第四十四話:見解と認識
「最後に——王国監察院首席監察官としての見解を述べる」
ナルギンがまとう雰囲気が、がらりと変わった。声が低くなったわけでも、姿勢を正したわけでもない。それでも、ワランは先ほどまで卓を囲んでいた旧知の友が、別の顔へ切り替わったことを悟った。
王国監察院。国王の直下に置かれ、王国の内側を監視する秘密機関である。
各省庁の不正、貴族諸侯の動向、軍部の背信。表立って裁くことのできない事柄を調べ、王国を内側から蝕む兆候を国王へ報告する。その存在を知る者すら、王宮内のごく一部に限られていた。
その頂点に立つ首席監察官こそ、ナルギンのもう一つの顔だった。
異種対策局所長は、ナルギンの表向きの肩書きである。
異形の民に関する豊富な知識と、各地に張り巡らせた独自の情報網。人懐こい笑みの裏で相手を観察し、何気ない会話から必要な情報を拾い上げる才。それらは異種対策局だけでなく、監察院においても存分に生かされていた。
「君は王国を動かすために、すべての権限を集めた」
首席監察官は、国王へ告げた。
「だが、権限を集めれば、判断も責任も君一人へ集まる。各省庁も、貴族たちも、自分で決めるより君の命令を待つようになるだろう」
「それが勅令というものではないのか」
「違う」
即答だった。
「君が得たのは、何もかも自分で決める権利じゃない。誰に何を決めさせるかを決める権利だ」
ワランは何も答えなかった。
「君一人が止まれば、王国全体が止まる。異形の民が王都へ迫る前に、君が潰れたらおしまいだ」
「では、何を任せろというのだ」
「全部さ」
ナルギンは平然と言った。
ワランが目を瞬かせる。それを見て、ナルギンはほんの少しだけ口元を緩めた。
「もちろん、最後に決めることだけは君の仕事だけどね」
「私がいると、言ったばかりです」
ここぞとばかりにヤラネは口を開いた。
「僕もいるよ。一応ね」
「一応、なのか?」
「保険は掛けておいた方がいいだろう?」
旧友らしい軽口が戻ったのは、ほんの一瞬だった。
「話を戻そうか」
ナルギンは再び首席監察官の顔へ戻った。
「すでに貴族の一部は、備蓄や門下の術士を温存しようとしている」
「どの家です」
ヤラネの声が鋭くなる。
「それは、まだ言えない」
「なぜ?」
その視線は険しい。ヤラネは王妃として、ワランにはないものを磨いてきた。温和で人当たりが良いと言われる国王に対して、この王妃はそれとは真逆の評価を受ける。冷たく静かに相手を観察し、王家に近寄る人物を見極める。
「監察院が現時点で確認している限り、王家に明確な叛意を抱いている家はない。今ここで名を挙げれば、僕の私情を挟むことになる」
ナルギンはヤラネの追及を正面から受け止めた。
「王国全体が危機に瀕していることは彼らも理解している。ただ、その王国が本当に生き残れるのかを疑い、自家だけでも残そうと考え始めている。それだけだよ」
しばし張り詰めた沈黙が続いた。
「まあ、一つ言えるとしたら、君の実家ではないから安心しておくれ」
「当たり前です」
ヤラネは顔色一つ変えずに答えた。
「ただし、王国よりも自家の存続を優先し始めた者はいる」
ナルギンの目から、再び笑みが消えた。
「彼らは裏切ったわけではない。まだね」
勅令は、良くも悪くもすでに作用し始めていた。
王国の力を一つに集めるための命令が、一方では人々から自ら判断する余地を奪いつつある。そして王国の行く末に不安を抱いた者たちは、命令に従うふりをしながら、自らが生き残るための手段を探し始めていた。
「前途多難だな」
ワランが長く息を吐いた。
「悪い話ばかりでもない」
ナルギンの声が、わずかに和らいだ。
「ミャンジンが動いた」
「援軍か」
沈みかけていたワランの目に、光が戻った。
「まあね。君もそうだったと思うけど、ほとんどの貴族がかなり早い段階でミャンジンへ伝令を走らせていた。僕もいくつか伝手を使ったしね」
「もう出立したのか?」
「それどころか、先発隊は王都の近くまで来ているらしい」
ワランとヤラネが顔を見合わせた。
この状況とあって、王家もミャンジンとの連絡は密にしている。だが、援軍の出立は王宮にもまだ届いていない情報だった。
「ミャンジンも状況は理解している。ワラネが落ちれば、明日は我が身だとね」
ナルギンは指を一本立てかけたが、それを止め卓上へ身を乗り出した。
「王都を落とせるほどの軍勢を、ワラネより規模の劣るミャンジンが単独で追い返せる道理はない。だから都市の維持に必要な兵を残して、出せる限界まで動員してもらった」
「それほどの兵を出したのか」
「ミャンジンにとっても賭けだよ。援軍が王都へ到着する前に自分たちが襲われれば、都市を守り切れないかもしれない。それでも彼らは、ここで王都を失う方が危険だと判断した」
それは単なる忠義ではない。ミャンジンは、自らが生き残るためにワラネを救おうとしている。それでも今の王国にとって、その決断がどれほど重いものであるかは疑いようがなかった。
「それと、もう一つ。援軍はミャンジン軍だけじゃない」
「北部に他の有力な部隊がいたか?」
「もちろんだとも」
ナルギンは、わずかに目を細めた。
「——人類の軍隊ではないけどね」
「それは……」
ヤラネが身を固くする。
「サトゥルナが応じた。ミャンジンへ使者を送り、戦える者たちを都市軍へ合流させている。ミャンジンは、友好的な異形の民と交流することを主な目的の一つとして築かれた都市だからね。これまで重ねてきた交流が功を奏した」
「サトゥルナが……」
ワランの口から、驚きとともにその名がこぼれた。
サトゥルナが人類の隣人として歩んできた歴史は長い。オルスタやデカポダは利害によっては武力的に対立することがあるが、サトゥルナは利害が反することがあっても、人類とは常に話し合いで解決してきた。相手から手出しをしないのであれば、自らも矛を向けない。それがサトゥルナという種族だった。それが、自ら戦いに赴こうとしている。
「それだけじゃない。海路沿いの主だったデカポダも、参戦を表明している」
「彼らが、王都のために兵を出したのですか」
「王都のためじゃない」
ナルギンは首を横に振りながら否定した。
「さっきも言っただろう?彼らも、この異変が自分たちに大きく関わる問題だと考えている。王都を救うためじゃない。自分たちが生き残るために、人類と並んで戦う道を選んだんだ」
それは単なる同盟でもなければ、従属などでも決してない。同じ危機を前にした者たちが、それぞれの事情と目的を抱えたまま、一時的に進む先を重ねただけのことだった。
「数だけなら、戦況を覆せるほどではない。けれど、彼らには彼らにしか持ち得ない知恵と経験がある」
ナルギンは、自らの目元を指で示した。
「今の僕たちに必要なのは、槍や弓だけじゃない。敵を敵と見分けられる目だよ」
もしかすると鎧人の角から属する勢力を見分けられるかもしれない。毒尾の痕跡から群れの規模を読むこともできるだろう。八脚の残した糸からその意図を推し量れる可能性もある。
人類が一様に異形としか認識できないものを、彼らはそれぞれに異なる種族、異なる勢力として見分けることができる。それは数百、数千の兵にも代え難い力だった。
「援軍は来る」
ナルギンは断言した。
「でも、援軍が間に合うことを前提に王都を守ってはいけない」
「では、何を前提にする」
「ワラネだけで持ちこたえること」
ナルギンの答えに迷いはなかった。
「そして彼らが到着したとき、この王都が、人間以外の味方を迎え入れられる状態にあることだ」
その言葉に、ワランは沈黙した。
友好的な異形の民がいることを知識として理解するのと、武装した彼らを王都の内側へ迎えることは違う。
異形の軍勢が迫っているという噂が広がる中、サトゥルナやデカポダだけは味方だと説明して、市民が受け入れられるのか。貴族や軍人たちは、彼らと肩を並べて戦えるのか。
それもまた、国王が下さなければならない決断だった。
「彼らは、もちろん味方だ」
ナルギンそう付け加えた。
「でも、それぞれに異なる立場があり、異なる目的がある」
人類も、サトゥルナも、デカポダも、同じ旗の下に集ったわけではない。
「今、彼らの間で同じなのは——相対する敵だけだ」
首席監察官は静かに告げた。
「それを、忘れない方がいい」




