第一話:アウストロメリアの大地
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孤高の聖域、アウストロメリア。
赤茶けた荒野がどこまでも広がる未開の大地。太古の記憶を宿し聳え立つ岩山。エメラルドグリーンの美しい海岸線と壮大な珊瑚礁。
東の海から湿った風が吹き、山脈にぶつかって雨を落とす。雨は川となり、川は森を育てる。森は獣と、虫と、獣でも虫でもないものたちを養った。
人はその端に、遠慮がちに住み着いた。
はじめは海辺の小さな集落だったという。魚を獲り、根を掘り、夜になれば火を焚いて、闇の向こうから聞こえる声に怯えた。やがて人は火を学び、土を固め、水を導き、風を読んだ。
術と呼ばれるその技は、人類がこの大地に許された数少ない武器だった。
術は奇跡ではなかった。
火を操る者は炉を熱し、石を焼き、夜の森を払った。
土を操る者は壁を築き、道を均し、崩れた堤を直した。
水を操る者は川を分け、田畑を潤し、人々の汚れを海へ流した。
風を操る者は煙を逃し、帆を助け、遠くの匂いを読む。
それでもなお、人はこの大地を思うままにはできなかった。
人は、この大地で最も賢い生き物ではなかった。
最も強い生き物でもなかった。
内陸には鎧の民がいる。
土を掘り、角を磨き、矢を弾く甲を持つ者たち。
峡谷には糸の民がいる。
岩壁に住まい、獲物を繭に包み、八つの脚と糸をもつ者たち。
岩地には毒尾の民がいる。
荒地を行き、巨大な鋏と、毒針の尾を持つ者たち。
水辺には殻の民がいる。
川を歩き、湖を知り、海の幸を運ぶ、甲殻を持つ者たち。
森林には翅の民がいる。
樹上に集い、絹を織り、翅に紋を描く者たち。
荒野には跳ね脚の民がいる。
歌で土地を繋ぎ、踊りで水を示し、道そのものを帰る場所にする者たち。
そして、地の下には百脚の古きものがいる。
人も誰も彼も、その名を口にする時だけは声を潜める。
彼らは怪物ではない。
少なくとも、ただの怪物ではなかった。
食い、眠り、争い、子を育て、名を持ち、誇りを持つ。
人と異なる形をした、この大地の住人だった。
それらを人々は異形の民と呼んだ。
人は彼らと争った。
人は彼らと取引もした。
そして彼らを恐れた。
異なる形をした、怨敵。
異なる形をした、隣人。
異なる形をした、この大地の先駆者たち。
人が彼らに勝るものがあるとすれば、それは火を扱う知恵と、生き残るための執念に他ならない。
はじめ、人は王を持たなかった。
海辺の集落は海辺の掟で生き、川沿いの村は川沿いの掟で争った。水場を巡って槍を向け、漁場を巡って火を放ち、隣の村が夜に襲われても、夜が明けるまで門を固く閉ざした。
それで生き残れるほど、アウストロメリアは優しい大地ではなかった。
やがて一人の術士が現れた。
その者は大地を征服したのではない。村々を切り伏せたのでもない。
掲げたのは剣ではなく、燃える炉だったという。
ただ炉を築き、石を焼き、土を固め、朽ちた柵を壁へ変えた。
争う村々に同じ寸法の煉瓦を配り、同じ形の門を作らせ、同じ時に火を焚かせた。
人々は最初、その者を王とは呼ばなかった。
壁が繋がると、人の道がつながった。
道が繋がると、言葉がつながった。
言葉が繋がると、初めて人々は、自分達を同じ民だと思うようになった。
それが、後にアウストロメリアの民と呼ばれるものの始まりだった。
そして、いつからか人々は、闇の向こうから聞こえる声に怯えながらも、壁の内側で朝を待てるようになった。人々はその土地を都市と呼び、堅牢な防壁を構え、緻密な水路を敷き、安らかに眠れる家を備えた。
そうして人々に安息の地を与えた祖たる術士を、人々は王と呼んだ。
ゆえに、アウストロメリアの王とは、全てを支配する者ではない。
王とは、最初に炉に火を焚べた者。
人々の諍いを、諌める者。
壁の外から敵が来る時、最初に声を上げる者。
人々は王に膝を折ったのではない。
生き残るために、同じ炉を囲ったのである。
壁の内側を、人類は文明と呼んだ。
壁の外側を、人類は荒野と呼んだ。
だが、大いなる自然に住まうものたちにとって、その呼び名はどうでもよかった。彼らはただ、そこに在った。人が来るよりも前から。人々が王を戴くよりもずっと前から。人類が自分達の小さな灯りを文明などと呼び始めるよりも、はるか昔から。
アウストロメリアにおいて、人類とは支配者ではない。
防壁の内側でかろうじて息をしている、若い種族に過ぎなかった。
それでも人類は、壁の外を求めた。
壁の外には死がある。
壁の外には飢えがある。
壁の外には、毒があり、牙があり、人とは異なる理で生きる民がいる。
それでも、外には畑に変えられる土があった。
水路へ導ける川があった。
まだ繋がっていない道があった。
まだ灯りの届かぬ夜があった。
壁は人を守る。
だが、壁の内側だけでは、人は明日へ進めない。
ゆえに人類は、今日も門を開く。
人々は炉の火を掲げ、兵は槍を手に取り、狩人は弓矢を背負い、術士はその身に熱を滾らせて、荒野へ踏み出す。
それがどれほど愚かであろうと。
それがどれほど人間らしいことであろうと。
その日もまた、壁の外で紅蓮の炎が上がる。
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