第六十一話:狩場
その巨体は突如として顕れた。
地鳴りとともに、水気を含んだ何かが弾け飛ぶ不快な音が響く。土煙が高く舞い上がり、その隙間から飛び散った血飛沫が荒野を赤く濡らした。
「風術!」
班員の一人が咄嗟に術を放った。
巻き起こった風が土煙を押し流していく。うっすらと晴れ始めた視界の先で、最初に見えたのは縦に並ぶ二本の巨大な角だった。
次いで、その下から霞の浮かぶ天空を思わせる薄青の甲が姿を現す。分厚い外殻には無数の傷が刻まれ、そのどれもが長い年月を経て甲そのものと一体になっていた。
”ツノ持ち”。
それも、確実に幾度もの戦場を生き抜いてきた歴戦個体。
薄青の”ツノ持ち”は、哨戒班のただ中に着地していた。その足元には、つい先ほどまで班員だったものがある。辛うじて原形を留めているのは、四肢と頭部だけ。胴は落下の衝撃で地面ごと押し潰され、肉片となって周囲へ飛び散っていた。
誰も声を発することができない。悲鳴すら上がらない静寂の中、薄青の”ツノ持ち”が身を屈めた。大きな手で残された頭部を鷲掴みにし、顔の高さまで持ち上げる。
次の瞬間、硬い指先が片方の眼窩へ突き入れられた。湿った音とともに眼球が抉り出され、無造作に握り潰される。薄青の”ツノ持ち”は興味を失ったように頭部を放り捨てた。
地面を二度、三度と跳ねたそれが、ナリヤの足元近くで止まる。
何のための行為だったのか。
ただの残虐性によるものか。それとも、別の意味があるのか。ナリヤには判断できなかった。
晴れゆく土煙を待っていたかのように、薄青の”ツノ持ち”はゆっくりと周囲を見渡し始める。
一人ずつ、見定めるように、残った班員たちを見る。
ダーバルを捉えたとき、その動きがわずかに止まった。同じく青い甲を持つ異形の姿を訝しんだのかもしれない。
やがて、ミラリを見る。そして、その隣にいるナリヤを見る。しかし、それでも周囲を見渡すことをやめなかった。
その顔がカランへ向く。視線が重なった。
本来、無数の個眼が集まった複眼を持つ相手と、視線が合うなどあり得ない。それでもカランは、確かに自分を見られていると感じた。
薄青の”ツノ持ち”の顔が止まる。ほんの一瞬だった。何をもってそう感じたのか、カラン自身にも分からない。ただ、その複眼から発せられた殺意だけは、疑いようもなく臙脂色の瞳へ向けられていた。
「……チッ」
カランは思わず小さく舌打ちした。
ドドッッッッ!!
大地を蹴る轟音が響く。
聞こえたときには、すでに遅い。薄青の巨体はほかの誰にも目を向けず、一直線にカランへ迫っていた。
低木も、岩も、間にいた班員さえも眼中にない。必殺の角が、瞬く間にカランの視界を埋め尽くしていく。
だが、カランも棒立ちで待っていたわけではない。
薄青の”ツノ持ち”が踏み込むより先に、術は放っている。周囲の空気へ干渉し、燃焼に必要な条件も整えた。あとは着火し、膨張した気体もろとも標的を焼き払うだけだった。
それなのに、術の完成が遅い。——違う。術が遅いのではない。すでに効果は現れ始めている。ただ、薄青の”ツノ持ち”が、それを上回る速度で迫っているのだ。
——もらった。
言葉を交わしたわけでもないのに、そう告げられた気がした。
その瞬間、世界が引き延ばされる。カランの知覚だけが加速し、目前まで迫った角がひどく緩慢に見えた。
初めて味わう感覚ではない。昔は何度も経験した。いつからか感じることはなくなっていたが、死が目前まで迫ったときに世界が見せるこの時間を、カランの脳は今も覚えている。
この瞬間に思考を誤れば、おそらく即死する。なぜ「おそらく」なのかといえば、カランはいまだ一度も、その思考を誤ったことがないからだ。
どこで受ければ、損傷を最小限に抑えられる。どちらへ身体を逃がせば、角に急所を貫かれずに済む。そのうえで、いかに有効な反撃を加えるか。
あるいは、逃げ切るか。
カランの思考が、残された選択肢を瞬く間に切り分けていく。
しかし結果からいえば、その思考に意味はなかった。カランが判断を誤ったわけではない。そもそも、判断を下す必要がなくなったのだ。
地を蹴る音は、一つではなかった。あまりにも寸分違わず響いたため、二つの音が一つに重なって聞こえただけだった。
薄青の”ツノ持ち”が大地を蹴るのと同時に、深青の巨躯もまた地を蹴っていた。
「ぬぅおおおおお!!」
横合いから飛び込んだダーバルが、カランへ迫る薄青の巨体へ正面から組みついた。
二つの怪物が、カランの目前で激突する。青い甲殻同士がぶつかり合う轟音。衝撃に耐えきれず砕け散る大地。
そして、一瞬遅れて完成したカランの術が炸裂した。膨れ上がった爆炎が、衝突した二つの巨躯をまとめて呑み込んだ。
しかし、カランはすぐに新たな術を構築し始めた。遅れて周囲で班員たちの術を練る気配を感じる。
爆炎の中央から、二つの影が現れた。
深青の甲にも、薄青の甲にも、黒い煤がこびりついている。しかし、それだけだった。
甲は割れていない。肉の焼ける臭いもしない。
カランの術は間違いなく直撃した。そのうえで耐えられたのだ。だが、カランに動揺はない。たかが数瞬の間に立ち上げた術。それで致命傷を負わせられるほど、”ツノ持ち”は柔ではない。
「焼きエビになっちまう」
ダーバルの防御力も今さら語るまでもない。深青の巨躯は健在だった。そして、敵を粉砕せんと、その巨大な鋏を大きく開く。
しかし、薄青の”ツノ持ち”は、すぐに数歩分の距離をとった。
巨躯の影に隠れたカランへ回り込もうと左右へ跳ぶが、それはダーバルが許さない。
「おいカラン。お前、こいつらにも人気なんだな」
「油断するな」
カランはダーバルの軽口には付き合わなかった。
本来、”縦ツノ”は、最も強力な存在を認識した瞬間、真っ先に突撃する気質が強い。”ツノ持ち”に術士一人一人の力量を見分けられるとは思えない。
いの一番に狙うとしたら、まず間違いなく、この巨躯を誇るダーバルだろう。明らかに威容が段違いだ。
しかし、それでもこの薄青の”ツノ持ち”はカランへ顔を向けるなり、一直線に突撃してきた。最初に中央へ跳んできたのも、おそらくは哨戒班で最も安全な位置を狙ったのだろう。術士の編成は火力役が最も安全な位置につくことが基本だ。歴戦個体ならばそれを認知していてもおかしくはない。
キャンベラでの情報が共有されている。そうでなければ、現時点でこの個体がこうもカランばかりを標的とする理由がない。
そのときだった。
「”ツノ持ち”!」
班員が叫び、術を放った。薄青の個体にではない。
その”ツノ持ち”は根本から前方へ曲がる角を持っていた。先端は二又に分かれている。甲は黒いが背は燃える炎のような赤だ。
「まだいるぞ!」
さらに別の班員が声を上げる。
そこには新たに五本の角を有する黄白色の甲を持つ”ツノ持ち”がいた。
「”縦ツノ”に”横ツノ”が一緒に……それに、あの五本ツノは?」
「”縦ツノ”です。しかし、確実に種族が違う」
新たに現れた二体が、薄青の”ツノ持ち”とは異なる形態を持つことは一目瞭然だった。その二体は荒野への逃げ道を塞ぐように左右へ展開した。
薄青の”ツノ持ち”をカランとダーバルに任せ、ミラリは残った班員たちと周囲の退路を見渡した。
「森は……っ!」
逃げ道を求め後方を確認した班員は息を呑んだ。
仄暗い森の奥に揺れる影と、それを吊るす糸が目に入ったからだ。
——森へ戻るくらいなら”ツノ持ち”三体を突破する方がまだ容易いか。そう判断した直後、ミラリは考えを改めた。
低木の上に、節くれ立った尾がゆっくりと持ち上がっていたからだ。その先端には、黒く濡れたように光る毒針があった。
「毒尾……!!」
——ならば火術とは相性が悪いが川を下るか。しかし、その選択肢も捨てざるを得なくなった。
川の揺れる水面にいくつもの気泡が浮かんでいる。その下には黒い影。一つではない。流れに逆らうように、無数の泡が岸へ近づいてくる。
「囲まれた、か」
かつてなく険しい目つきでミラリは言葉をこぼした。
やはり、糸女は見逃したのではなかった。
森から追い出し、この場所へ誘い込んだのだ。
この場所こそが、狩場。




