トラブル
休憩が終わりホールに戻ると、何組かのお客さんが入ってきていた。
佐久間くんや美咲さんが注文を取ったり、出来たフードや飲み物を運んでいるので、すぐに私も仕事に入る。
ピッチャーに氷と水を一杯に入れて、お客さんが来たらすぐに水を入れられるように空のグラスを並べておく。
伝票をチェックするとケーキの注文が入っていたので、ショーケースからケーキを取り出してお皿に乗せ、トレイに乗せておく。ドリンクが出来上がったらすぐに持っていけるように。
そうこうしているうちに、どんどんお客さんがやって来て、あっという間にお店は満員になってしまった。
え? 突然どうして? 今日って、この近くで何かイベントでもあったっけ?
誰かに聞いてみる余裕もないくらい忙しくなった。
キッチンは、一ノ瀬さんと社員の熊田さんの二人で回している。
ホールは夕方からラストまでのシフトのバイト二人もやって来て、私、美咲さん、佐久間くん、その二人の五人で接客していたけれど、目が回るような慌ただしさだった。
うちのカフェは基本的に女性やカップルのお客さんが多いんだけど、今日はなぜかサラリーマン風の男性や、めちゃくちゃ背が高くて筋肉質で、更にサングラスをかけている、という、いったいどんな職業の人……? みたいな男性客もいたりして、普段と違う。
どうなってるんだろう、と思いながら、サラリーマン風の男性にコーヒーを出した時に、カチャン、とカップが揺れて、ソーサーにコーヒーがこぼれてしまった。
あ、やっちゃった、と思い、申し訳ありません、と言って一度コーヒーを下げようとしたら、突然男性が苛立った様子で私に声をかけた。
「なんやねん、コーヒーひとつ出すんにどんだけ時間かけとんねん。しかもこぼすとか、この店は客を馬鹿にしとんか?」
お客が多すぎたせいで提供に時間がかかったことに腹を立てていたらしいその男性は、私の失敗に我慢できなくなったようだった。
「あの、申し訳ありません」
どうしよう、とにかく謝らなくちゃ、と思って男性に頭を下げたけれど、男性は許してくれなかった。
「コーヒーひとつまともに運ぶこともできんとか、この店はどうなっとんねん! ええ加減にせえや!」
ぎゅうっと胃が痛くなる。突然こんな風に怒鳴られると思っていなかったので、どうしたらいいのか分からない。
佐久間くんが私を気にして振り返ろうとしているけれど、ちょうど他のお客さんの注文を取っているところなので動けない。他の人たちもみんな料理を出していたり会計をしたり、手が離せない状況で、私はただその男性の前で立ちすくむしかなかった。
「なんとか言うたらどうやねん!」
男性がバン、と机をたたく。同時に私の体がびくっと跳ねた。
どうしよう、怖い。何か話さないといけないのに何も頭に浮かんでこない。
「おいおい、おっちゃん、めっちゃうるさいねんけど」
頭が真っ白になったまま突っ立っていた私の前に、突然大きな背中がやって来て視界を遮った。
え?
「なんやねんお前」
男性の不機嫌そうな声が響く。
「なにって、客やけど。あんたと同じこの店の客。少なくともあんたにお前呼ばわりされるような関係性ではないな」
その時、私の背後から、そっと私の腕を引く人がいた。
ようやく体が動いた私が振り返ると、美咲さんが私の腕を取り、小さい声でこっち、と言った。
美咲さんに導かれるまま、私はカウンター奥の休憩室へ入った。
騒がしいホールから音が遮断された休憩室に入った途端、気持ちがふっと緩んで涙がぼろっと出てきた。
もうあの怖い男性と向き合わなくていいんだ。
……そう、私はあの男性がものすごく怖かった。
もちろん私がいけなかったんだけど、突然強い言葉で責められて、怒鳴られて……
どうしたらいいのか分からなくて、ただあの人の言葉の攻撃をまともにぶつけられるしかなかった。
我慢しようと思うのに、私は涙が出てくるのを止められなくて、しゃくりあげるように泣いてしまった。
美咲さんはそっと私の背中をなでて、椅子に座るように言った。
椅子に座った私は両手で顔を押さえて泣いた。
「……ごめんなさい、私、失敗して……お客さん怒らせて……」
美咲さんはずっと私の背中をなでてくれた。
「ううん、紗羽ちゃんは悪くないよ。ちゃんとお客さんに謝ってたやん? 汚れてしまったカップを取り換えようとしとったやろ? それやのに紗羽ちゃんを責め続けたあのお客さんがあかんと思う。ああいうん、クレーマーやで。だから紗羽ちゃんは気にしたらあかんよ」
美咲さんはそんな風に言ってくれたけど、私の涙は止まらなかった。
ただ初めて向けられた見知らぬ他人からの叱責に、心が縮み上がってしまっていた。
私がしばらく顔を覆って泣いていると、休憩室のドアがコンコン、とノックされた。
美咲さんが立ち上がってドアの方へ歩いていく。
……そうだ、今、お店は忙しくって……それなのに、美咲さんと私、二人もスタッフがいなくなっちゃったら、きっと大変なことになってる。早く戻らなくちゃ。
……戻る? あの場所に? まだあのお客さんがいたら……どうするの?
ドアを開けた美咲さんが、誰かと話をしている。
どうしよう。仕事に戻るようにって言われたら、私はすぐに泣き止んで戻れる?
息苦しいまま必死で深呼吸して気持ちを落ち着けようとしていたら、美咲さんがドアを閉めてまた私の方へ歩いてきた。
ふわっと甘い匂いをまとって。
美咲さんが、コトン、と目の前のテーブルに何かを置いた。
私がゆっくり顔を上げると、そこには普段ホールで使っているトレイが置いてあって、トレイの上にはケーキとラテが乗っていた。
美咲さんは私を見てニコッと笑った。
「私はホールに戻るけど、紗羽ちゃん、あと十分くらいでもうバイト終わりの時間やろ? だからこのまま休んどってええよ。そんで、このティラミスとラテはキッチンの二人から差し入れね。来週から出す新商品の味見を、ほんまはバイト終わってからしてもらうつもりで取っておいたやつやねんて。今日はめっちゃ忙しかったから、これ食べてゆっくりしたら、もう終了でええって」
「え……でも、まだ忙しいんやったら……あと十分でも、私も働かんと」
「大丈夫! 紗羽ちゃんの今日の仕事は、あとはこのケーキ食べて感想言うことだけやから! それやって大事な仕事やねんで? だからちゃんと味見するねんで?」
美咲さんは分かった? と言うように私の目を覗き込んだ。
それからそっと私の頬を両手で包み込んだ。
「あーんもう、こんなに目真っ赤にしてかわいそうに……甘いもの食べてゆっくりして、ちゃんと気持ちを落ち着かせてから帰らへんと許さんからね? あとは私や他のみんながバリバリ働くからね! 紗羽ちゃんも、次バイトに来た時、元気になってめっちゃ働こ!」
美咲さんは私の頭をぐりぐり、となでてから休憩室を出て行った。
あとは……私の目の前には、新作のティラミスとラテだけが残されていた。
本当に働かなくていいのかな……と思いながら、でも今あの場所に戻らなくて良くなったんだ、とほっとして、私はラテが入ったカップを手に持った。
ごくん、と飲むと、そのラテは、コーヒーじゃなくて、ティーラテで……
一ノ瀬さんの顔が思い浮かんで、私はまたボロボロ泣いてしまった。




