第21話:西の入り江の設計図
紺碧の海が、切り立った断崖の隙間から陽光を跳ね返している。
フェリデ領西端の港町、ベレスト。
かつては寒村に過ぎなかったこの地には今、潮の香りと共に、切り出されたばかりの木材と焦げた魔石の匂いが漂っていた。
「……信じられないわね。一年前は、ここには錆びた錨と老いさらばえた漁師しかいなかったはずなのに」
フェリシテ・フォン・ガレリアは、岩場の上に立ち、眼下の建設ドックを見下ろしていた。
背後には、ガレリアから共に輿入れした乳母のマルタが、日傘を掲げて控えている。その足元の影には、護衛のカイが気配を殺して潜んでいた。
「お嬢様、アルトリアス様はまたあのような場所で……。公爵閣下が自ら泥にまみれるなど、ガレリアでは考えられぬ光景ですわ」
マルタの言葉通り、ドックの底では、作業着を泥と油で汚したアルトリアスが技師たちと激しい議論を交わしていた。 彼らが囲んでいるのは、巨大なガレオン船の船尾に取り付けられた、奇妙な螺旋状の翼の模型だった。
「アルト! またそんな、神様も呆れるようなガラクタをいじっているの?」
フェリシテが声をかけると、アルトリアスは図面から顔を上げた。その瞳には、かつての冷徹な「魔王」の光ではなく、まだ見ぬ未来を計算する開拓者の熱が宿っている。
「フェリ。これはガラクタではない。……魔法という個人の資質に頼らず、誰もが海を渡れるようにするための『式』だ。……魔石の熱を運動に変え、直接水を押し出す。これに帆の力を組み合わせれば、風を待つ必要さえなくなる」
アルトリアスは泥を拭いもせず、水平線の先を見つめた。
「フェリ、見ろ。私が創りたいのは、血筋や魔力が全てを決める国ではない。……天地に禍が起きても、血統が途絶えても、人の知恵さえあれば揺らがない国だ。魔法という特権を、民衆の道具へと書き換える。それが私の新しい処方箋だ」
「……魔法を、特権から引きずり下ろすというの?」
フェリシテは息を呑んだ。 それは、魔法貴族としての教育を受けてきた彼女にとって、身震いするような不遜であり、同時に目が眩むほど美しい挑戦だった。
その夜、公爵邸の私室で、フェリシテは窓辺に座り、月明かりの下で小さな紅い石を手に取った。
『ガレリアの血晶石』。
王族の血を引く者同士が、互いの精神を直接結びつける秘匿された魔導器だ。
通信距離に限界はなく、言葉以上に「想い」が伝わる。
だが、その使用には激しい精神の疲弊を伴うため、ガレリア内でも極秘とされてきた。
(……お父様、聞いているかしら)
フェリシテが石に己の魔力と血の共鳴を流し込む。 数瞬の空白の後、意識の底から、老いた毒蛇のような、低く重厚な声が響いた。
『……フェリか。……無事なようだな』
「お父様……。ええ、私は元気よ。……今日、アルトが語ったの。魔法にも血筋にも頼らない、知恵が王となる国の話を」
フェリシテは、昼間に見たベレストの光景を、アルトリアスの横顔を、言葉を尽くして語り始めた。
アルトリアスが目指しているのは、ガレリアのように略奪で富を奪うことでも、ソル・ガルトのように伝統で民を縛ることでもない。誰もが学び、誰もが道具を使って豊かになれる、全く新しい秩序なのだと。
「……お父様。この男の隣にいると、魔法貴族としての誇りが、ちっぽけな砂粒に見えてくるわ。……でも、それが心地よいの。あなたの愛した毒よりも、この男の描く未来の方が、よっぽど世界を鮮やかに塗り替えていくわよ」
フェリシテの声は、熱を帯びていた。 彼女は「翻訳者」として、アルトリアスの孤独な理想を、一人の父へと情熱的に伝えていた。
一方、ガレリア公国の王城。 深夜、謁見の間の奥にある私室で、バシリウスは目を閉じ、娘の声に耳を傾けていた。
その冷徹な仮面は、娘の語る「新世界」の輝きに、少しずつ溶かされようとしていた。
だが、その会話を聞いているのは、王座の男だけではなかった。
私室の外、重厚な扉の影。 ヴァレリウス・フォン・ガレリアは、手にした魔導具を介し、父と妹の密談を完全に盗み聞いていた。
(……魔法を特権から引きずり下ろすだと……?)
ヴァレリウスの顔が、月光に照らされて醜く歪んだ。
彼にとって、ガレリアの血筋と魔法の力こそが、この世で最も神聖な正義だった。
それを「道具」に貶め、「知恵ある平民」に分け与えるなどというアルトリアスの構想は、先祖代々の魂を泥足で踏みにじる暴挙に他ならない。
(……父上。貴方はあのような狂った夢を、黙って受け入れているのか。……妹の毒気に当てられ、ガレリアの誇りを売り払うつもりか……!)
ヴァレリウスの握りしめた拳が、怒りで震える。 彼の中で、父バシリウスは「守るべき王」から「排除すべき裏切り者」へと変貌した。
魔法貴族の秩序を守るためには、この老いた毒蛇を始末し、アルトリアスという異端を根絶やしにせねばならない。
「……処方箋など、必要ない。ガレリアに必要なのは、古き秩序を焼くための『血の禊』だ」
ヴァレリウスの瞳に、暗い殺意が宿る。 通信が切れ、静寂に戻った城内で、父殺しの計画が静かに、しかし確実に動き出した。




