。けれど今、注意されているのは外から来た誰かではない。同じ班の一人としてだった。
職員室前の小会議室で、後藤は六人の報告を最後まで黙って聞いた。
机の上には第5層の簡易地図、綾瀬の音の記録、ほのかの負担メモ、そして真田が書いた戦闘経過の紙が並ぶ。後藤は煙草を吸えない場所なのに、癖のように胸ポケットへ指をやり、空振りしてから苦笑した。
「なるほどな。突っ込まずに帰ったのは正解だ。成果を増やしたい日と、情報を持ち帰る日を間違えると、上の階層ほど高くつく」
「はい」
真田が短く答える。
後藤の視線が蒼真へ向いた。
「神代。最後の一本、急所を狙わなかった理由は」
「胸を狙えば倒せた可能性はあります。でも外した場合、敵の流れがそのまま真田の盾の左を抜けます。前足を止めれば、倒せなくても後続が詰まると思いました」
「天城。そこで火を広げなかった理由は」
「神代が流れを折ったからです。広く焼かなくても、折れた先だけ焼けば足りました。逆に、神代が外していたら、私が広く焼いて止めていました」
「撃った後の二射目は」
「残せませんでした。だから最初から、次で仕留める前提にはしませんでした」
「そうだな。神代は重藤弓を拳銃みたいに撃たなかった。天城は大火力を雑にばら撒かなかった。どちらも、強い武器を強いまま丁寧に使ったわけだ」
久我が小さく「あ、狙撃銃のやつか」と呟き、凛が肘で軽く小突く。
後藤は気づいているのかいないのか、いつもの緩い顔で続けた。
「悪くない。いや、良かったと言っていい。倒す矢だけが弓術士の仕事じゃないと、自分で分かったなら大きい」
「はい」
「ただし、肩を痛めたら全部台無しだ。白瀬、しばらく見とけ」
「はい。神代くんが『たぶん大丈夫』って言ったら、たぶん駄目の可能性も入れて見ます」
「白瀬、それは厳しくないか」
「神代くん、たぶんって言ったから」
ほのかの声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。
久我が吹き出し、綾瀬も口元を緩める。真田は表情を変えなかったが、盾のベルトを締め直す手が緩んでいた。
後藤は紙をまとめ、最後に全員を見渡した。
「第4班。第5層探索は、ひとまず合格だ。ただし、合格ってのは終わりじゃない。次の階段の前に立てるってだけだ。今日の戦闘を、忘れやすい勝ちにするな」
「はい」
六人の声が揃った。
蒼真はその中に、自分の声が自然に混ざっていることに気づいた。
◇
その日の放課後、立川駅前のファミレスは相変わらず騒がしかった。
部活帰りの高校生、学院生らしき集団、買い物帰りの家族。テーブルの間を店員が忙しそうに歩き、ドリンクバーの氷が落ちる音が何度も響く。
蒼真が店に入ると、奥の七人席から悠斗が大きく手を振った。
「蒼真、こっちこっち! Sクラス様ご案内ー!」
「声が大きい」
「久しぶりに言われたなそれ!」
「いや、毎回言ってるだろ」
航が冷静に突っ込み、紅葉が「たぶん本当に毎回」と頷く。
里奈はメニューを胸元に寄せて小さく笑い、真帆は水のグラスを一つ蒼真の席へ寄せた。川崎は七人の端ではなく、里奈と紅葉の間に自然に座っている。前に見た時より、肩の力が抜けていた。
「第5層、どうだった?」
悠斗が身を乗り出す。
蒼真が座る前に聞いてきたので、航が「座らせろ」と言った。悠斗は「それもそうだ」と笑い、蒼真は水を一口飲んでから答える。
「風が厄介だった。第4層より草が高くて、音も視界もずれる。あと、群れが重なると一気に難しくなる」
「うわ、聞いただけで嫌だ」
「紅葉ならどう見る?」
「んー、視界が草で切れるなら、私は多分上半身の揺れと草の倒れ方を見るかな。でも風で揺れるなら、全部信用はできないかも。綾瀬くんって人、音で拾うんだよね?」
「ああ。足音と草擦れを拾う。ただ、風が強いと距離がぶれる」
「斥候同士で愚痴れそう」
紅葉が楽しそうに言うと、真帆が「愚痴から連携案が出そうですね」と笑った。
川崎が控えめに手を上げる。
「草原で敵が流れるなら、《泥沼》は便利そうです。足場を潰せば、風でずれても進路は絞れるので」
「それ、うちでも今日使ったやつだよな」
悠斗がすぐに乗った。
里奈も頷く。
「はい。川崎さんの《泥沼》で遅くなったところに、私の《氷床》を重ねると、滑って止まれなくなります。ちょっと、意地悪な床になります」
「里奈が意地悪な床とか言うと、なんか強そうだな」
「強いですよ。橘くん、今日、滑りかけましたし」
「あれは作戦上の確認であって」
「違う。普通に滑ってた」
航の即答に、悠斗がテーブルへ突っ伏した。
紅葉が笑い、真帆が「でも転ぶ前に踏ん張ったので、班長点はあります」と妙な採点をする。川崎も口元に手を当てて笑っていた。
蒼真はその光景を見て、胸元がくすぐられるような感覚を覚えた。
自分の知らない探索。
自分のいない失敗。
自分のいない笑い。
寂しさはある。
けれど、それ以上に安心した。
旧第5班は、蒼真が抜けたあとを空白にしていなかった。川崎の土壁に里奈の氷が重なり、足を取られた敵を航が押し返す。その奥で紅葉が次の気配を拾い、真帆の声に合わせて悠斗が槍を構え直していた。
「悠斗、班長っぽくなってきたな」
「急に言うなよ、照れるだろ」
「照れるんだ」
「照れるわ! 俺だって人間なんだぞ」
悠斗はそう言って笑ったが、すぐにフォークを置いた。
わずかに、声の調子が変わる。
「でも、まだ全然だ。今日も航に二回止められたし、川崎の壁を使うタイミング、ちょっと遅かったし」
「遅かったけど、聞いてくれました」
川崎が静かに言った。
悠斗が目を瞬かせる。
「私、前は自分から言うのが苦手でした。でも、今は言った方がいいって思えます。橘くんが聞いてくれるので」
「……そっか」
「はい。だから、遅れても、次に早くなればいいと思います」
「川崎、真面目に褒めるのやめてくれ。俺、反応に困る」
「褒めたつもりでした」
「うん、だから困ってる」
蒼真はグラスの水面を見た。
それぞれの場所。
言葉にすれば簡単だが、そこにはいろいろな感情が混ざる。
嬉しい。
寂しい。
負けたくない。
安心する。
全部が同時に流れ込んできて、それでも不思議と重くはなかった。
「蒼真は?」
航がふと聞いた。
「Sクラスの第4班で、やれそうか」
「……やれそうだと思う」
「思う、か」
「ああ。まだ全部分かったわけじゃない。でも、矢を置く場所はあった」
「なら、大丈夫だな」
航の返事は短かった。
それだけで十分だった。
悠斗がにやりと笑う。
「じゃあ次は、うちとSクラス第4班で合同訓練だな」
「急に話を大きくするな」
「言うだけならタダだろ」
「後藤先生と松田先生に怒られる」
「そこは蒼真のSクラス権力で」
「そんなものはない」
即答すると、全員が笑った。
川崎まで笑っていたことに気づいて、蒼真は嬉しくなる。
ファミレスの窓の外では、立川駅前の光が夕方から夜へ変わり始めていた。
◇
錦町のマンションに戻る頃には、右肩の重さは落ち着いていた。
蒼真はシャワーを浴び、弽を乾いた布で拭き、重藤弓を壁際の定位置へ立てかける。藤の巻かれた弓は、部屋の明かりの下で静かに影を落としていた。
机に座り、メンテナンスノートを開く。
今日のページはすぐに埋まった。まず第5層の横風と群れの繋がり。次に、真田の盾の左縁から凛の火へ続いた線。最後に、旧第5班の《泥沼》と《氷床》が作った足止め。書きたいことは、まだ残っていた。
蒼真は少し迷ってから、最初の一行を書いた。
『班長ではない。
けれど、矢を置く場所はある。』
そこで一度、ペンを止める。
続けて、もう一行を書いた。
『旧第5班にも、俺の知らない新しい場所ができている。』
書いた文字を見て、呼吸が静かになった。
一年次の自分なら、そこに焦ったかもしれない。今も焦りがまったくないわけではない。だが、焦りだけではなかった。
自分はSクラスで進む。
悠斗たちは新しい第5班で進む。
それぞれの場所で強くなれば、またどこかで交わる。
その時、自分の矢が恥ずかしくないものであればいい。
スマホが震えた。
班チャットかと思って画面を見ると、相手は須藤大河だった。
短いメッセージが一つだけ届いている。
『第5層、形になったらしいな。次は僕の班ともやるぞ』
蒼真は思わず笑った。
どこで聞いたのか、とは思わない。Sクラスの噂の速さは、この二ヶ月で十分に分かっている。
少し考えてから、蒼真は返信を打った。
『楽しみにしてる』
すぐに既読がつき、返事が来た。
『次は笑わせない』
蒼真は今度こそ声を出して笑った。
須藤らしい。
ノートの最後に、小さく追記する。
次は、須藤班。
ペン先が紙を滑る音が、夜の部屋に小さく響いた。
重藤弓はまだ重い。肩もまだ追いつかない。
それでも、今日の弦音は確かに残っている。火の隣に置いた矢。盾の縁に置いた矢。旧第5班の笑い声。須藤から届いた次の約束。全部が、次へ進むための線になっていく。
蒼真はノートを閉じ、重藤弓へ目を向けた。
頂はまだ遠い。
けれど、遠いからこそ、今日も矢を引く理由がある。
それぞれの場所で、それぞれのやり方で。
探索者学院唯一の弓術士は、静かに次の一射を見据えていた。
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。
本話で第六章Sクラスの弓術士編の完結となります。いかがでしたでしょうか?
次回からは第七章が開始しますのでお待ちください。
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