第三十七話:苦渋
昨日は投稿時間を間違えました。失礼しました。
その日、書記官の男は貴族院の書記室にある自席で、空白の報告書を見下ろしていた。
書記官の中性的な顔立ちは、いつも通りいかなる感情も浮かんでいない。書くべき文言はおおかた決まっていたが、それでも筆を持った手は動かずにいる。与えられた仕事を淡々とこなし、必要とあれば夜を徹してでも書類を片付けるこの書記官にしては、ひどく珍しいことだった。
ナールムからの連絡が途絶えて、すでにひと月以上も経過している。それがついに続報とも言える情報が舞い込んできた。
けれど、それは決して待ち望んでいた類の報ではなかった。
「さて…」
書記官は机の脇に置かれた三通の報告へ目を移した。
一通は沿岸監視所から。一通は運輸庁から。そして最後の一通は、ナールムから脱出した航海船に乗り合わせた術士から届けられたものだった。
書式も、筆跡も、報告者の立場も異なる。だが、記されている内容は一致していた。
「ふむ…」
ナールムの防壁は破られた。都市軍は壊滅し、市街には鎧人の大群が侵入した。港からは大小無数の船が住民を乗せて逃れた。
船団には、まばらに都市旗が掲げられていた。船で逃れてきた生存者の証言は合致している。
書記官は事実と推測を頭の中で切り分けた。”交戦中”ではない。”消息不明”でもない。”陥落した可能性が高い”と曖昧に記す段階も、すでに過ぎている。
報告書に記すべき言葉は、ただ一つしかなかった。
書記官はようやく筆先を報告書におろした。
ーーナールム陥落、と。
さらに続けて報告書を取った。王宮へ、各省庁へ、都市軍の上層部へ。知らせるべき相手は多い。
書記官は瞬く間にそれらの報告書をしたためると、改めて一枚一枚を確認していく。その作業すらも手早く済ませると、報告書をまとめて手に取り、席を立った。
表情は変わらず無感情だったが、影のように揺れた黒い長髪は内心のさざめきを表しているようだった。
ワラネの港湾では頬の痩けた商人が、海風にばさつく黒灰色の髪を抑えながら港役人と言葉を交わしていた。
「何隻だい?」
「分からんな」
港役人は、飛沫で濡れた帳面を卓上へ置いた。
「分からんじゃ話にならないだろう」
「と言われてもなぁ、向かってくるのは連絡船だけじゃないんだ」
「なんだって?」
「漁船に商船、作業船に渡し舟まで混じってる。岬の方まで出た監視船が確認してるが、先頭の船が岬を越えても後から次々に現れるそうだ」
「入港させるのか?」
「他にどうしろってんだよ」
商人は即座に今後に起こりうる状況を思案した。
港は数日も経たないうちに避難船で埋まり、北のミャンジンから来る連絡船や商船も接岸できなくなるだろう。
果たして、避難民の中に得意先や取引相手はいるだろうか。ナールムに置いてきた商品や貸付金は、もう回収できない。損失はいくらになるか。
避難民の数は計り知れない。ならば食料価格は高騰するだろう。今からでも穀物を買い付ければ損失分は挽回できるか。
「いや…」
損得勘定を始めたところで、商人はその考えを捨てた。
倉庫は一時収容所として徴発されるだろう。後から国の補償があるだろうが、安く買い叩かれる可能性は捨てきれない。そして、この状況で儲けにしがみ付けば市民から恨まれるのは目に見えている。避難民が溢れ、治安が悪化したとき、都市軍がそれを抑え切れるとも限らない。いくら銭を稼ごうが、あの世には持っていけないのだ。
「岸壁は全部開放するしかない。それでも足りないなら浅瀬に船を乗り上げさせることになるかもな」
港役人は深いため息をつき、空を見上げた。その顔には疲れが浮かんでいる。
「もし避難民が港に溢れたら、三番倉庫を使ってくれ。魚油が残ってるから、先に樽を出させる。匂うかもしれないが野晒しよりはマシだろう」
「いいのか?」
商人の提案に港役人は驚いたように商人を見た。
「こんなときだ。乗り越えるには損得抜きで協力しないとな。仲間内の商人にも声をかけよう」
「ありがたい。あんた、名前は?」
「それは後で帳面で届けさせる。今は樽を出させるのが先だ」
「お、おお」
「それじゃ、三番倉庫で作業を指示してくる」
商人はそう言い残すと、三番倉庫へ向かった。
損得勘定を捨てたわけではない。実利的数字よりも、人からの信頼の方がよほど利益になることがある。ただどんな利益も、国と商う相手がいてこそだ。商人は足を早めた。
そのワラネの港から少し離れた海上では続々と多種多様な船が集まりつつあった。
そのほとんどが甲板までいっぱいに人を乗せ、船体は重たげに沈み、波を受けるたびに大勢の身体と共にゆっくり揺れた。
乗っている人々も様々だった。幼い赤子を抱える母親。道具箱を手放さない老いた職人。包帯に巻かれた兵士。重い本を抱える学者。泥にまみれた装飾品を着けた貴族。震える手で触媒を握りしめる術士。ずっと航跡を見つめる男。そして、親とはぐれた少年少女。
誰もが日焼けと雨風の跡を肌に晒し、薄汚れ擦り切れた服をまとっていた。憔悴した顔には濃い隈が浮かび、うつろな瞳には強い不安と喪失だけが残っていた。
その中で、どこかの船の誰かが「ワラネだ」と叫んだ。
人々が一斉に船縁へ寄り、船がわずかに傾いた。船頭の怒号が飛んだが離れようとする者はいなかった。
海と空の境に、長い壁が見えた。
赤子を抱いた母親は、胸元に我が子を抱き寄せた。
あの壁の内側へ入れば、この子に温かいものを食べさせられる。今夜こそ、地面の上で雨風を避けて眠らせてやれる。
そう思った途端、張り詰めていたものが切れた。母親は声もなく涙を流した。
老いた職人は、膝に抱えた道具箱へ目を落とした。
家も工房も失った。弟子たちがどうなったのかも分からない。それでも、この中身さえあれば、まだ職人でいられる。王都ほどの街なら、老いた自分の腕にも幾らかの値はつくだろう。
包帯を巻かれた兵士は、城壁を正面から見据えていた。
安堵はなかった。
ナールムにも壁はあった。門があり、塔があり、その上には数え切れない仲間が立っていた。どれほど堅牢な壁であろうと、その向こうに守る者がいなければ、ただの石積みにすぎない。
学者は、胸に抱えた本の背を指でなぞった。
持ち出せたのは、たった三冊だった。書庫に残した何千冊もの本も、長年書きためた研究も、おそらく灰になっている。それでも三冊は残った。そこに書かれた知識までは、まだ失われていない。
泥にまみれた貴族は、遠く霞む王宮の塔を探した。
そこへ行けば、自分の名を知る者がいる。家名を告げれば、相応の扱いを受けられるはずだ。
そう考えながらも、胸の奥の心細さは消えない。領地も屋敷も従者も失った今、その家名に以前と同じ価値が残っているのか、自分にも分からない。
術士は、触媒を握る手を緩められずにいた。
船へ乗ってから一度も術を使っていない。それでも、指を開けば二度と握れなくなる気がした。瞼を閉じるたび、術を放っても止められなかった鎧人の群れが蘇った。
ずっと航跡を見つめる男は、それでも船尾から動かなかった。
あの岸壁で妻の手を離した瞬間から、自分だけがどこへ辿り着こうと、助かったことにはならなかった。男は船が引く水の跡を、その先にあったナールムを、ずっと見つめている。
親とはぐれた少年と少女は、周囲の歓声から少し遅れて船縁へ近づいた。
王都へ着けば、父と母が待っているかもしれない。別の船に乗っただけなのだと、何度もお互いに言い聞かせてきた。けれど、見渡すかぎり船ばかりだった。このすべてを捜さなければならないのだろうかと考え、二人は途方に暮れた。
海と空の境に横たわる長い壁が、少しずつ、その高さを増し、船上のあちこちから泣き声と歓声が上がっていた。祈る者がいた。王都の名を繰り返す者がいた。辿ってきた方角を振り返り、黙り込んだままの者もいた。彼らがワラネに見たものは、それぞれに違っていた。
安息、生活、治療、再会、報復。
ただ一つ、皆が同じように求めていた。
これ以上、逃げずに済む場所を。




