第79話 狂気
「大元帥陛下の示された軍人精神を、"最悪"?」
小刀を、その刀身を、文字通り喉元に当てられていた。
懐から武具を出す仕草も、そこからの刀身の繰り出しも、あまりに素早すぎて一切反応できなかった。根本的に、踏んできた場の数が違うのだろう。
けれども、玲那は不思議と、前ほどの恐怖を感じなかった。
出会い頭で鞘の切先を鼻先に向けられたときとは違って、明確な意思のもとに、参謀長中将閣下から向けられている刃にも関わらず、だ。
「……」
ゆっくりと左手を伸ばして、小刀の刀身をそのまま掴む。
手袋もせず、素手で刃部を握った。
ぽたり、ぽたりと、左掌から血が滴る。
その行動に、秋山や乃木、大山が。
そして当の児玉さえもが、少し驚いたような顔をした。
「大元帥陛下の兵隊とて、血を流します」
小刀をやさしく退けてから、掌を天に向けて、ゆっくりと地に返す。
伝う血は軍服の袖を一筋染めて、大理石の机上に赤黒く滴り落ちた。
「流れる血が多ければ多いほど、組織全体は修復に深刻なリソースを割かねばならない。さもなくば、そこから順に壊死してしまうゆえ」
児玉はせせる。
「何を今更。より多くの血を流して初めて、より大きな戦果を得ることができる。座しているだけで果報が訪れると思ったか?」
「いいえ。然し、流す血が多ければ多いほど得る戦果が多いかと問われれば、然りとは限りません」
「――なんだと?」
玲那は自身の左掌を見つめ、こう続ける。
「刀身を握らず柄を掴んでいれば、このように血を流さずとも退けられた」
視線を戻し、児玉と面と向かい合う。
「より血を失わずに済む手段を追求せず、ただ血を流すのは愚行です」
大元帥の子らをむざむざ殺しに戦地に送るのは、それこそ軍人勅諭に反する。
「勝利を得るにあたって血が流れるのであって、流血を以て勝利が得られるわけではありません、参謀長閣下」
手段と目的の逆転。
史実の"帝国陸軍"が犯した最悪の過ちであった。
「……反駁になっとらんな。そもそも、兵士どもの徹抗意欲と白兵戦耐性の低下の危惧だった問いへの答えとしては、解決策も対応も具体的なモノは何一つ示されていない」
児玉はそれでもこう拒む。が、確かにその通りだ。
「失礼致しました。なにも近接戦闘をやらないというわけではございません」
「露軍に白兵戦を掛けるのは愚かだ、そう貴官は申したように思えたが」
「全軍が全陣地で防衛戦闘の主針として、白兵戦を実行することについてです。言葉足らずで、ごめんください」
例えば、史実の旅順攻囲戦や奉天会戦といった、機関銃塹壕陣地を相手取った血みどろの歩兵突撃と白兵戦術をして、『勝利』と称する何かを掴み取るやり方だ。
「味方の屍を膨大に積み上げて弾除けにしつつ数十メートル前進することを『勝利』とは呼びません。それはただの『狂気』です」
「これは狂気を前提とした総力戦だ。それぐらいは貴官とて理解しているだろう」
「なればこそ、我々は理性的で在ろうとしなければなりません。我々が狂気を受容して内側から蝕まれれば、相手共々盛大に自壊してしまう」
ロシア帝国が狂気に呑まれて崩落するのは大変結構だが、連中とお手々繋いで仲良く自爆する気などさらさらない。この戦争は、理性的であり続けたほうが勝つ。
「理知的で数学的な段階後退戦術とて、されども血を流さずに遂行できるわけではございません」
未だ滴る血で地図が汚れぬよう、左手を除け、右手で最前線の松花江ラインを指す。
「撤退に移行する際、敵に背中をまる見せにして退くような間抜けさんはいなくてよ。撤退援護の殿が要りましょう」
ロシア軍の膨大な戦力を示す駒を、この河川防衛線へと殺到させ、そこから味方の駒を退いていく中、そこに2,3の友軍棋を残す。
「彼らは主力の撤退の時間稼ぎに、敵が突破を始めた防衛ラインで味方が次々と抜けていく中、ごく少数の兵力で遅滞戦闘を強いられるでしょう。これが今次作戦最大の近接戦闘、場合によっては白兵戦も含んだ死守に発展します」
「血を失わせないのではなかったのか? 少佐」
「全軍で死守よりかは遥かに少なく済みます。これが最小限にございましょう?」
「『完全に』流血を防ぐ方法を、とは言わんのだな」
児玉の問いかけに、玲那は笑ってみせる。
「そんな戯言を吐くのは――神か英雄だけですよ」
それを聞いて。
ようやく、児玉が口角を上げた。
「――なるほど。大本営よりかは信用を置けるってわけだ。」
やはり試問であったか。この児玉源太郎という男は、作戦でも戦術でもドクトリンでもなく、最初から最後まで玲那という人間を問うていた。
「熟練兵は一朝一夕にして成らず。然れど、砲弾は一日に幾万と産み出せる、か」
乃木が静かにそう呟く。
そう。それが『皇國陸軍』の基幹ドクトリンである。
「圧倒的火力と弾幕によって敵の進軍を阻み、キルレートを伸ばすことにのみ全てを注ぐ。……少人口国家が活路を見いだせる、唯一の戦い方です」
大山が、秋山が――そして、児玉が頷く。
長かった。
随分と骨の折れる仕事である。
「幸いにしてロシア帝国は社会不安のまっただ中。ドイツとの緊張も抱え、欧州方面からの戦力移転は最小限かと」
ロシア帝国はヨーロッパからは戦力を動員できない。西方にドイツ帝国があるからだ。独露関係には中国分割のときに楔を打ち込んでおいた。日英独の既得権益に対する、露仏という侵犯者――玲那が極東に撒いておいた対立の火種が、ここに至ってロシア軍を縛り付ける。
手は尽くしてきた。だから冬季反攻に際したとて、絶望というほどではない。
「ハルビンを軸に再編されたロシア帝国満州軍。一時は西シベリア方面に退却した5万人と、欧州からの援軍を併せてその数およそ30万」
「30万、か」
満州に展開する皇國陸軍総戦力の約2倍。無理だと絶望するのは簡単だが、攻守三倍の原則というのもある。それにロシア帝国お得意の百万の陸軍は欧州から動けない――増援はこれ以上来ないのだ。
つまり、これらを倒せば戦争は終わる。
「ふふっ。火力を集中させれば難しくはありません」
第一次大戦、地獄と謳われたソンム塹壕戦の話だ。ドイツ軍の弾性防御を前にした連合国軍が、たった10kmの前進に払った犠牲はなんと、62万人。
彼ら並みの弾幕を張れたなら、計算上5kmの後退でロシア軍の攻勢を全滅させることができる。
帝都で茶路お嬢様に語った「再攻勢」すら要らなくなる。
ロシア軍の戦力が枯渇して、戦争が終わるのだ。
「松花江ラインからここ奉天の最終防衛線までの500kmにいくらかの塹壕と野砲陣地、飛行場を建設。友軍の失血を最小限に抑え、敵軍に最大限の出血を強います」
日清戦争以後、皇國が世界を驚かせてきたこの戦術思想で、このドクトリンで、国家存亡の危機を乗り切る。それしかないのだ。
「……その場合の推定損害は、どのくらいになりますか」
殿下、と神妙な顔で尋ねてくる総軍司令。
一切躊躇せず、面と向かってその答えを伝えた。
「3個師団4万5000人が戦死」
「よ、四万五千!!?」
大山が飛び上がって叫ぶ。
「ななな何が最小限だ、先の日清戦争の総戦死者を――軽く30倍は上回るではないか!?」
「……他の戦闘想定もありますが、お聞きになります? 白兵戦で迎え撃つ想定では、皇國陸軍は松花江ラインで塹壕から順次漏れ出すロシア軍の物量に後方を呑まれ、撤退に失敗。初動から1個軍11万が玉砕します。なおまともな戦術なしに攻勢を受けた場合は――」
「……もう、よい、、、!」
大山が震える手でコーヒーを置いた。
すると乃木がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「なぜ。なにゆえ、そこまで戦死者が……?」
玲那は肩をすくめてこう返す。
「先の戦争が楽すぎたのですよ」
「……どういう意味です」
総戦死者1500を楽な戦争とでも仰せですか、と乃木は言う。
「我々は『眠れる獅子』と戦ったのではないのですよ? 相手は近代化に失敗してまともに内治もままならない『死せる豚』。死体蹴りを戦争とは呼ばなくってよ」
「あの激戦を、"死体蹴り"と……!?」
「ええ。釜山鎮会戦、旅順攻略、北京降下。クリミア戦争や普仏戦争などと比べたら茶番劇もよいところでしょう」
「虚勢を……!」
「我々は列強国と戦争をしているのです」
口調を強くそう言った。
「相手は統率の取れぬ私兵集団でも、自前の骨董銃を揃えた暴徒でもございません。強大な国力を背後に、鉄道を兵站に、機関銃を用い、塹壕を用い、将校と士官の指揮の下に立案された戦闘計画を以て行動する、れっきとした『近代軍隊』30万。」
つつぅ、と前線を右人差指でなぞってゆく。
「近代国家同士の軍事的衝突は、一度の会戦に5万の戦死者を出すことも珍しくありません。それはわたくしたちが将校課程で学んできた戦史が最もよく示しています」
乃木が黙りこくる。
そんなこと彼らは知っているのだ。
決して彼らは暗愚でも無知でもない。
ただ、北京降下、バルバロッサ作戦と、幸運と奇跡の連続を経てきた身として、そういう常識的損害を自身らも被りうるということが信じられないだけで。
「……敵の推定損害は?」
静かに児玉が問う。
「最小を見積もっても、30万の総兵力は7回の防衛線後退を経て7割、20万以上の損害を出して攻勢は頓挫。雪解けを迎え満州の大地が泥濘と化す4月には、彼らの反攻は破綻するでしょう」
「キルレートはそれでも一対四か。なるほど、最善の作戦というのも理解できる」
彼は一旦言葉を切って、継ぐ。
「ただ――それじゃあ足りないな」
児玉源太郎は獰猛に、深く深く、口角を釣り上げた。
続けて海軍士官の秋山にこう問う。
「艦政本部が開発したという拡散焼夷弾、炸裂下瀬弾というものがあったな?」
「は、はぁ。ありますが……」
「陸上用に大規模増産は可能か?」
「火薬工廠のライン増強と転換を行えば、年明けには間に合う形で出来るとは思いますけれど。一体何を?」
「敵歩兵に使用する」
今度は玲那が飛び上がった。
「そそ、それって、ナパーム弾に、クラスター!?」
「なぱー…?…かどうかは知らんが、対艦爆撃船に載せれるモノを近接航空支援船には載せれんということもあるまい」
「増産は可能ですが……バルチック艦隊撃滅を主眼に置いた対艦兵器ですよ。歩兵集団に使うには、効果過剰といいますか……あまり後味がいいとは言えませんが」
秋山の諫言に、はぁ、と児玉が怪訝な顔をする。
「歩兵騎兵の混交30万が脳死で突撃してくるのだろう? 拡散焼夷弾で焼き尽くし、対艦炸裂弾の3000を超える鉄片を撒き散らして、後味が悪いわけがなかろう」
くつくつと彼は漏らす。
「あぁ、海軍士官にはこの感覚はわからぬやも知れんな。……儂は白兵戦上がりの軍人だ。殺戮を好み、血みどろに興じ、呻き声に踊る。そういう狂騒を、愛してやまぬ兵だ」
ガァン!、と軍刀を机脚に打ち付けて。
「有栖川宮少佐。貴様の装甲戦術と地雷戦術を使わせていただこう。歩兵大隊直属の支援装甲車小隊の装甲車の半数は火炎放射器を取り付けて、装甲で囲われた内側から一方的に敵兵を焼き尽くすとしよう。硝安爆薬で対人地雷もできるというわけだ、素晴らしい……!」
「あははは、列国から倫理観を疑われますね……」
玲那は半ば縮み上がるようにそう述べた。
「苦痛に歪んだ人間の顔が好きだ。避けられぬ死を悟った絶望の顔が好きだ。助けを求める腕を斬り飛ばすのが好きだ、顔面をえぐり裂くのが好きだ」
高らかに児玉源太郎は嗤う。
その表情は、恐ろしく――ひどくおぞましいものであった。
「貴様が出来ぬというのなら儂がやる。」
「そ、それは」
「貴様らの『敵に最大限の消耗を強いる』という戦術に則るなら、そこまでやって然るべきだろう?」
軍隊とは、人を守る組織であり、またそのために人を殺す集団でもある。幾度も激戦を経てきたこの組織だからこそ、光があり、闇がある。ゆえに、どこの国であろうと上から下までマトモな軍隊など、有り得ない。
「皇國軍人が血を流して得た土地は、簡単には譲らない。野蛮な侵略者どもには、血を。地獄というものを見せてやる」
その様を評するならば――そう、狂気。
されども、ある意味、彼のような軍人がいるのは当然なのだ。
ここは戦場なのだから。
「…――狂ってる」
玲那は膝を震わせて、肺の底から吐きだした。




