第五十七話:仄暗い森の奥から
陽の光は空の頂から、分け隔てなく地上へ降り注いでいた。
森を形作る樹木は大きく枝葉を広げ、その恩恵を余すところなく享受している。隣り合う木々よりも上へ、より高く。わずかでも多くの光を得ようと、幹を伸ばし、枝を広げ、互いの空を奪い合う。
その競争に敗れた木は、ほどなく成長を止める。幹は痩せ、枝葉は落ち、やがて立ったまま朽ち果てる。地に倒れた骸は土へと還り、勝者たちがさらに大きく育つための糧となった。
そうして長い時を刻んだ森は、異様なまでの静けさに包まれる。
空を覆い尽くした枝葉は、一筋の光さえ取りこぼさない。木漏れ日の消えた森では新たな芽が育たず、草花も根づかない。寿命を迎えた大樹が腐り落ちた場所だけが、閉ざされた天蓋にぽっかりと小さな口を開けている。
そこへ光が差し込めば、眠っていた種が一斉に芽吹く。互いを押しのけるように茎を伸ばし、葉を広げ、頭上に開いた小さな空を奪い合う。やがて、その中の一本だけが周囲を呑み込むほどに育ち、開いていた口を塞いでしまう。
そして森は、再び闇に包まれる。
光がなければ草花は育たない。草花がなければ虫は集まらない。虫がいなければ、それを餌とする鳥や獣も寄りつかない。
樹皮を覆う苔すらまばらなその場所には、誰も求めるものがなかった。ゆえに争いも起こらない。聞こえるのは、ときおり枝葉を揺らす風と、長い年月に耐えかねた木が軋む音ばかり。
本来ならば、そうであるはずだった。
森の奥で、何かが弾けた。
湿った大気を震わせた音が、幾重にも並ぶ木々の間を駆け抜けていく。少し遅れて枝の折れる音が響き、梢に溜まっていた雫が雨のように降り注いだ。
それが静まるよりも早く、今度は別の方角から甲高い音が上がった。
鉄を擦り合わせたようにも、何かが短く悲鳴を上げたようにも聞こえた。
ほどなく、森は再び静寂を取り戻す。
だが、それも束の間のことだった。
仄暗い森の奥では、先ほどから同じことが繰り返されていた。
「今ので何度目だ?」
一人の術士が音の聞こえた方を睨んだ。その先はただ、仄暗い森がどこまでも続いていた。
「数えてない、それより足を動かして。隊列は絶対維持」
「「了解」」
ミラリの指示に、彼女の部下たちは短い返事を返した。
「二十です。前方で二回、右方で四回、左方で六回、後方で八回」
カランが平然と答えた。術士たちは息を呑むがミラリは動じない。
「それで?」
カランがただ数えていただけではない。そう確信した問いだった。
「規則性があります。遊んでいますね」
「……野郎ぉ」
カランの返事に術士の一人が歯噛みする。
「いや、この場合、尼じゃないのか?」
後ろからドスドスと足音を立てて続くダーバルは呑気にそんなことを言った。確かに、今の状況なら野郎は適切ではなかったかもしれない。
「言ってる場合か?」
「はい、口閉じる。カランくん続きは?」
「はい。次は——」
カランが言葉を繋ぐ前に足音が一つ消えた。
「なんだ?」
ダーバルは上を見上げた。
人の脚らしきものが、枝葉の奥へ吸い込まれていくのが見えた。そして再び前を向くと。
「おい、一人いないぞ」
「何ですって?」
ミラリは振り向いた。確かに一人減っている。
「上、です」
カランが指先を上へ向けると同時に術を放った。
しかし、普段扱う術よりも遥かに規模は小さい。この古い森の樹木は多分に水分を含んでいる。しかし、それと同時に油分も蓄えている。加減なしに火を放てば、森全てに延焼する可能性もある。
「……逃した」
樹上から、外套の切布だけが舞い落ちてくる。
これで三人目。
すでにミラリが率いる哨戒班からは、三名が忽然と姿を消している。
「ちょっとまずいね」
ミラリはちらりと隊の中央へ視線を送った。
そこには他より一回り背の低い術士が目深く外套を被っている。
「迎撃しましょう」
「この状況でか!?」
カランの提言に、術士の一人が声を上げた。驚きの声色でこそあったが、声量は小さかった。さすがに教育が行き届いている。
「そうだね」
ミラリはカランの提言に同意した。
「このままじゃ、森は抜けられない。土術用意」
ミラリが指示を出すと、阿吽の呼吸で術士たちは動き出した。先ほどカランの提言に驚いた術士さえも、全く無駄なく術の発動を用意する。
この哨戒班に選ばれたのは皆精鋭揃いだ。戦闘に臆することも、長の指示を疑うこともない。
「防御三番。迎撃五番」
「「了解」」
ミラリが短く告げると、班員それぞれが術を発動した。
「おお、ケルナムみたいだな」
発動された土術は、ボコボコと音をたて、焦げ茶色の地面を隆起させ、瞬く間に班員全員を包み込んだ。ところどころには視野を確保する目出し穴が設けられている。その半球状の土塊はデカポダの住居であるケルナムに似ていた。
「え?オレは?」
ただし、そんなデカポダの住居のような形をしているにも関わらず、当のデカポダたるダーバルだけは術の外にいた。
「仕事だ」
土塊の中からカランのくぐもった声が響いた。
「ええ……わかったよ、お?」
ダーバルが返事をするや否や、その深青の巨体が浮いた。
「おお?」
が、そのままふわりと着地した。
「なんだ?」
ダーバルは黒い複眼で自分の身体を見下ろした。
「おおお!」
再びダーバルが宙に浮いた。今度は先ほどより高く。
「なんか楽しいな」
しかし、どこかで幹が軋む音が響き、再び地面に着地した。
ダーバルの複眼には、樹上から伸びる無数の細糸が、光の筋となって映っていた。
「うーん。糸か……」
デカポダは種族的な特性として優れた視力を持つ。人類には見分けられない細かな色や光の変化を捉えることができるのだ。
「ダーバル」
土塊の中からカランが名を呼んだ。
「なんだ?」
「後ろに十歩分跳べ。強くだ」
「お?わかった」
ダーバルが身をかがめた。
それだけで絡まっているであろう糸がギリギリと青い甲殻を軋ませる。
「よっ!!」
ドッッゴオオォォォ!!!
ダーバルが踏み込んだ大地は捲れ上がり、木の根が弾け飛んだ。凄まじい量の土が、術で形成された土塊の上に降り注ぐ。
「後ろに跳ばせたのは間違いだったんじゃないの?」
「……まず先に横を向かせるべきでした」
目出し穴も塞がれ完全に真っ暗になった土塊の中でそんな会話がなされていた。
「うぁ!?」
「ぐっ」
「おわぁぁ」
「んな!」
土塊の外には次々に地面へ何かが落下する音と共に、短い悲鳴がこだました。
「おお、さすがカラン」
ドッッゴ!
再びダーバルが地を蹴った。続いて湿った葉が激しく飛び散る音と、幹がへし折れる音が続く。
さらにその後には、葉ではない何かが飛び散る音と、幹ではない何かがへし折れる音が断続的に響いた。それと共に、女性のものらしき悲鳴も聞こえてくる。
「助けなくていいか?」
ダーバルを心配する術士相手にカランは平然と答えた。
「大丈夫でしょう」
「暗闇の中で聴くこの音は恐怖体験だね」
哨戒班の面々は音が止むまで、土の匂いが満ちた暗闇の中で待ち続けた。
「もういいぞ。たぶん」
少しして、ダーバルが声を上げた。
「たぶんかよ……」
一人の術士が呆れの声を上げた。
「三番部分解除。警戒は忘れないでね」
「了解」
返事をすると、ボロボロと土塊は形を崩し始め、人が腰をかがめれば通れるほどの穴ができた。
「うっ……」
そして急に立ち込めた臭いに、外套を目深に被った術士が顔を背けた。
「俺が確認します」
「よろしく」
カランが土塊の外に出ると、仄暗い森は惨憺たる有様だった。
大きく抉られた幹には原型を留めていない物体がへばりついている。地面には外皮や節、髪らしきもの、硬質化した糸などが飛び散っていた。地面が吸いきれなくなった体液が、黒い水たまりを作っていた。赤くはない。
「オレの仕事多くない?」
ダーバルは複数本ある副腕で煩わしそうに身体に巻き付いた糸を引っ張っている。ちなみにそこを引っ張っても糸は解けない。
しかしカランは、無惨な現場にも、ある意味無惨なダーバルにも気を向けることなく、周囲の確認に徹した。
「ルナリ」
「なにー?」
カランが呼ぶと、土塊の中からピョコリと両櫛状の触覚が覗いた。
「敵は?」
「だいじょーぶ。たぶん」
「お前もか」
「へーきへーき。遠くから見てるだけ」
「数は」
「いっぱい。近づいてはこないけど」
ルナリはそれだけ言うと、土塊から這い出し、伸びをした。
「あ、ダーバル。そこ引っ張ったら触角取れるよ?」
「え」
ダーバルは無理に糸をちぎろうとしていた手を止めた。
「ミラリ先輩。確認終わりました」
「はいよー。三番解除ね。警戒体制は維持」
土塊は崩れ地に返った。
「移動しましょう」
「うーん。そうだね」
即座に移動することを決めた。
「え?」
外套を目深に被った術士が小さな困惑の声を上げた。
「奴らはしつこい性格だからね。もっと数を揃えてこられたら、この場じゃ迎撃しきれない。一旦川辺まで戻る」
その判断は間違っていないのだろう。しかし、同時に姿を消した三人を見捨てるということでもある。
外套を目深に被った術士は何かを言いかけ、口を閉ざした。
ほどなく哨戒班は隊列を組み直し、来た道を引き返し始める。
その術士は一度だけ森の奥を振り返った。そこには人影も、獣の姿もない。ただ光の届かない木々の隙間が、どこまでも続いている。
一行の姿が仄暗い木々の向こうへ消えたあとも、森には惨憺たる光景だけが残されていた。
誰も追ってはこなかった。それが何よりも、不気味だった。
皆さんは、「仄暗い水の底から」という作品をご存知でしょうか?ちなみに私は「仄暗い火口の中から」なら知っています。




