23話:毒蛇の夢と女子会の夜
フェリデ公爵邸の一角、フェリシテの私室には、この殺伐とした覇道の中で唯一、柔らかな熱が灯っていた。
夜、窓の外ではベレスト港から届く夜風が木々を揺らしている。室内には、乳母のマルタが用意したハーブティーの甘い香りが満ち、主であるフェリシテは、鏡の前で深い溜息をついていた。
「……あの大馬鹿アルト。本当になんて言ったと思う?」
フェリシテの銀髪を丁寧に梳きながら、マルタはクスクスと笑みを漏らした。
その傍らでは、ガレリアから共に付き従ってきたシオンが、月明かりを浴びて短剣の刃を研ぎ直している。
「愛の言葉? 冗談はやめて。庭園の散策に誘われたと思ったら、『この土壌の魔力含有率を計算したところ、特産品の果実の糖度を三%向上させる最適解が出た。フェリ、これをガレリアの農政と比較して、翻訳してくれ』よ? デートじゃなくて、ただの公開諮問じゃない!」
「おやおや。ですがお嬢様、閣下は他の家臣の前では、決してあのような『迷い』を見せませんわ」
シオンが研石を動かす手を止め、無表情なまま言葉を継ぐ。
「……閣下は姫様にだけ、計算の合わない端数を打ち明ける。それは閣下なりの……最大級の甘えかと。私には、閣下が姫様の隣でだけ、一人の不器用な男に戻っているように見えます」
「……っ、シオン、あんたまで。……放っておけないだけよ。翻訳者たる私がいなきゃ、あの人は世界と繋がれないんだから」
鏡の中に映る自分の顔を見て、フェリシテは自嘲気味に、しかし誇らしげに微笑んだ。
マルタとシオンが部屋を辞した後、フェリシテは独り、窓辺に座った。 彼女は机の引き出しから、紅く輝く小さな石――『ガレリアの血晶石』を取り出し、魔力を流し込む。
『……フェリか。……またその石を使うとは。それほどまでに、あの大馬鹿の自慢をしたいのか』
意識の底から響くバシリウスの声は、どこか疲れを含んでいた。フェリシテは、真っ直ぐに父の魂へ語りかける。
「お父様、聞いて。アルトは今、魔力を動力に変える実験をしているわ。でも、私が視ているのはその先よ。……彼は気づいていないけれど、彼が創ろうとしているのは、王や貴族がいなくなる世界だわ」
『……何を言っている。王のいない国など、魂の抜けた器に過ぎん』
「いいえ。彼は魔法という特権を民に配り、知恵という力を平民に分け与えている。魔導銃も、新しい動力も、それさえあれば『選ばれし者』の力は不要になる。……それはつまり、私たちのような支配者が、歴史の舞台から降りる日を招くということよ」
フェリシテの言葉に、通信の向こう側で激しい絶句が流れた。
バシリウスにとって、王とは恐怖で世界を縛る唯一絶対の点であった。それを自ら解体しようとするアルトリアスの思想は、もはや「支配」ではなく「救済」に近い。
「……お父様。私たちは、最後の公女や王になるかもしれない。でも、私はあの人の隣で、その最期を見届けてみたいの。……お父様はどう? 自分の『毒』が効かない、誰もが王になれる世界……。死ぬ前に、一度拝みたくはない?」
長い沈黙の末、バシリウスは、震えるような溜息を漏らした。
『……クク、面白い。……救いようのない怪物だ。……フェリ、アルトリアスに伝えろ。公式会談の席を設けよ、と。……この老いた毒蛇、最期にその『無』の王に、この首を預けてみるのも一興かもしれん』
翌朝、バシリウスが書き上げた親書が放たれたとき、ヴァレリウスはすでにソル・ガルド公国の使者へと密使を送っていた。




