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第二章 ― 源郷 ―、第三章 ― ノアの選択 ―

## 一 場所


 三人が辿り着いたのは、谷に囲まれた広い盆地だった。


 緑が豊かだった。草が膝の高さまであり、花が咲いていた。水が流れている音がした。遠くに、大きな木が一本、空に向かって真っ直ぐに伸びていた。


 風が、その木の方から吹いていた。


「あそこだ」とノアは言った。


 大木の根元まで歩いた。根が大地に広く張り出し、その根の間から、清らかな水が湧いていた。水は小さな流れとなって、盆地の各所へ広がっていた。


 風が、常に吹いていた。この場所から生まれ、この場所へ戻ってくる風が。


「感じる」とアウラが言った。「塔の時と似てる。でも、もっと広い。もっと大きい」


「俺も聞こえる」とノアは言った。「声じゃない。でも、全部がここから来てる気がする」


---


## 二 声


 大木に近づいた時、声が届いた。


 塔で聞いた声と、同じだった。だが、比べ物にならないほど近く、はっきりしていた。


 ――おかえり。待っていた。


「また、その言葉だ」とノアは言った。声に出して。


 ――何度でも言う。それが本当のことだから。


「俺は、ここに来たことがあるのか」とノアは聞いた。


 ――お前ではない。だが、お前の名前が示す存在は、ここに来たことがある。


「Noahが」


 ――そうだ。ここが、Noahが最後に来た場所だ。そして、ここが全ての始まりに近い場所でもある。


「全ての始まり」


 ――この世界が、最初に風を受けた場所だ。


---


## 三 アウラの力


 声が続く中、アウラのペンダントが、これまでにない光を放った。


 眩しくはなかった。だが、強かった。安定していた。


「アウラ」とノアは言った。


「わかってる」とアウラは言った。「怖くない。ちゃんと、自分のものとして感じてる」


 光が、アウラの体に溶けていった。峡谷では冷たさを受け、塔では力を受け取った。今回は違った。アウラが、自分から光を引き受けていた。


 光が収まると、アウラは静かに立っていた。


「どうだ」とノアは聞いた。


「変わった、という感じはしない」とアウラは言った。「でも、前より、自分がはっきりした気がする。アウラとして、ここに立ってる、という確かさが」


 セラが「ちょっと、雰囲気変わった」と言った。


「どう変わった」


「前より、落ち着いてる。でも、前より、強い感じ」


 アウラは少し笑った。「そう見える?」


「うん。お母さんみたいな感じ」とセラは言った。それから、少し照れた。「……変なこと言った」


「変じゃない」とアウラは言った。「嬉しい」


---


#### 第三章 ― ノアの選択 ―


## 一 問い


 大木の前で、声がノアに語りかけた。


 ――お前に、問う。


「何を」


 ――Noahの名前を、受け入れるか。欠けたNoaとして、歩き続けるか。


 ノアは、その問いを聞いて、急がなかった。この問いを、いつか受けることは、ゼルファスの言葉からわかっていた。


「Noahを受け入れるとは、どういうことだ」とノアは聞いた。


 ――救い主としての重さを、引き受けることだ。Noahが残した問いに、答えることだ。人を縛ってしまった代わりに、解放する役を担うことだ。


「欠けたNoaとして歩き続けるとは」


 ――今のままだ。完全な名を持たず、自由に、自分の道を選ぶ。縛られず、しかし縛る力も持たない。


 ノアは二つの選択を、胸の中に並べた。


 重さを引き受けるか。自由でいるか。


---


## 二 カイルが来た


 ノアが考えている時、背後から足音が聞こえた。


 カイルだった。


 傷があった。腕に、布を巻いている。だが、歩ける。立っている。


「間に合ったな」とカイルは言った。


「来た」とセラが言った。嬉しそうな声だった。


「約束したろ」とカイルは言った。「まだ、木を彫っていない」


 アウラが、カイルの腕を確認した。「深くないですね。でも、手当てします」


「後でいい」


「今です」とアウラは言った。強い声で。


 カイルは大人しく従った。


 ノアはカイルを見た。来た。この人は、本当に来た。


「交渉は」


「時間を稼いだ。全員を止めたわけではない。追っ手の中に、ヴァン家の名前で動けないものと、関係なく動くものがいた。後者は、また来るかもしれない」


「ここに来ても、意味がなければいい」とノアは言った。「俺が選択をすれば、彼らの目的は変わるかもしれない」


「選択をするのか」


「する」とノアは言った。


---


## 三 ノアの答え


 大木の前に立った。四人が後ろに並んだ。


 ノアは声に向かって、答えを言った。


「俺は、Noaとして歩き続ける」


 声が、少し間を置いた。


「Noahの重さを引き受けることを、俺にはできないと思った。それは傲慢かもしれない。でも、俺がNoahとして生きようとすれば、同じことを繰り返すかもしれない。救おうとして、縛ってしまう。それを、したくない」


 ――理由は。


「俺の隣に、人がいるからだ」とノアは言った。「Noahは一人で救おうとした。でも、俺には仲間がいる。カイルがいて、アウラがいて、セラがいる。一人で全部背負わなくていい。一緒に歩く人間がいる」


 声は答えなかった。


「Noahが欠けた形を作ったのは、縛られないようにするためだった。俺は、その欠けたままを、大切にしたい。欠けているから、まだ続きがある。まだ、見つけるものがある」


 ゆっくりと、大木が音を立てた。


 葉が揺れた。根元から、光が滲み出た。塔で見た光とは違う。もっと暖かく、もっと穏やかな光だった。


 声が届いた。


 ――それで、十分だ。


---


## 四 隠されたものが動く


 光が盆地全体に広がった。


 四人は動かずに、その光を受けた。


 ノアの胸の中で、何かが変わった。渇きが、消えたわけではなかった。だが、その渇きが、今は違う形をしていた。足りないことへの不安ではなく、まだ続きがあることへの期待として、胸の中にあった。


 アウラのペンダントが、静かに光を返した。


 カイルは、木の欠片を取り出した。懐からいつも持ち歩いていたものだ。光の中で、それを見た。彫りかけの形が、今はっきり、何かに見えた。鳥だった。翼を広げた、小さな鳥。


「見えた」とカイルは言った。小さく。


「何が」


「彫るべきものが」


 セラが空を見上げた。「虫が増えた」と言った。


 全員が笑った。場違いな言葉だったが、それがちょうどよかった。


---


## 五 光が収まった後


 光が収まると、盆地は元の静けさに戻った。ただ、風が少し変わっていた。重さがなくなった風だった。何かを運ぶのではなく、ただそこにある風。


 声が、最後に届いた。


 ――忘れたものを、取り戻せ。これは、命令ではない。誘いだ。


「忘れたもの」とノアは繰り返した。


 ――この世界が始まる前に、あったもの。人が本来持っていたもの。記憶が隠される前に、知っていたもの。それは、少しずつ、戻ってくる。お前たちが歩くたびに、少しずつ。


「全部が、戻ることはあるか」


 ――わからない。だが、一人が歩けば、一つが戻る。四人が歩けば、四つが戻る。それで十分だ。


 声が、静かになった。


 完全に消えたのではなかった。ただ、遠くなった。風の奥に、また溶けていった。


 ノアは大木を見上げた。葉が揺れていた。光の粒が、葉の間から差し込んでいた。


 足りない。


 まだ、足りない部分はある。全てがわかったわけではない。全てが解決したわけでもない。追っ手はまだいる。板の意味の全てがわかったわけでもない。


 でも。


 もう、足りなくはない。


 この言葉が、今ならわかる。足りなくはない、とは、完全になったということではない。欠けたままで、それでも十分だということだ。欠けているから、まだ歩ける。まだ、続きがある。


 ノアは振り返った。


 三人がいた。カイルが、腕の傷の手当てを受けながら、空を見ていた。アウラが、ペンダントを手のひらに乗せて、光を確かめていた。セラが、草の中を歩いて、何かを探していた。


「虫、いた」とセラが言った。「すごく大きい」


「見せるな」とアウラが言った。


「カイルさんは?」


「俺は平気だ」


「ノアは?」


「見せてみろ」


 セラが走ってきた。手のひらに、確かに大きな虫がいた。


 アウラが「やだ」と言って後ろを向いた。カイルが無表情で観察した。ノアが、その虫をしばらく見た。


「きれいだな」とノアは言った。


「きれい?」とセラが言った。驚いた顔で。


「翅の模様が」とノアは言った。「風の文様に似てる」


 四人は、その虫の翅を見た。確かに、渦を巻く細かい模様が、翅に広がっていた。


「本当だ」とアウラが、後ろを向いたまま言った。少し振り返っていた。


 カイルが「どこにでも、文様はある」と言った。


「そうだな」とノアは言った。「どこにでも、風は届いている」


---


*(終章へ続く)*


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