第90話 逆辰
明治38(1905)年1月23日 松花江ライン
「敵軍の攻勢、完全に停止」
児玉源太郎が、淡々と戦況を読み上げる。
「こちらの損害、広範囲において白兵戦が発生。戦死7952、戦傷1万5510。1個師団分の戦力を、失った」
たった一会戦で、戦死者のべ8000名。先の日清戦争の総戦死者の5倍以上。
松花江ラインに展開したこちらの戦力は10個師団と1個即応集団の17万。死傷2万3000は、総合戦力にして1割強の喪失だ。
「今次の敵の攻撃は、我らを窮地に追いやった。特に、ブリザードを利用して氷上を徒歩渡河するという奇襲は、我々の固定観念の裏を搔き――中央即応集団『桜花』の独立戦闘発動と、奇策による表氷破壊がなければ…今頃全滅していたのは我々の方であったろう」
こころなしか、一瞬児玉がこちらに視線を合わせて、口角を上げたような気がした。
「また、今回の大包囲戦では、戦争開始以来初めて…飛行船が撃墜された。敵軍はこの短期間で対空戦闘のノウハウを確実に築きにかかっていると見たほうが良い」
「……失礼しますが総軍参謀長、それって」
「もはやロシア軍に対する兵器的アドバンテージは埋まりかかっている。と、見て良かろう。なにせ我々は4月まで装甲車が使えんのだからな」
すこしばかり悲観的な空気が指揮本部を支配した。
が、それも一瞬。
「しかし――アドバンテージをいくら埋めようと、埋める死体がいなければロシア軍は狂気の行進を継続できない。」
「……?」
「ロシア軍の損害――…戦死3万7500、溺死凍死1万以上、投降3万3800。
敵軍は夜襲開始時の総兵力18万のうち、10万を失った」
それを聞いた閑院宮が玲那に耳打つ。
「戦傷はどうした…?」
「戦傷兵は投降に含まれます。なにせ包囲したのですから、撤退は出来ません。傷病兵は戦死するか投降するかの二択でしょう」
「包囲下にいなかった敵の戦傷者は?」
「対岸における敵軍の損害は考慮されていませんから……不詳扱いですね」
「つまり、これは最低限保証された戦果だと?」
「ええ。ロシア軍は『少なくとも』10万人を喪失したんです。」
閑院宮の絶句に被せるように、児玉が口を開いた。
「1月8日の冬季大反攻開始時、30万いた敵軍は、たった2週間で今や――8万。
この松花江ラインの前に、戦力の7割を散らしたのだ。」
「7割の撃滅、ですか」
「此方より少数の8万では、未だ健在のトーチカ線を突破することは出来ない。氷上を下手に渡ろうものなら空対地貫通爆弾が降り注いで先の大溺死の二の舞だし、だからといって凍結河川に架橋するのは通常渡河より難しい」
「……ということは」
玲那は総軍参謀長と目を合わせる。
一度溜息をついて――児玉が、笑った。
「ロシア極東軍は、もはや手持ちの戦力では――…
明治38(1905)年1月23日 ハルビン
「完敗、だな」
「あぁ。でも、悔いのない負け方だった。」
クロパトキンは満足気に笑う。
「敗北は、吾に因るものだ」
「よせ、グリッペンベルク。徹甲弾の数十倍の貫通力を持った爆弾を、敵軍が持っていると予測するほうが難しかろう。それに、貴様も私も……兵を死なせすぎた」
バルバロッサから地獄の一週間。
あまりにも味方を殺しすぎたのだ、と彼は言う。
「もう、よかろうよ。どちらも本国に帰ったら敗軍の将として裁かれるのは決まっているんだ。せめて最後は……存分に戦ったじゃないか」
氷上奇襲、対空攻撃。断続的ながらも、敵に与えた衝撃は及第点だと。
「援軍は」
「いいや。シベリア鉄道の待避設備が連日の爆撃で修復もままならない。機関銃で対空陣地を構築するも、射程外の高度から絨毯爆撃だからな。……どうして、あんな膨大な量の火薬を惜しげもなく吐き捨てられるんだか」
「……」
「鉄道の全損で、援軍どころか補給も難しいだろう」
ひどく透明な笑顔で、クロパトキンは微笑んだ。
「帝国極東軍に残された戦力はたったの8万。弾薬も切れた。もはや――冬季攻勢を続行する力は残っていない」
「……終わるのか」
「ああ。もはや海軍の朗報を待つしかなかろうよ」
切なくもどこか清々しい表情で、彼は呟く。
「祖国は、負けたのだ」
ジリリリリリリリリッ!!
おもむろに電話機が鳴り響く。
「……」
「はっ。どうせ言われることは分かっている。潔く攻勢頓挫と伝えよう」
クロパトキンは迷いなく受話器をとった。
「こちら帝国極東軍ハルビン総司令部。そちらは?」
少し間が空く。
どうしたのだろうと、彼が首を傾げた瞬間――、
野太い声が響く。
『こちら皇國海軍・聯合艦隊司令部。司令長官の東郷平八郎だ』
二人は言葉を失った。
「……失礼ですが、掛け間違えでは?」
『いいや、しっかり繋がった』
「っ…、交戦国の海軍総指揮官殿が、何の御用で?」
『ある朗報を伝えに来た』
「朗、報……?」
『すぐにそちらにも伝達が行くだろうが、貴軍に援軍が加わる。』
「……は?」
『ウラル以西から、規模極めて大なる援軍だ。』
クロパトキンは溜息をつく。
「あのですね。いくら我々が敗軍の徒といえど、敵国の将の言葉を信じるとでも?」
『なに、信じざるを得んさ』
「はぁ……切りますよ」
そう受話器を耳から離した瞬間。
ガチャン、と司令室の扉が開く。
「グリッペンベルグ総司令! 陸軍参議会から軍令電報!」
「読み上げたまえ」
「『まもなく満州里に、ウラル以西からの100万の援軍が順次到着する。シベリア鉄道の補給限界を多少無視した戦力の投入となりモスクワへの列車回送は不可能である故、列車貨車は到着次第これを破棄せしめ、以て、冬季反攻を継続せよ。なお――敵海軍に内通者がいる、然るべき情報を獲得し、反攻にあたれ』です!」
耳から離した受話器から、くつくつと笑い声が聞こえる。
『な、言っただろう?』
「…っ、なん…だと」
帝国極東軍の二人の将は、揃って唖然とした。
『なお本日付でブレスト=リトフスクにおいて独露不可侵密約が交わされたらしいな。期限は――…ロシア帝国が皇國との戦争を終えるまで、と』
「……百、万だと…!?」
『なに、ロシアの南下の矛先をバルカン半島と山東半島から太平洋へと向けられるのだ。ドイツにとって、皇國の敗戦は願ったりだろうよ』
ドイツ帝国が日英を裏切って、こちらに寝返ったという話だけでも衝撃であったが。それよりも彼らは、ロシアの外交密約をすらすらと述べ立てるこの男のほうが、恐怖であった。
「なんなのだ……貴様は?」
『言ったろう?内通者だと』
東郷を名乗る男は、淀むことなく言葉を継ぐ。
「あなたがたには、この100万で――皇國を粉砕して頂きたい。」
連合艦隊旗艦・三笠の司令室で、東郷平八郎は笑う。
『貴官は、海軍の総司令……と言ったな』
受話器の先から漏れ聞こえる、震えた声。
「そう考えてもらって構わない」
『……なぜ。なぜ、その地位にまで上り詰めたのに、反逆を?』
「ふっ…。反逆、か」
東郷は口角を上げる。
(確かに一見すると、反逆か)
しかし、彼の信念は前からずっと変わらない。
(ドイツとの不可侵を結ばせたら、ヨーロッパ・ロシアの総兵力の半数を極東へ増派することに簡単に同意した。……ラスプーチンもあの愚帝も、ロシア帝国の内治の逼迫度合いを全く理解していない)
特にラスプーチンには、さらなる戦時増税を提案したら猛歓迎。私腹を肥やしに邪魔な軍を東へ送れると喜び勇んでの同意だった。
(おぞましい腐敗だ……皇國と変わらないほどに)
この時期のロシアで、国内駐留の軍を東送り。
東郷の狙いは、実に簡単であった。
(これで――ロシア帝国は、皇國を破壊した直後、自壊してくれる)
史実の数倍の戦力消耗で、史実とは比較にならないほど急速に、増税と戦時徴発が進行。民衆の不満度は一気に爆発目掛けて駆け上がる。
「『総力戦』という概念を、知っているか?」
『話には。確か――"どちらかの国家が崩壊するまで続く狂気の戦争"、か?』
「くくっ……、生ぬるい」
不敵に東郷は笑う。
(私の願う総力戦とは、交戦国どちらもが崩壊する『破滅』)
ロシア帝国により、皇國が圧潰する。
皇國枢密院という全ての元凶が破壊される。――皇國の滅亡とともに。
「我が民に巣食う英雄への畏れ、枢密院への妄信、あるいは『敗けたことのない神国』という陶酔感、身の丈を超えたナショナリズム。あの破滅の歴史へ足を進めぬように――ここで一度、2600年の歴史を終わらせる」
しかし、同時にロシア帝国も崩壊する。
国力を遥かに上回る戦争をやった、そのツケが迅速に回ってくる。
ここに――全ての癌を切除した皇國の、再起の機会が訪れる。
この戦争のあとで、二つの列強が世界地図から姿を消し。
その瓦礫の中から、新たな祖国が立ち上がるのだ。
『東郷将軍。あなたは――売国奴、なのか?』
ゆえに東郷は、その問いに確固たる矜持でこう答える。
「…――『愛国奴』だ。」
明治38(1905)年1月23日 松花江ライン
児玉が笑った。
「ロシア極東軍は、もはや手持ちの戦力では松花江ラインを突破できない。ここに、我らの『蕗ノ薹』は、遂に――…!」
ガチャッ!
「か、会議中の所失礼致します!偵察飛行船から、緊急通報!!」
「っ…どうせ全てが終わったのだから、後でもよかろうに…。で、なんだね?」
「満州里方面に100万を超えるロシア軍増援の、越境を確認!
繰り返します、敵軍100万以上が満州へ入境!!」
「――なんだと」
児玉がバサバサッと資料を取り落とす。
玲那も唖然と立ち上がった。
「んな、まさか! 単線のシベリア鉄道ではそんな数、支えられないはず――」
「到着した貨車を片っ端から廃棄して、満州に人員物資を送り届けていると…!」
「ばっ、頭がおかしくって!!?」
列車を、到着した順にスクラップだと?
狂っているにも程がある。
「ッ……!」
あるいは、玲那たちが正気すぎたのか。
「増援――…」
「ひゃくま…、ん…。」
今度こそ、指揮本部から歓喜が消えた。
「総勢、最低でも110万…?」
愕然として膝から崩れ落ちる。
松花江の大雪原に輝く、高空の太陽を呆然と仰いだ。
「……不可能だ」
ここに至りて。
皇國の戦争計画は、決定的に破綻した。
1904年11月2日 ロシア帝国、ウラル以西においても総動員を布告。
1905年1月15日 合衆国、停戦の仲介を断念。
1905年1月24日 ドイツ国境地帯の主力部隊100万がハルビンへ到着。
1905年1月29日「帝国極東軍」再編。戦力規模110万へ。
1905(明治38)年1月30日。
この一ヶ月で22万人もの戦力を喪失したにもかかわらず、ロシア十八番の物量攻勢――狂気の行進は止まらない。
迫りくる110万を迎え撃つのは、満州総軍たった15万。
独ソ戦を彷彿させる見事な大逆転劇。
絶望的な死闘が幕を開けた。
冬季大反攻、満を持して続行。




