第十四話:出発前夜
兵舎を出た瞬間、街の空気が肌に刺さった。
文官が書簡を抱えて叫び、道沿いを兵士が走る。術士院の若い術士が身体強化を用いてなお重そうに、触媒箱を二人がかりで運んでいる。遠くからは工務省の役人だろうか、木杭と金具の数量を怒鳴っているのが聞こえてくる。
「カランくん!」
背後から声が飛ぶ。
振り返るとミラリが小走りに追いついてきた。緑髪の短い髪が揺れ、いつもの軽い笑みが口元に浮かんでいる。しかし、目元には少し疲れがあるように見える。
「家、戻るんでしょ?」
「はい」
このまま兵舎でも必要なものは揃うし、休むことはできる。
ただ、そうもいかない理由もある。
「翅付きちゃんは?」
「家にいると思いますが」
まさか一人で市場には行っていまい。
「そうじゃなくて」
「というと?」
ミラリは右手を腰に当て、ため息をついた。
「連れて行かないの?」
「連れて行きませんが」
即答した。
ミラリは少しだけ、目を細める。
「本人は納得する?」
「納得するしないの話ではありませんから」
「揉めそうな話だね」
「揉めるほど話しません」
「ひど」
ミラリは笑った。すぐにその声は少し低くなる。
「連れていく気はちょっとでもないの?」
「ありません」
カランにルナリを連れていく気は全く、これっぽっちもなかった。
「理由は?」
「その連れていく理由がないからです」
理由も同じく全く、これっぽっちもない。
「本当に?」
「何を言わせたいんですか」
カランは歩きながら答えた。
「べっつに〜?カランくんがそーゆー人だってのは知ってるし〜」
そう言う割にはミラリは半眼で不満げだ。頭の後ろで手を組みそっぽを向きながらも、歩を並べてくる。まだ何かあるのだろうか。
ルナリは戦闘員ではない。
人類と友好的な異形の民サトゥルナであり、絹織物や染色、芸術、舞踊に優れた民の一人だ。もちろん個体差はある。サトゥルナにも戦士はいるし、危険に対して無力というわけではない。
ルナリはカランと出会うまで一人で荒野を生き抜いてきたのだ。一般的なサトゥルナはおろか、サトゥルナの戦士と比べても充分に戦えると言っていい。
タルナは落ちた。ナールムは門を閉ざした。敵対異形種族の動きは同時多発的に現れている。
最後のはともかく、タルナも、ナールムも、そしてこれから向かうキャンベラ要塞も。
全ては人類の都合だ。
そんな場所へ、あの白い同居人を連れていく理由はなかった。
「心配なんだ?」
ミラリが言った。
カランは眉をひそめる。
「ただの合理的判断です」
ミラリはそっぽを向いたままだったが、どうせその口元はにやついている。
「はいはい。そういうことにしてあげる」
ミラリは軽く手を振ると、来た道を引き返した。
「じゃ、私は補給庫見てくるね。うちの子たち、余計な物まで持って行きそうだし」
この人はわざわざからかうためだけについてきたのか。
「後輩を信用していないんですか」
「信用してるから確認するの〜」
ミラリは振り返らずにそう言った。そういう信頼の形もあるのだろう。少なくとも第二連隊はそれでうまく回っている。
カランはその背を少しだけ見送った後、帰路を急いだ。
空は夕暮れに染まりかけていた。王宮の上に赤い光が差している。黒い炉の塔から細い煙が上がり、術士院の鐘が鳴る。
いつもの夕方なら、仕事を終えた者たちが家へ帰り、市場では夕食の買い物をする人々が行き交う時間だった。だが今日のワラネは違う。軍服姿の者が目立つ。荷車の土埃が濃い。銅板貨幣の音より、軍用手票を数える姿が目立つ。
戦は、まだ壁の外にある。だが戦時は、この数刻で都市の中に入っていた。
道すがらカランは何人かに声をかけられた。
「カラン様、出られるのですか」
「キャンベラへ?」
「炎の英雄がいくなら安心だ」
「どうか、どうか、我らをお救いください」
どの言葉にも、強く返事はしなかった。カランは軽く頭を下げ、足を止めずに歩いた。自宅へ戻る頃には空はすっかり暗くなっていた。
周囲の風を感じながら玄関扉の鍵穴に鍵を差し込む。鍵をひねり、ガチャリと解錠の音が聞こえるとともに、中から声がした。
「遅い」
扉を開くと、玄関には白い髪を揺らしルナリが床に座っていた。黒い複眼に桃色の偽瞳孔。両櫛状の触角がわずかに不機嫌そうに動いている。
彼女の前には、カランの外套が広げられていた。軍用の外套ではなく、以前から使っていたカランが個人的に所有している外套だ。
「昨日も遅かった。今日も遅い。市場は?」
「行けない」
もう日は暮れた。
「む」
ルナリの触角がピタリと止まる。
「約束した」
「状況が変わった」
「約束した」
「出陣命令が出た」
ルナリは黙った。
部屋の中に短い沈黙が広がる。
ひとまずカランは扉を閉じて鍵を閉めた。
「キャンベラへ行く」
「いつ」
「明朝だな」
「早い」
「そうだな」
「いつ帰る?」
「分からない」
ルナリの偽瞳孔が、ジッとカランを見る。
人類の目ではない。だが不思議と視線はわかる。
「危ない?」
「そうだな」
「カランでも?」
「危険は誰にでもある。常にな」
カランは外套を見た。小さな破れもほつれもなく、以前より装飾が増していた。糸はサトゥルナのものだろう。軽く、丈夫で、手触りが良い。
「直した」
「助かる」
「肉は?」
「今日はない」
「む」
不満げな声。
それがいつも通りすぎて、カランは少しだけ息を吐いた。
「保存食ならある」
「保存食はつまらない」
「食事に面白さを求めていない」
「求める」
ルナリは当然のように言った。
そして少し間をおいて続ける。
「カラン」
「却下だ」
「まだ何も言ってない」
「言う前から分かる」
ルナリは頬を膨らませた。人間の少女に似た仕草だが黒い複眼と揺れる触角のせいで、どこか奇妙な愛嬌がある。
「いく」
「行かない」
「いーくー」
「行かない」
「どうして」
「危険だ」
「危険はいつもある」
「だから留守番だ」
カランは荷物袋を取り出し、必要なものを詰め始めた。予備の衣服。乾燥豆と硬焼きの虫粉パン。水袋。術触媒。刃物、包帯。そして針と糸。
ルナリはその様子を黙って見ていた。
「あたしは邪魔?」
「これは人間の事情だ」
カランは迷わず答えた。ルナリの触角がピクリと震える。
少し嫌味な言い方だったか、とカランは思った。だが訂正はしない。中途半端な言い方だとルナリはすぐついてくる。
そして、それは困る。
「俺は一人のカランとして戦場に行くわけじゃない。この国の戦闘術士として人類が築いたキャンベラに行くんだ」
「うん」
ルナリは小さく頷いた。納得したようには見えなかった。
だが、それ以上は言い返してこなかった。
「食料は置いていく。好きに食べろ。水もな。何かあればバルーガの店へ行け。あの大将なら悪いようにはしない」
「カランは?」
「俺はさっき言った通り明朝出る」
「わかった。お見送り」
「寝ていろ」
「する」
「寝てろ」
「する」
ルナリは頑固だった。カランもそれ以上は何も言わなかった。
夜は短かった。荷物を整え、術具を確認し、軍用の外套を取り出す。眠る時間はあったが、深く眠るには足りない。
カランは横になり、目を閉じた。外では遠く鐘が鳴っている。軍務棟からの伝令だろうか、あるいは門の開閉か。ワラネという巨大な殻が、夜の中で軋んでいる。
頭の中で地図を思い浮かべ、事実だけを並べる。タルナは落ちた。ナールムは閉じた。キャンベラへ行く。
感情はいらない。恐怖も、焦りも、怒りも、悲しみも、不要だ。
必要なのは状況を正しく把握すること。正しく判断すること。正しく行動すること。
使えるものを使い、捨てるべきものを捨てること。
全ては生き延びる為に。
カランは目を開けた。
いつの間にか隣でルナリが丸くなって眠っている。
白い翅が薄い布のように身体を覆い、触角がゆっくり上下していた。
連れては行けない。それだけは決まっている。




