第73話 杞憂
「ふぅ。奉天から2か月の道のりとはいえ、少なくとも敵方様にはその時間を活かす余地はなかったご様子ですね」
「当然だろう。ハルビンはともかく、こちらは孤立した沿海の大都だ。鉄道のない高原を電撃的に突破されて、戦力展開が追いつくはずもない」
閑院宮と眺めるのは、眼下に見えるウラジオストクとその軍港、そして向こうに横たわるのは念願の海だ。
「諸君!これより遂に最終目標へと突入するッ!」
手前には、出陣を控えた沿海州総軍と『魁星』の連合軍を前に、高らかに演説をする主人公がいる。玲那たちはその様を遠くの木陰から座って眺めていた。
「……英断だったな。沿海州総軍を合流させるとは」
閑院宮が懐から煙草を取り出しながら呟いた。
「ええ、史実を踏まえた善後策にございます」
魁星以外の満州総軍が持っていた輸送車のほとんどを奉天で沿海州総軍に譲り渡して、玲那たちの背中を追わせた。これにはちゃんとした軍事的合理性がある。
「1940年、第二次世界大戦の話です。フランスを蹂躙したロンメルの電撃戦は速すぎて、歩兵が追従できませんでした。突出しすぎてしまったのです」
「背後の守りを欠いた、ということか」
「ええ。そこに回り込まれてしまえば逆に包囲されてしまいます。背後の分断を恐れて、電撃戦の足を止めざるを得なかった」
その結果、イギリス軍の包囲殲滅に失敗し、彼らを英仏海峡の向こう側に逃してしまった。しかし閑院宮はこのように問う。
「ロシア軍が遠く北へと退却した今、我々だけで突出したとしても……逆包囲のリスクは無視できる程度のものではないか?」
思わず玲那は口ごもった。どうやら彼は詭弁を許してくれないらしい。
「……ええ、そうですね。そういう意味では沿海州総軍を追いつかせなくてもよかったでしょう」
「では、別の意味があるのだな?」
軍事的合理性、という言葉はたしかに言い訳だ。見透かしたように閑院宮はこう呟く。
「政治的配慮、か」
「……玲那たちだけで総攻撃に踏み切っては、主人公と沿海州総軍の名を汚してしまいますので。ええ、政治です」
戦争を主導している枢密院を敵に回したくはない。そのためには主人公に引導を渡してやることも必要で――なるほどむしろ非合理そのものだ。閑院宮はその大嘘を見過ごしてはくれなかった。
「主人公が望むのは、目立つことだけですし」
眼下では主人公は満ち足りた表情で猛っている。
「遂に来たる明日ッ! 明治37年9月28日は衝撃の日付として、後世の史書に永久に刻まれることになるだろう!」
はぁ、と玲那は溜息をつく。
「英雄は刻下、戦史に不朽の金字塔を打ち立てるッ!!」
かくて、その手に持った剣を高々と突き上げた。
「諸君、維新の英傑に続け!俺の名を世界に響かせよ!」
まるで主人公の私兵だ。
断じて彼の名を轟かせに戦争やってるわけじゃない。それでも沿海州総軍は、”英雄”の姿を前に酔いしれる。
「英傑の聖剣の下に、不滅の勝利を捧げよ―――!」
オオオオオォォオオ!!!
熱気に包まれて、総軍兵士達の数多の拳が掲げられた。
こうして士気があがるのなら、まあ政治も悪くはない。
「……この軍事的非合理を、皇國はいつまで許容できるかな」
煙草をくゆらしながら閑院宮は呟いた。
「余力があるうちは政治を優先できよう。しかし、いずれは」
「いえ。杞憂にございましょう、少なくともまだ、今は」
うつむきながら彼の言葉を遮った。目を逸らすように、あるいは逃げるように前を向く。
「だってこの戦争はもう終わるのです」
機動野砲の一斉射で見事に崩壊し煤煙を上げている城壁の先、ウラジオストク市街とその軍港へ向かって、閑院宮も頷いた。
「……ああ。そうだな、さっさと終わらせてしまおうか」
「ええ。通信分隊、飛行船へ打電!」
通信車から飛行船へ信号が飛ぶ。するとウラジオストク市街の直上に留まる飛行船がその拡声器を地表へ構えた。
『ウラジオストクのロシア軍最高指揮官に告ぐ』




