はい。少しだけ
昼前。
ローレンス家の空気が、ふっと変わった。
何も音はしない。
誰も何も言わない。
けれど、外から“甘い流れ”が押し寄せてくる。
(……来た)
アルフォンスは扉の影に身体を寄せ、ひそかに視線だけ外へ向ける。
「クララ嬢、思い出せ。揺れの速度、呼吸、そして…返事だ」
イーサンが静かに頭を下げる。
「クララ様。側におります」
私はゆっくり息を吸った。
色はまだにじむ。
怖い。でも
(……行ける)
「ローレンス家の皆様、お忙しい中、突然の訪問を……」
エリオットの声は、廊下の向こうから柔らかく届いた。
家族は嬉しそうに迎え入れる。
母は桃色をふわっと広げ、兄の青も爽やかに波打つ。けれど、そのどちらも“にじんで”境界が曖昧で、読みにくい。
私は一段下の階段で見つめていた。
(……前より濁ってる)
エリオットの黒紫は深く、ねっとり重い。
そしてその奥に——
(……赤……?)
昨日より濃い。
興味、警戒、苛立ち…それらが混ざり合った色。
私が“異常に気づいたかもしれない”と察したのだ。
イーサンが私の横に立つ。
「クララ様、呼吸を。ゆっくり……」
(……うん)
胸の奥が少し軽くなる。
「クララ、いらして。エリオット様が……」
母に呼ばれ、私は一歩前へ出た。
エリオットがこちらを振り向いた瞬間。
黒紫の揺らぎがぼこっ、と音を立てるように歪んだ。
(……濁りが跳ねた!)
「クララ様。本日もお顔を見られて、光栄です。今日はご機嫌いかがですか?」
笑顔。
声。
言葉は優しい。
でも、赤の揺れは強く震えている。
(……この人…焦ってる……?)
呼吸を整えて、稽古通り焦点を少し緩め——
「……はい。少しだけ」
返した瞬間。
黒紫が、一瞬だけ“止まった”。
エリオットの笑顔が固まる。
(……効いた…?)
ほんの一拍の違和感。
けれど、すぐに取り繕われる。
「それは……良かった」
(……怪しまれてない!)
背後から、音もなくイーサンの声。
「自然でした、クララ様」
胸の奥がふわりと温かくなる。
応接室に通され、家族と共に座る。
色はまだにじむ。
会話に混じる母の桃色と兄の青が、少し同じに見えるほど。
(うまく読めない……)
エリオットは家族に贈り物の話をしている。
「奥様、あの花束……お気に召しましたか?」
「まぁ!もちろんよ。香りがとても華やかで……」
その花束から、薄い、薄い甘さが揺れている。
(…まだ残ってる)
私は息を詰めかけたが
「クララ様」
イーサンのささやきが、心をつないだ。
「視線が揺れました。今の色は“喜び”です。影響ではありません」
(…また読み誤ってた……!)
にじむ日は、こんなに危ない。
(…イーサンの補完がなかったら危なすぎるわ…)
イーサンは静かに、自然な仕草で家族の会話を整える。整えながらもエリオットに気取らせない。
その灰色は、ただただ頼もしい。
———
エリオットが、ふいにクララへ視線を向けた。
「そういえば、クララ様。昨日の…あの香り袋は、気に入っていただけましたか?」
一瞬、視界がぶれる。
甘い匂いの記憶が、喉の奥でざわっと逆流する。
(……来た!)
稽古した通り、呼吸を浅くし——
目の焦点を、ほんの少し緩める。
「……はい。……少しだけ」
ゆっくりと。
するとエリオットの黒紫が……
(……縮んだ…?)
赤も、揺れる。
それは“安堵”と“確認”の混じった揺れ。
(……私の演技に騙されてる!)
胸の奥で、青が光る。
イーサンが気づいたように小さく頷く。
(“演技”成功だ……!)
ただ、その直後。
私は、色のにじみで一つ読み誤った。
エリオットが父ローレンスの隣へ視線を向けたとき。
(……お父さん……?)
私は思わず息をのみ、身体が強張った。
その瞬間、イーサンが私の微細な反応を捉え、
あくまで“クララが体を傾けたから支えた”という体裁でそっと前に出る。
「クララ様」
低い声で私とエリオットの視線を自然に切り離すと、
「ローレンス卿は不調などではございません。先ほど椅子にぶつけた膝の痛みがおありなのでしょう」
「…え?」
父が苦笑する。
「お、おいイーサン、よく見てるな……椅子の角で、少しな」
(……そうだったの??)
危なかった。
(……完全に……読み違えた……)
エリオットがそれを見て、ほんのわずか眉を動かした。
(……気づかれた!?)
一瞬だけ黒紫が跳ねる。
でも私は
(……呼吸……ゆっくり……)
演じ続ける。
イーサンがそっと支えるように立つ。
アルフォンスは扉の影で小さく頷いた。
「…よくやった。よく持ちこたえた……」
エリオットは最後に深く頭を下げた。
「本日はこれで失礼いたします。また、近いうちに……」
甘い残滓が、ふわりと揺れる。
その時――
クララの目には、わずかに違う色が見えた。
黒紫。
赤。
そして……
(……え……金……?)
ほんの一瞬。
光のような、金の揺らぎ。
(……なに、これ……)
エリオットが何かを“確信した”時に出る色。
それは今までに見たことがない種類。
イーサンもアルフォンスも、気づいていない。
(……嫌な予感がする)
エリオットはにこやかに帰っていった。
扉が閉まる。
イーサンが横で低く呟く。
「……クララ様。本日の“最後の揺れ”……何が見えましたか?」
私は息をのみ、囁いた。
「……金色」
イーサンの灰色が、わずかに揺れる。
アルフォンスが影から出てきて、表情を険しくした。
「……金だと?」
その声は、今までで一番低かった。
「クララ嬢、それは…“術者が次の段階に入った”証だ」
私は無意識に手を握りしめた。
(……次の段階……?)
アルフォンスは静かに続ける。
「つまり……クララ嬢を“本格的に狙う準備が整った”ということだ。」
応接室の空気が、一気に冷える。
ローレンス家に迫る危機は、まだ“入口”にすぎなかった。




