第七十五話:澱濁
東側の外壁は、まだ静かだった。西の彼方からは絶えず轟音が届き、時折、足元の煉瓦までかすかに震わせる。
南側では、つい先ほどから低く重い衝突音が繰り返されていた。何を打ちつけているのかまでは分からない。だが、そのたびに城壁上を行き交う伝令の数が増えている。
それでも、東側に敵の姿はなかった。
「北東、敵影なし!」
見張り台から声が飛ぶ。
「沿岸部、異常なし!」
別の見張りが続ける。
東側の外壁に立つミャンジン軍の将校は、壁際へ手を添えながら遠方を見渡した。
王都の東には海が広がっている。南北に伸びる海岸線も、今のところは穏やかだった。しかし、視線を北へ向ければ、遠くで土煙が立ち上がっている。西から回り込んだ鎧人の一部が、北側外壁に沿ってさらに東へ進んでいた。南東にも、同じような黒い影が見え始めている。
遅かれ早かれ、鎧人の軍勢は東側まで広がる。ワラネを完全に包囲するつもりなのだろう。
「弓兵は持ち場を離れるな! 見張りは沿岸と北側を交互に確認しろ!」
「了解!」
東側外壁を守る兵の多くは、ミャンジンから駆けつけた援軍だった。
見慣れない王都の城壁。慣れない配置。共に戦ったことのないワラネ都市軍。それでも命令系統に大きな混乱はない。到着してからの数日間、各部隊は外壁の構造と持ち場を確認し、敵襲を想定した訓練を繰り返してきた。
準備はできている。そう信じるしかなかった。
将校は北東の方角へ目を向けた。
この海岸線を辿った遥か先に、故郷ミャンジンがある。王都救援のため、ミャンジンは動かせる限りの兵を送り出した。都市の守りが空になったわけではない。もちろんミャンジンにだって壁があるし、残った都市軍もいる。友好関係にあるサトゥルナやデカポダの中にも、ミャンジンに留まった者はいる。それでも、普段より守りが薄いことに変わりはなかった。
もし、目の前の軍勢が一部を切り離し、北上させたら。もし、ワラネへの攻撃そのものが、ミャンジンから兵を引き離すための策だったら。考え始めれば、いくらでも悪い可能性が浮かぶ。
「……今は、こちらだ」
将校は自分へ言い聞かせるようにつぶやいた。
ワラネが落ちれば、次はミャンジンだ。王都を守ることは、そのまま故郷を守ることに繋がる。今は、そう信じて目の前の役目を果たすしかない。
東側の外壁の先。城壁から少し離れた沿岸部には、ワラネの港が広がっていた。普段なら大小の船が行き交い、荷を運ぶ人々の声が絶えない場所だ。けれど、今は船影も人影もない。
敵襲を告げる銅鑼が鳴る前から港湾作業は停止され、沖へ出せる船は退避し、残された者も城内へ引き上げていた。
桟橋、荷揚げ場、倉庫。すべてが放棄され、波に洗われる音だけが響いている。
港の外周に設けられた防波設備も無人だった。敵の上陸を防ぐ柵や浅瀬へ打ち込まれた杭は残されているが、守る兵はいない。外壁から離れた港へ兵を置けば、敵に包囲された際に退路を失う。防衛線は、すでに王都の外壁まで後退していた。
静かな水面の下を、いくつもの影が通り過ぎていく。防波用の杭を避ける。浅瀬では身体を水底へ伏せ、深みに入れば地面を離れる。水面へ甲殻を出す者はいない。波紋さえ最小限に抑え、無人の港を潜航していく。
港の先には、王都から流れ出した水を海へ逃がすための水路が複数あった。生活排水を流すもの。大雨の際に増えた水を逃がすもの。市内を巡る水路の水量を調整するもの。用途によって幅も深さも異なるが、そのすべてが外壁の下を通っている。
外壁へ門を設けずに都市を維持することはできない。それは陸上でも、水上でも同じだった。
だからこそ、水門は陸上の城門以上に頑丈に造られている。水路を塞ぐのは、木芯の太い格子を鉄で覆った水門。同じものが一定の間隔を空けて三重に設置され、仮に一枚を破られても、その先に二枚が残る。両脇には外壁から張り出すように防衛塔が建てられ、水門の外側を真上から見下ろせる構造になっていた。
王都ワラネに存在する、ある意味では最大の弱点。だからこそ、可能な限りの防備が施されていた。
味方のデカポダの一体が、三重格子の間の水域へ身を沈めていた。
もっとも、外側の格子からも距離があり、敵へ直接手を伸ばすことはできない。それでも、水中の明暗や動きを捉えることに長けた複眼ならば、濁りのない水路の先にある異変を見逃さない。
水面から差し込む光が、格子の向こうの水底を照らしていた。白く揺らめく砂地の先に、小さな黒い影が浮かんでいる。
影は少しずつ大きくなっていた。水の揺らぎに合わせて輪郭を変えながらも、確実にこちらへ近づいている。
そのデカポダの複眼が、左右へ張り出した鋏を捉えた。続いて突起を備えた甲殻と、その下で水底を蹴る無数の脚が影の中から浮かび上がる。
さらに後方には、同じ形の影が幾つも連なっていた。敵勢力のデカポダは、ほとんど水面を揺らすことなく、徐々に浮上しながら水門へ近づいている。
味方のデカポダは水中から、内側に控える仲間に合図を送った。
「来るぞ!」
三重格子の内側に控えていたデカポダは、水飛沫とともに上半身を現し、防衛塔を見上げる。
「外にデカポダ多数!」
防衛塔の兵士が身を乗り出した。
「敵影確認できず!」
人間の目には、反射する水面しか見えない。
味方デカポダは大きな鋏を一本、水門正面へ向けた。
「正面!上!」
敵は水門の正面、水面近くにいる。事前に決めていた合図だった。
「水門正面!弓兵、構え!」
左右の防衛塔で、一斉に弦が引き絞られる。術士たちも水面へ手を向けた。
水面が盛り上がり、茶褐色の甲殻が一瞬だけ光を反射する。水門へ取りつこうと浮上したのだ。
「放て!」
矢の雨が降り注ぐ。敵の甲殻へ当たり、硬い音を立てて弾かれる。だが、すべてを防げるわけではない。甲の継ぎ目へ矢を受けた一体が、身体を傾けて水中へ沈んでいく。
続けて術士官が腕を振るった。水門間際の水域が圧縮され、急激に水圧が高まる。
一体の背甲が砕け、別の個体の巨大な鋏が水上へ突き出され、何かを掴もうと空を切った。濁った体液が水面へ広がっていく。
「次、右手側!」
内側のデカポダが、今度は鋏を斜め右へ向ける。
「右方!照準を移せ!」
弓兵が一斉に射線を変え、水面下を進む敵影へ次々に矢を放つ。
人類側から敵の姿はほとんど見えない。それでも、内側にいるデカポダが位置を知らせる限り、狙うことはできる。
水面近くを進んでいた敵勢デカポダが次々と攻撃を受け、水路には甲殻の破片と体液が浮かび始めた。
「効いているぞ!」
防衛塔から声が上がる。
「そのまま近づけるな!」
味方のデカポダが水中へ潜り、三重格子の内側から、外の動きを探る。
先ほどまで無数に見えていた影が減っていた。撃破された個体もいる。水路を離れた個体もいるのだろう。
だが、すべての影が消えたわけではない。水底に残っていた影が、次々と光の届かない深みへ沈んでいく。先ほどよりも深く、格子の下端と水底が接する、暗い領域だった。
敵勢力のデカポダは次々と身体を沈め、その闇へ潜り込んでいた。
再び内側の仲間へ合図を送る。
「敵、下方!」
「位置は!」
「格子の手前!」
防衛塔の将校が水面を睨む。
「水底へ攻撃できるか?」
術士官が首を横に振った。
「正確な位置が分かりません! 闇雲に放てば、水門そのものを傷つけます!」
矢は水へ入った瞬間に勢いを失う。岩ならば深くまで沈むが、水中で軌道が逸れ、敵へ正確に当てることは難しい。水術ならば深部へ干渉できるが、敵の位置が分からない。格子や水門の基礎を破損させれば、かえって敵の手助けをすることになる。
「敵影を探せ!」
命令を受け、味方のデカポダたちが一斉に水中へ沈む。格子の内側から複眼を凝らし、触角で水の動きを探る。
しかし、撃破された敵の体液と、水底から巻き上がった泥によって、水は急速に濁り始めていた。
見えていたはずの第一格子さえ、次第に輪郭を失っていく。外側にいる敵の数も、位置も分からない。
ただ、何かが動くたびに泥が舞い上がる。敵は逃げていない。
一体のデカポダが、水底へ腹甲をつけた。地面から微かな振動が伝わってくる。
ゴッ。
間を置いて、もう一度。
ゴッ。
何かを打ちつける、規則的な振動だった。デカポダは第一格子へ近づき、太い鋏を鉄格子へ添える。格子そのものは揺れていない。敵は格子を叩いているのではなかった。
さらに身体を沈め、触角を水底の石材へ触れさせる。今度は、はっきりと振動が伝わった。
ゴッ。
水門のさらに下。格子を支える基礎の奥から。
デカポダは勢いよく水面へ浮上した。
「下だ!」
「敵の位置か!」
「違う!」
水面を叩き、濁った飛沫を上げる。
「敵は門を通らない!」
防衛塔の兵士たちは、意味を理解できなかった。敵は水門を破り、王都内へ侵入しようとしているのではないのか。ならば、なぜ格子を攻撃しない。
答えを求める間にも、水底から新たな泥が噴き上がった。格子の向こうで、茶色い泥が水底から噴き上がる。濁りは外へ向かう水流に押されながらも、次々と湧き出し、格子の先を覆い隠していった。泥の中には細かな石片が混じっている。
ゴッ。
再び、水底から振動が伝う。
ゴッ。
敵は水門を通り抜けようとしていない。
澱み、濁りきった水門の先で、何かを始めていた。
タイトルは決まっているものもあれば、書き上げてから決めるものもあります。
決まっていると最初からタイトルに沿ってかけるし、先に書き上げると「おお、これいいじゃん」っていうタイトルが見つかったりします。
でも正直、タイトルは直感で決めるというか、割と適当です。




