幕間:角立つ軍議・参
青き森を北へ抜けた山間には、とある高原がある。
山々の間から突き出すように広がったその高原は、西の淵で唐突に途切れていた。切り立った岩壁の下には巨大な盆地状の谷が口を開け、遥か眼下まで濃い森が広がっている。
谷底を縫う細い川は日の光を受けて白く輝き、その両側には幾重もの尾根が横たわっていた。遠くなるほど緑は青みを増し、最後には空との境すら曖昧になる。
高原を吹き抜ける風が、谷底から湿った土と木々の匂いを運んでくる。
その雄大な景色を見下ろす岩棚に、場違いなほど多くの異形が集まっていた。
獣皮の幕舎はない。
巨大な角を持つ者、長い尾を掲げる者、殻に包まれた者。そのすべてを収められる幕舎など、初めから用意できるはずもなかった。
岩棚の南側には、ガルンの民が陣取っている。
ダイナスの縦へ伸びる角と、ルカニダの左右へ広がる角。人類から等しく鎧人と呼ばれる者たちも、互いとの間には数歩分の空間を空けていた。
谷を望む西側には、乾いた外殻を持つスコルヴァがいる。
人類からは毒尾、尻尾持ちと呼ばれる者たちの背からは長い尾が持ち上がっている。その先端にある毒針は風に揺れることもなく、他の異形に向けられていた。
東側を占めるのはデカポダだった。
厚い甲殻に覆われた身体は、動くたびに硬いもの同士が擦れる音を立てる。頭部から突き出した額角はダイナスとは比べるべくもない。しかし、左右の鋏は劣らぬ大きさを誇る。
どの種族も、隣り合う者との距離を測っている。
敵へ向けるものと変わらぬ警戒を、同じ場所へ集まった者たちへ向けていた。
「ネルヴァどもはまだか」
三本角のダイナスが苛立たしげに言い、地面を踏みつけた。その足はいとも容易く地面をえぐった。
風が岩棚を通り抜ける。
返事はなかった。
「呼びつけておきながら、姿も見せぬとは——」
「先ほどから、ここにおります」
女の声が頭上から降ってきた。
一斉に角が、鋏が、針が持ち上がる。
岩棚の北側に立つ、葉の少ない木々。その枝と枝の間には、いつの間にか幾筋もの白い糸が張られていた。糸の上には無数の影がある。
一つの影が天地を逆さにしたまま降りてくる。上半身だけを見れば、ただ白いだけの若い女だった。長い髪が風に揺れ、細い両腕を腹の前で重ねている。
しかし、その腰から下に人の脚はない。丸みを帯びた巨大な節腹と、そこから伸びる八本の脚。その内の手前の二本で脚を組み、残る細く長い六本の脚先は白糸を掴んで音もなくその場に現れた。
ネルヴァ。人類から糸女と呼ばれる峡谷の民である。
「白蜘蛛……いつからいた」
ダイナスが尋ねる。
「皆様がお集まりになるより前から」
白蜘蛛と呼ばれた女は微笑んだ。
「どなたも上をご覧になりませんでしたので」
スコルヴァの尾が苛立たしげにうねり、デカポダの鋏が低い音を鳴らし、ダイナスとルカニダのツノが、わずかに持ち上がった。
軍議はまだ始まってもいない。それでも、その場に集まった者たちの間には、すでに無数の角が立っていた。
「揃ったなら始めるぞ」
最も長く伸びる角を備えたダイナスが言った。
「ああ?なんでテメェが仕切ってる?ちっとばかし図体がデケェからって調子こいてんじゃねぇぞ?」
先頭に立つスコルヴァが荒々しい口調で文句を言いながら、先端が黒く染まった尾を岩に叩きつけた。岩は砕け散り、砂埃が舞う。
「くくっ、見苦しいな黒蠍。弱小種族はそうやって示威をせねば矜持も保てん」
「ああ゛?」
スコルヴァをそうなじるのは、濁った大河のような色彩の殻をもつデカポダだった。そのずんぐりとした体躯はダイナスにも劣らない。
「弱いから自らの地を守れぬ」
スコルヴァは群れで放浪をする種族だ。定住する土地を持たない。
「はっ!カス人間ごときに媚びる種族に言われてもな」
対してデカポダは定住する土地を持つ。そして、海岸沿いのデカポダの多くは人と手を取り合っている。
「カリデアごときと我らを一緒くたに扱うな。アスタキアは人の手を借りぬ。仮に手を差し出してこようものなら引き裂いて喰ってくれる」
しかし、この場に集ったデカポダは一様に河川に住まう種族だった。特にアスタキア種は大河の周辺のみを棲家にし、人類とも長く争ってきた。
「知らねぇ、殻は殻だ」
しかし、スコルヴァからすると、同じデカポダだった。
「能無しが……」
「お前は脳あるってか?その頭の殻カチ割ればわかるか?」
「やはり愚かだな。邪魔なだけだ」
そのデカポダは、能と脳を履き違えるスコルヴァに侮蔑を向ける。
「おーう!喧嘩なら買うぜ?」
「……」
風が草地を薙ぐ音だけが響いた。
そして、鋏と尾が動いたのは同時だった。
「ここで断ってくれるわッッ!!」
「ぶっ殺す!」
両者の距離は一瞬にして縮まり、その互いの必殺の一撃が交差——しなかった。
「むぅ!!?」
「なぁっ!!」
二体の異形は互いを目前にしながらも、動けずにいた。
「あの、お二人とも、落ち着いてくださいな?」
その仕業は白蜘蛛のものだった。
「なんの、これしき…!」
「な、なんだぁ??」
それは不可視の拘束だった。二体はみじろぎするが、黒い尾も泥色の鋏も微動だにしない。
「静かにしなさいと言っているのです」
白蜘蛛が開いていた片手を閉じた。
二体の身体の周囲で、陽光が細く瞬いた。肉体へ食い込んで初めて、それが幾重にも張られた白糸だとわかる。ネルヴァは他の種族が集まるより早く、岩棚一帯へ糸を巡らせていたのだ。
「ぐっ!?」
「かはっ!」
たったそれだけの動作で、二体は強引に首を上げさせられた。ミシミシと音を響かせながら締め上げていく。
「このまま私が腕を引けば、あなた方の首を刎ねられます。おとなしくできますね?」
二体は答えない。
「……あら、そう」
白蜘蛛は興味を失ったように、そのまま腕を引こうとした。
「惣領」
その前に、もう一体の影が落ちてきた。黒い影は音もなく着地する。
「なぁに?」
「首を締め上げたら返事もできない」
「…………あら」
白蜘蛛は手を開いた。
「……惣領」
黒いネルヴァの声には呆れが混じっていた。
「ぐぅ、く、くそ」
「ぶえっ、おえぇえ…」
両種族とも、この程度で命を落とすほど脆弱ではない。しかし、負けを悟った泥色のデカポダは矜持を傷つけられ、振り上げていた鋏を地へ下ろした。
黒蠍と呼ばれたスコルヴァは口部に収められた鋏角を剥き出しにし、吐瀉物を撒き散らした。
「はしたない……」
そんな黒蠍の様子を見てネルヴァの二体は汚物を見るように目を細めた。ネルヴァもまた、口部に鋏角を備える種族だ。しかし、無闇に見せびらかすことをふしだらとする風習をもつ。
「いいから始めるぞ」
今度は、ひときわ長く波打つ一対の両角を誇るルカニダが言った。
「我々の手順はナールムと同じだ。厚きを砕き、薄きを断つ」
ガルンの軍勢はすでに都市攻めの手順を自分たちで決めていた。
「各々好きにしろ。邪魔をするなら諸共潰す。ゆめゆめ忘れるな」
ガルンの主張は単純だった。
他の種族の手は借りない。だから、お前達も勝手にしろ。だが、横槍は許さない。
「なら逃げ出した人間はあたいらがもらうぜ」
黒蠍は口元を粗雑に拭いながら言った。
「水に浸かったものは、死骸も含めて我らのものだ」
泥色のデカポダがそう宣言する。
「あら、森へ入った者は、すでに私どものものですが?」
白蜘蛛はあけすけに言った。
「抜け駆けは許さんぞ」
ダイナスから抗議が上がった。
「いえ、自ら糸に掛かりに来たモノだけですから構いませんでしょう?」
「……なら構わん」
この場に集まった者たちにも、ただ一つだけ共通する方針があった。目撃者を生かして帰さないことだ。
「ああ、それよりも人間の殻に援軍が向かっています」
「援軍?北の都市からか?」
「ええ、そう、それです。都市。その北の都市?から援軍が出ました」
「やるか?」
黒蠍は鋏角を剥き出しにして醜い笑みを浮かべた。
「叩くなら完全に叩かねば面倒だろう。どうせ都市へ入るのだ。まとめて潰したほうが早い」
「おー確かに」
ルカニダの将がそう告げると、黒蠍は簡単に納得した。
「あの、人間の援軍はどうでもよくてですね?それに加えてサトゥルナとデカポダの一団が向かっておりまして」
白蜘蛛が顔の横で手を合わせて首を傾ける。長い髪がふわりと揺れた。相変わらず樹上から垂らした糸に掴まり、天地を逆さまにしたままだ。
「デカポダだと?」
泥色のデカポダが苛立たしげに鋏を打ち鳴らした。
「またカリデアか」
「ブラキウラも混じっておりました」
「ブラキウラまでもか。デカポダの面汚しめ、我らが藻屑に変えてくれる。他の者は手を出すな」
ブラキウラには強力な戦士階級も少なくない。泥色のデカポダの後ろに控える色とりどりのデカポダたちも彼に合わせて戦意を昂らせるように鋏を打ち鳴らした。
「サトゥルナはどうする?」
「斬刈どもに任せれば良いだろう」
「確かに、あやつらなら喜んで喰うだろう」
「貧弱な種族だ。捨ておけ」
「それで良かろう」
サトゥルナの対応は、ひどく雑に決まった。
「そも斬刈どもはどこにいる?」
「知らん」
「使者として送ったクルクリオは?」
「帰ってきておらんな」
「……喰われたか」
場に諦めの空気が漂った。
「ああ、それとですね?」
白蜘蛛の話は終わりではなかった。
「まだあるのか」
「はい、えっと、都市、でしたか。そこから何体かの人間が外に出ました」
「斥候か」
「ええ、おそらく。術使いばかりのようですね。青く大きなデカポダも一緒でした」
「なに?」
白蜘蛛の情報に反応したのはデカポダではなく、薄青い甲を持つダイナスの将だった。
「あとは……ああ、そうそう、サトゥルナもいましたね」
「……では援軍との連絡ではないのか?」
人間の一団に、デカポダとサトゥルナが加わる。円滑に援軍を受け入れるため、連絡要員を出したと思うのが普通だろう。
「ええ、まあ、私も最初はそう思ったのですがね?」
白蜘蛛は宙を左右に揺れながら続ける。
「向かった方角が北、といえば北なのですが、森の方なんですよねえ」
「詳しく聞かせろ」
薄青の将は白蜘蛛に問うた。
「あれ、興味ありますか?」
「その青いデカポダ、かの要塞で確認された戦士だ。ルカニダの戦士を何体か屠っている」
「ほう?」
泥色のデカポダが感心の声を上げた。
「何か知っているのか」
「いや、知らんな。人間に与するような者に負けたルカニダが気になっただけだ」
「侮蔑か?」
ルカニダの将が一歩踏み出した。その背後に控えるルカニダも一斉に構える。デカポダの一団も警戒するように甲殻を擦らせる。
「あの、喧嘩はやめてくださいね?」
陽光に照らされ銀糸が光った。
「……とにかく」
場が静まったのを確認し、薄青の将は再び口を開いた。
「ルカニダの戦士とも真っ向に戦える奴だ。そして、かの要塞ではそのデカポダの近くに埒外の術使いがいた。今回も行動を共にしていないとも限らん」
「埒外の術使いぃ?」
黒蠍はまたも鋏角を剥き出しにし、大あくびをしながら問うた。再びネルヴァの視線が厳しくなるが、スコルヴァたちは意に介さない。
「凄まじい火を放つ術使いだ。一撃で森を一つ焼くと思っていい」
「んなアホな」
黒蠍は肩を落とした。
「信じるかは勝手にしろ」
ガルンの軍勢としては、荒野一面を焼いた術に多種族が巻き込まれようと関係なかった。
「その術使いが外に出ているなら好機だ」
「まあ、確かに殻に……都市に篭もられるより、よほど楽に狩れるかもしれませんね」
高い壁の上から一方的に術を撃たれるよりも、森の中の方がよっぽど勝機はあるだろう。
「そうだ。ゆえにその斥候は我が狩る」
ガルンの戦士たちがざわついた。薄青の将はガルンでも特に名のあるツノだった。その個体が、わざわざ数人の斥候を狩りに出向く。それだけ埒外の術使いを危険視している証左だった。
「できるのですか?」
「愚問だな」
「そう、まあ、私どもは構いませんけど」
白蜘蛛はどこまでも興味なさそうに言った。ネルヴァは好戦的な種族ではない。自ら狩りをすることは多いが、どちらかといえば無駄な争いを嫌う。ダイナスが厄介ごとを引き受けるのなら、それでよかった。
「ああ、ところで」
「なんだ」
「さっきからあなたが言っていた要塞?ってなんですか?」
薄青の将は返す言葉に詰まった。




