第七章 ― 二つの名 ―
## 一 三枚目の欠片
三十日目、四人は三枚目の板を見つけた。
場所は、道標が示した方向にあった廃墟の中だった。番人はいなかった。建物の奥の壁に、直接刻まれていた。持ち運べる板ではなく、壁そのものに刻まれた文字だった。
ノアはその文字を、炭で板に写し取った。時間がかかったが、丁寧に写した。
「これで三枚」とアウラが言った。
「ゼルファスさんのところへ戻らなければ、読めない」とセラが言った。
「その前に、もう一つ探そう」とカイルが言った。「道標は、まだ続いている。もう一枚あるかもしれない」
四人は、道標に沿って進み続けた。
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## 二 夢の中の言葉
三十二日目の夜、ノアは久しぶりに、いつもの夢を見た。
手をすり抜けるものを追う夢だ。足が動かない、声が出ない。目が覚める直前に、風のような音が届く。
だが、今夜は少し違った。
目が覚める寸前、音ではなく、言葉が聞こえた気がした。
――NとNoahは、違う。
それだけだった。目が覚めると、その言葉だけが残っていた。
ノアは暗い中で、一人で考えた。
NとNoahは、違う。
同じ名前だと、ずっと思っていた。Noahから一文字欠けたのがNoa、つまり自分の名前だと。だが、もし違うとしたら。もしNoahという存在と、Noaという存在が、根本的に別のものだとしたら。
救い主と呼ばれたNoah。その名を欠けた形で持つNoa。欠けているから、縛られない。欠けているから、自由だ。それは、声が言っていた通りだ。
では、Noaとは何者か。Noahの不完全なコピーではなく、別の存在だとしたら。
答えは出なかった。だが、問いは確かに大きくなっていた。
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## 三 アウラの気づき
朝、ノアが夢の話をすると、アウラが静かに聞いていた。
「NとNoahは、違う」とアウラは繰り返した。「私も、似たようなことを感じてた」
「どんなことを」
「ペンダントから、力が目覚め始めてる。その感覚の中に、いつも誰かの想いが混じってる。優しい想いで、守りたいという気持ちで。でも、その想いって、私のものじゃない気がする」
「誰かから受け継いだもの、ということか」
「うん。でも、受け継いだからって、それが私になるわけじゃない」アウラは少し考えながら言った。「私はアウラ。ペンダントの力を持っていても、その力の元になった誰かとは、違う。だから、力を使うとき、私として使わなきゃいけない気がする」
ノアはその言葉を聞いて、胸の中で何かが動いた。
「俺も、同じかもしれない」とノアは言った。「Noahと同じ名前を持っていても、俺はNoahじゃない。俺はNoa、ただのNoaとして、歩いている」
「そう」とアウラは言った。「それが、大事なんだと思う」
カイルが聞いていた。「ヴァン家の血を引いていても、俺はカイルだ。その血が俺のすることを決めるんじゃない」
セラが少し笑った。「私も。おじいさんの孫だけど、おじいさんじゃない。セラとして、歩く」
四人は、それぞれ自分の名前を、改めて確かめるように、口の中で転がした。
名前は、過去から受け継ぐものだ。だが、名前の意味は、これからの歩みが作る。
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## 四 四枚目
三十五日目、四枚目の板を見つけた。
今度の番人は、若い女性だった。二十代前半で、鋭い目をしていたが、話してみると穏やかだった。
「ずっと来ないから、もう来ないかと思ってた」と彼女は言った。
「待っていてくれたのか」とノアは言った。
「待つことが役目だから」
板を受け取る時、彼女は言った。「追っ手に気をつけろ。最近、この辺りも嗅ぎ回られている」
「どこから来ている組織かわかるか」とカイルが聞いた。
「わからない。だが、古い。何百年も前から続いている組織だと聞いている」
「何のために」
「支配のため、と聞いている。風を支配すれば、人の心も支配できる。人の心を支配できれば、世界を支配できる」
その言葉が、四人の中に重く落ちた。
風は生きるためのものだ。命を運び、声を届け、意思を伝える。それを支配するということは、生命そのものを支配することになる。
「渡さない」とアウラが言った。静かだが、強い声だった。「このペンダントは、渡さない」
「そのために、力が目覚めているんだと思う」と彼女は言った。「お前の力は、守るためにある。誰かを傷つけるためではなく」
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## 五 ゼルファスのもとへ
四枚の板を持って、四人はゼルファスのいる崩れた街へ向かった。
今度は迷わなかった。これまでの道を、逆に辿るだけだ。追っ手の気配は続いていたが、本格的な襲撃はなかった。数の差が縮まったと判断したのか、あるいは別の策を練っているのか。
十日後、四人はゼルファスの前に立った。
ゼルファスは四枚の板を受け取り、順番に並べた。一枚目、二枚目、三枚目、四枚目。文字を確認し、順番を入れ替えた。一定の順番があるのだろう。
ゼルファスは、長い時間をかけて読んだ。
四人は黙って待った。
ゼルファスが板を置いた時、その顔は穏やかだったが、どこか遠くを見ていた。
「読めたか」とノアは言った。
「読めた」とゼルファスは言った。
「何が書いてあるんですか」
ゼルファスは四人を見た。順番に。それから、口を開いた。
「この世界は、最初からあった世界ではない。人々はここに来る前に、別の場所にいた。何かが起こり、人々はここへ来た。その記憶を、ほとんどの者は持っていない。消えたのではなく、隠された」
四人は黙った。
「隠したのは誰だ」とカイルが言った。
「書いていない」とゼルファスは言った。「ただ、こう書いてある。隠したのは悪意からではない。人が生き延びるために、必要だったからだ、と」
「生き延びるために、記憶を消す必要があったのか」とノアは言った。
「それが、なぜかは、ここには書かれていない」とゼルファスは言った。「ただ、最後にこう書いてある」
ゼルファスは、一番最後の文字を指差した。
「『Noa』という言葉が、いつか鍵になる。その言葉が本来の形を取り戻す時、隠されたものが、戻ってくる」
ノアは体が固まった。
Noa。自分の名前が、鍵になる。
「本来の形、というのは」とノアは言った。声が少し掠れた。
「Noahのことだ」とゼルファスは言った。「だが、それはNoahという人間が戻ってくることではない。Noaという存在が、自分の欠けた部分を知ること。その欠けた部分を、受け入れるか、手放すか、選ぶこと。その選択の瞬間に、隠されたものが動く」
「選択」とノアは繰り返した。
「強制ではない」とゼルファスは言った。「お前が選ぶことだ。Noahという名前の全てを引き受けて生きるか。欠けたNoaとして、自由に歩き続けるか。どちらも、間違いではない」
ノアはその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。
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## 六 NとNoahは、違う
その夜、ノアはアウラに話した。
「夢の中で聞いた言葉が、本当だった」とノアは言った。「NとNoahは、違う存在だ」
「ノアは、どう思う」とアウラは言った。「自分がNoahとは違う、と知って」
「正直、ほっとした」とノアは言った。「Noahは、救おうとして、縛ってしまった。その重さを、俺が引き受けなくていいとわかった」
「でも、鍵になるんでしょう」
「なる、らしい。でも、それはNoahとして鍵になるんじゃない。Noaとして、だ」
アウラはしばらく考えた。「Noaとして、というのは、どういう意味だと思う?」
「欠けたまま、でいい、ということだと思う」とノアは言った。「完全にならなくていい。欠けているから、自由で、欠けているから、選べる」
アウラは頷いた。「私も、アウラという名前で、アウラとして力を使う。受け継いだ力だけど、私のものとして」
「そうだ」
「ノアとアウラ、欠けてるもの同士だね」とアウラは笑った。
「欠けてるというより、まだ続きがある」とノアは言った。
アウラはその言葉を聞いて、少し目を細めた。「それ、好きな言い方」
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## 七 第二部の終わりに
崩れた街の広場で、四人はゼルファスと最後の話をした。
「次は、どこへ向かえばいいか」とノアは聞いた。
ゼルファスは、少し間を置いた。「風の源郷だ」
「風の源郷」
「この世界で、風が最初に生まれた場所。全ての風が、最終的に戻っていく場所。そこに、残りの答えがある」
「場所はわかるか」
「お前には、わかるはずだ」とゼルファスは言った。「これまで、風が導いてきた。最後も、同じだ」
ノアは風を感じた。今日の風は、これまでと少し違った。方向が、はっきりしていた。北東。これまでずっと東だった風が、少し角度を変えていた。
「北東だ」とノアは言った。
「そうだ」とゼルファスは頷いた。
別れ際、ゼルファスがもう一つだけ言った。
「お前たちが追っ手と決着をつける時が来る。その時、カイルの出自が、意外な形で役に立つかもしれない」
「どういう意味だ」とカイルが聞いた。
「ヴァン家は、その組織の末端だ。だが、末端であることは、内側の構造を知っているということでもある」
カイルは少し考えた。「内側から、崩すことができるかもしれない」
「その可能性がある」とゼルファスは言った。「それも、お前の選択だ」
四人は、北東へ向かって歩き始めた。
ゼルファスは、送り出すように、しばらく四人の背中を見ていた。
風が強く吹いた。
板の文字が示した言葉が、ノアの胸の中で繰り返していた。
――Noaという言葉が、いつか鍵になる。
まだその時ではない。でも、近づいている。
確かに、近づいている。
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*(第二部・完 ― 第三部「足りなくはない」へ続く ―)*




