第四十三話 所感と私見
「では最初に、王国の一貴族——異種対策局所長としての所感を述べよう」
ナルギンは空になった茶器を再び卓の上へ置いた。底が卓面に触れ、こつりと乾いた音を立てる。
「僕には、敵が一つの軍勢には見えない」
「叔母上も、似たようなことを言っていたな」
ワランの脳裏には、今になっても頭が上がらないアリンタの姿が映っていた。
「うん。それもある」
ナルギンは頷き、顔の横に一本の指を立てた。いつもの自慢げに語る時の姿勢だった。
「鎧人というのは、一枚岩の種族じゃない。数多の勢力が、僕らの知らない荒野で争っている。僕らには想像もつかないほど、数多くの勢力がね」
立てた指を西へ向ける。そこには地図などなかったが、三人の視線は自然と王都の外側へ向けられた。
「人類がこれまで敵対してきたのは、彼らの領域の端に位置する、いくつかの部族でしかない」
「そんな、まさか……」
ヤラネがわずかに眉を寄せた。
人類が恐れてきた鎧人。それさえも、荒野に存在する勢力の一端にすぎない。ナルギンの言葉をそのまま受け取るならば、人類はこれまで、彼らの全容すら知らずに戦ってきたことになる。
「あくまで、異種対策局が立てている予測の一つだけどね」
ナルギンは軽い口調で断りを入れたものの、すぐに表情を引き締めた。
「でも、今回の事態を受けて、その予測もあながち間違いではないという意見が局内で増えている」
「根拠は?」
ワランに問われ、ナルギンは立てた指を顔の横に戻す。
「本来なら、鎧人同士でも土地や資源を奪い合っていたはずなんだ。“縦ツノ”や“横ツノ”なんていう僕らの括りに関係なくね。ところが、その争いが何らかの理由で収まってしまった」
「何らかの理由?」
「そう」
ヤラネの問いに、ナルギンは指を立てたまま頷いた。
ヤラネはその仕草が気に食わなくて、とうとう我慢ならなくなったときにその指を掴んで横に倒したことがある。
「昨日まで敵対していた者同士が、次の日には仲よく肩を組む。そんなことは到底できないだろう? 少なくとも、何の理由もなく起きることじゃない。そこには、そうしなければならないだけの何かがあったはずなんだ」
「なるほどな……」
ワランは腕を組み、深く背もたれへ身を預けた。
「問題は、その理由がわからないことだ」
ナルギンはヤラネの視線が自分の指に向いていることに気がつき、立てていた指を下ろした。指を横に倒したのは、あくまで幼少期の話だ。
「大規模な旱害は近年観測されていない。複数の勢力が手を結ぼうとしている兆候もなかった。種族を統一してしまうような強大な“ツノ持ち”が現れたとしても、これだけの勢力を短期間でまとめるのは無理がある。さすがに限界があるよ。仮に百脚級の戦闘力を持っていたとしてもね」
「ふぅむ……」
ワランが唸る。
戦えば勝てることと、従わせられることは同じではない。力によって一時的に屈服させることはできても、それぞれに土地と歴史を持つ者たちを、一つの目的に向かって動かすのは別の問題だった。
「まあ、それを知ったところで、目の前の敵が変わるわけではないんだけど」
突然投げ出すように言われ、ヤラネの眉がさらに寄った。
「何ですか、それは」
「僕らは、僕らにできることをするしかないということさ。知らないものを考え続けても、答えは出ないからね」
ナルギンは肩をすくめたが、それで話を終えようとはしなかった。
「ただし、異形の民からすれば、鎧人が一つの大きな勢力にまとまったのは空前絶後の大事件のはずだ。他の種族に何の異変も起きていないと考える方が、むしろおかしい」
「確かにな」
「キャンベラ近郊では、毒尾の大きな群れが行軍中の第一戦団と王国軍を襲撃している。ナールムが陥落した際には、八脚らしき存在も報告された。デカポダやサトゥルナも協調的な部族が多いけど、全部がそうじゃない。特に河川域のデカポダは、僕らに対して友好的とは言い難いからね」
海岸近くに暮らすデカポダは、航路の都合から人類との交易が盛んだった。しかし、河川域に生息する者たちは違う。生活圏が重なり、水源を奪い合う彼らは、古くから人類にとって潜在的な敵でもあった。
人類との関係だけを見ても、同じデカポダという括りの中で立場は大きく異なる。
「あまり知られていない小規模な異形の民は、もっとこの手の情報に敏感なはずだ。大きな種族の動向一つで、自分たちの存亡が決まるからね」
鎧人、毒尾、八脚などの主だった敵対種族。サトゥルナ、デカポダ、オルスタといった、人類と一定の交流を持つ種族。
そのほかにも、アウストロメリアの大地には名も知られていない数多の種族が生息している。戦闘種族ともいえる鎧人の動向は、そうした小さな種族にとって、人類以上に切実な問題であるはずだった。
「けれど、その辺りの事情に通じているオルスタからも、これといった情報は入っていない。“近ごろ荒野が騒がしい”という程度のものだった」
「オルスタでさえ、何も掴んでいなかったのか」
「少なくとも、事前にはね。彼らは広い範囲を移動するけれど、荒野のすべてを知っているわけじゃない」
ナルギンは卓上で両手を組んだ。
「間違いなく言えるのは一つだけだ。僕らの知らない荒野で、大規模な何かがあった」
それまで並べられた推測の中で、その言葉だけが揺るぎない事実であるかのように響いた。
「異種対策局所長としての所感は、このくらいかな」
「ううむ……」
ワランは腕を組んだまま考え込み、ヤラネもまた、何も口にしなかった。
答えを求めて呼んだはずが、見えていなかったものの多さを突きつけられた。それでも、何も知らないまま巨大な一軍を想定するよりはよい。少なくとも、警戒すべき相手が一つではないことはわかった。
「すべてを敵だと断定して迎え撃つべきではないと思う」
ナルギンはそう付け加えた。
「けれど、闇雲に友好的な接触を試みられる状況でもない。種族ごとの意図は、可能な限り見極める必要があるだろうね」
「わかった」
ワランが短く答えた。
それを確かめてから、ナルギンは組んでいた手を解いた。
「それじゃあ、次は君の友人としての私見だ」
そう前置きしたナルギンの声から、わずかに硬さが抜けた。
「まず言っておくけど、勅令を発したことは間違っていなかったと思うよ」
「本当に、そう思うか」
ワランの問いには、先ほどまでとは違う重さがあった。
「思ってる。むしろ、あと数日遅れていたら、勅令を発するための国すら残っていなかったかもしれない」
「冗談にもなりませんね」
「僕も冗談で言っているつもりはないよ」
ヤラネの言葉にナルギンは苦笑したが、ワランは笑わなかった。
勅令を発した以上、ワランは国王として多くの者から判断の正しさを問われるだろう。だが、旧友に対して尋ねたのは、国王としてではなかった。
あの選択は間違っていなかったのか。その答えを、ただ一人の人間として求めていた。
「君は昔から悩んでばかりいるけど、それ自体は悪いことじゃない」
ナルギンは、向かいに座るワランをまっすぐに見た。
「でも君は、選択したあともずっと悩むんだ。ほかにもっとよい答えがあったんじゃないか。ってね」
「王ならば考えるべきことだ」
「それは考えても仕方のないことだよ」
返す声は穏やかだったが、言葉は明確だった。
「選択した以上は、その選択をどう正解へ導くかを考えるべきだ。選ばなかった答えをいくら眺めても、今からそちらへ進めるわけじゃない」
「いや、そうだが。しかし……」
「昔から君は、火が熾らないと炉の前で一人きりになって考え込んでいた」
ナルギンは先ほどまでの話を思い出したように、わずかに口元を緩めた。
「僕が風を送って、ヤラネが間違いを見つけるまで、ずっとね」
ワランの視線がヤラネへ向く。ヤラネはしっかりとワランの瞳を見据えている。
「王国は炉よりもずっと大きい。君一人で火加減を見られるようなものじゃない。それくらいは、わかるだろう?」
「そう、だな……」
「私も、先ほど同じことを申し上げました」
ヤラネが間を置かずに言った。
「それなら、僕の私見は必要なかったんじゃないかい?」
「そうですね」
「そこは嘘でも必要だったと言ってくれよ」
あまりに素っ気ない返答に、ナルギンが情けない声を上げる。
「はっはっは。助かるよ、ナルギン」
ワランが久しぶりに声を上げて笑った。
それにつられてナルギンも笑みを浮かべる。ヤラネの表情も、ほんのわずかに和らいでいた。
三人がこうして笑い合うのは、いつ以来のことだろうか。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
「さて」
ナルギンは笑みを納め、空になった茶器を卓の脇へ押しやった。
旧友として語る時間は、そこで終わった。




