第64話 総軍本部
(か、肩身が狭い)
佐官級さえほぼいない中、玲那だけが「少佐」の階級章を提げて居座る。閑院宮の背に隠れつつも高級将官の中に放り込まれるのは、お飾りとしてやってのけた日清戦争以来で、じつに八年ぶりのことだった。
「気にするな、休憩中だ」
「そうは申しましても……」
空気感が休憩のそれじゃない。
「黒板に落書きしてるお嬢様もいなければ、机の上で踊ってる海軍将校もいない……これで休憩なんて無理がございます」
「宮廷と一緒にするな。それに、話しやすい御方も案外多い」
「そう申しましても。玲那は皇族である以前に少佐にございますよ。まともに取り合っては頂けませんわ」
「一度この会議室を回ってみればよい。かのごとく、壁には本棚もある。あれでも読みつつ巡回してみればよかろう。新たな出会いがあるかもな」
「玲那が出会い厨にお見えです?」
「ともかく。行ってきたまえ」
閑院宮に背中を押されて渋々歩き出す。少し歩いて振り返ってみたが、どうやら彼は廊下へ再び煙草を吸いに出たようで、その姿はなかった。
(えぇ……どういたしましょう)
先の戦争でも、閑院宮の背に隠れるのは得意だった。けれど今度は違う。いちど八年前に戦場を共にしたとて、立場が隔絶した将校たちの中に放り込まれて一人さまようのは非常に心細い。
錚々たる肩書の付いた座席の真後ろをフラフラと歩き、窓側に出る。
「お」
そこの本棚から『要塞論』と記された本を取り出す。
窓枠に持たれつつ、風に吹かれるままに適当にペラペラと読み飛ばしていく。
(あぁ……この戦術はひっくりかえりますね。塹壕戦で戦車が出るから、この形の防衛陣は20年後には姿を消しましょう)
気のままにに知識と照合しつつ。
(うーん、この本の著者はシュリーフェン絶賛ですか。確かに要塞戦だけを考慮すればこの計画はプロイセンらしい完成度ですけれど)
「『要塞論』、ですか。いいものをお読みですね、皇女殿下」
おもむろにかけられた声。
振り返った先には、柔らかな笑みを浮かべた将官が立っていた。
「はっ、将軍殿」
「お直り下さい。殿下はどうぞ楽なままで」
「は、はい……」
彼は玲那の手元の文章に視線をやる。
「プロイセンのフランス進攻計画ですか。確かに著者の語る作戦は完成度が高かりましょう」
「既知、かつ既存の戦術で語るならそうですね」
「ほう?」
「いえ、たかが少佐の妄言です。お許しを」
「階級は気にいたしません。殿下の見解をお聞かせ願えます?」
少し感服した。お飾りとされる皇族軍人をあしらわない空気か。たしかに、閑院宮の言う通り柔軟な場所なのかもしれない。
「……おそらくこれは、皇國の新戦術でひっくりかえります」
「へぇ。どのようにです?」
「塹壕というものを御存知ですか?」
「中央が検討している戦術理論としては聞きました。というか殿下の方こそよくご存知で。その戦術はまだ陸軍上層部のごくわずかでしか共有されていない筈ですけれど……」
いや、貴女なら有り得るか。
彼は漏らすようにそう呟いた。
「はい?」
「あ、いいや何でもありません。続けてください」
取り繕うように彼は首を振った。
不思議がりながらも玲那は言葉を継ぐ。
「塹壕戦、という新しいドクトリンが生まれると思うのです」
「ふむ」
「塹壕は鉄条網と組み合わさることで歩兵突撃を無効化します。砲撃にも長期間絶えるのです。既存の要塞より、土を掘ったほうが強いとまで申せましょう」
「それは……流石に過分では?」
納得いかなそうな彼の口調に、玲那は窓のむこうを指した。
「そこにロシア軍が迫るといたしましょう」
「……うむ」
「玲那たちは塹壕に籠もって、鉄条網の内側で銃を構えますでしょう」
「ほう」
「ここで一つ伺います。戦場ではどうして敵前に大の字で阻み立ってはならないのでしょう?」
「それは、敵前に晒す面積が大きい程、撃ち抜かれやすくなるからです」
「そう。つまり敵に向する面積が小さければ、それだけ撃たれにくい」
懐を漁って、裁縫の真似事をして失敗した網切れと、一枚の紙を持ち出す。
「網と紙、どちらが正面の表面積が小さいでしょうか?」
「……網ですね」
「ならどちらのほうが風に吹かれて飛ばないでしょうか?」
「網だ。風通しがいい」
「つまりは、そういうことです」
再び窓の外へと視線を向ける。
「銃撃を通過させるも、歩兵の突撃は阻む。塹壕に籠もってさえいれば、一方的な防衛戦を展開出来るのが鉄条網にございます」
「いや、それでも敵の重砲攻撃には」
「網は風通しがよくってよ」
「……そういうことですか」
全てを察したように彼は頷く。
「野戦砲支援の無効化、敵突撃の無効化。ここまで既存の戦法をひっくり返す陣地はなかなかございません」
玲那は本に載っている図面を指す。
独仏、ついでに道路たちの西欧国境の地図だ。
「兵員総出でスコップを持って、塹壕を掘るといたしましょう」
「ほ、ほう」
「一人一日深さ2mで2m掘り進むと仮定しても、5日あれば一個師団2万人で200kmの要塞線を地上に描くことが出来ます。すると」
ゆっくりと地図上をなぞってみせる。
「1ヶ月あれば、塹壕線は独仏戦線を覆って海に到達してしまいます」
「……っ!」
「いわば塹壕は『どこでも要塞』です。この本の通りにプロイセン軍がフランスに進攻した場合、道路を盛大に巻き込んで血みどろの消耗戦に突入…、その末に、西ヨーロッパ平原は年単位でこの世の地獄と化しましょう」
「ま、まさか……そこまで列強も愚かではないでしょう」
「さて、いかがでしょう。人は愚かにございますから」
玲那は肩をすくめてみせる。
将官は震えの残る声で返す。
「……いやはや、脱帽です。殿下には」
「まさか。聞きかじりの知識の受け売りにございます」
「八年前と同じく、また教示を受けてしまいましたね」
その言葉に疑問符が浮かぶ。
「八年前、と申しますと?」
「ああ、八年ぶりですとも。釜山鎮で怒鳴り合って以来です」
頭を駆け巡る記憶。
「お待ち下さい。ちょっ、ちょっとお待ち下さいませ」
「お覚えでありませんか。第一軍司令の椅子に座っていた愚将のことは」
「え。嘘にございましょう、えっ……?」
窮地に立たされた最前線、飛び交う罵声。
“司令官は枢密院の傀儡であせられますの?”
「申し遅れました」
彼は玲那へ向いて、おもむろに姿勢を正した。
かくて、その口から将官の名が紡がれる。
「――大山 巌。満州総軍司令官、陸軍大将です」
愕然の余り、本を手から離し、足元に落とした。
・・・・・・
・・・・
・・
「怖かったのです。自分が、この脳が、枢密院に呑まれてると自覚した時」
しみじみと彼は言葉を紡ぐ。
「『司令官は枢密院の傀儡であせられますの?』――今でも鮮明に、脳裏に残っております」
「あの節は本当に……ごめんくださいませ」
「いえいえ。あのときとて怒っていたわけではありません。むしろ…背筋がゾッといたしました。殿下に言い当てられた瞬間、本当に背筋から紐が伸びて枢密院へ繋がってるように感じまして」
正直、そこまでのことを言ったつもりはなかった。
言葉の持つ力は、使う側より受け取る側のほうが大きいとはよく言ったものだ。
「自分の存在意義を見失いました。枢密の操り人形、いわばもはや『肉塊』に等しいのですから」
それが怖かった、ただひたすらに怖かったのだと彼は続ける。
「――そういうわけで。あの内戦の後に、兵学書を全般洗いざらい勉強し直しました。一部は日清戦役で試しさえいたしました」
「そんな……たかが尉官の戯言にそこまで」
「いいえ、これは自戒です。枢密院に依存する怖さを、身を以て知れました」
きっとその果ては――、と、大山は言いかけて、口を噤む。
皇國陸軍軍人として、言ってはいけない続きがあったのだろう。
「ですから、感謝を伝えたかったのです。八年越しになってしまい、恐れ入ります」
「いえそんな……」
顔を上げる。すると、大山の他にもう一人。幾つも勲章を垂れ下げた軍人がニヤリと笑いながら、こちらを覗いていた。
「おお、総軍司令。その姫が例の『中将に喰らいついた中尉』で?」
「……野津道貫。タイミングを考えろ」
その名に戦慄する。何なのだ、ここは元帥府か?
「ずるいじゃぁないですか司令だけ。例の有名な『皇國のジャンヌ・ダルク』、私もお会いしたかったんですよ」
「じゃ……ジャンヌって……、なんですかそれは、お恥ずかしい」
「聞きませんか? 陸軍上層ではある程度、知れ渡っておりますよ」
「……本当ですか」
嫌なあだ名だ。英雄になった果てに処刑なんて縁起でもない。
野津は玲那に視線を合わせてニィと笑う。
「反骨の姫なんて、最高ではないですか。指揮官としての精進を期しておりますよ」
「……はっ!」
敬礼して見せれば、かかかっと野津は笑って、踵を返そうとした。
が、立ち止まる。
「そうでした。今次作戦は、殿下が立案者なのでしたっけ?」
「見方によっては……、ですけれど」
「よし。――これから再開する総軍会議で、殿下直々にご説明いただきたい」
「……はい?」
玲那は固まった。
「おい流石に野津、それは……」
「正直まだ全貌が見えずに困ってる将も多い。それに皇族軍人と舐めている者もおる。発案者の口から『電撃戦』とやらを説明してもらうのが一番です。――そういうわけで、お頼み申しましたよ!」
野津はそう言い残して立ち去る。
「え、えぇ……??」
かくて、玲那は直属の上部機関たる満州総軍司令部で、この『裂号作戦』の説明を超高級将校の前でする事となったのだった。
・・・・・・
・・・・
・・
「連中の攻勢が止まった?」
世界に冠たる大英帝国では、極東の大波乱に注目が集まっていた。
「ほぉ、連中も攻勢限界に達したか?」
「宣戦布告前の奇襲で隙を突いてみたはいいものの、後が続かなかったか」
「当たり前だ。週で数百キロの行軍……やつら、相当軍馬に無理をさせたらしい」
「クハハッ! 野蛮人にゃ、西洋式の軍馬など使えんよ」
ただ、その興味も戦線が停滞するにつれ、日に日に薄れていった。
「かの島国は最大進出線に達したんだ。これ以上の攻勢は不可能だな」
「補給路的に無理だろうな。伸び切って余地がない」
「やつらに港湾を整備する技術も、鉄道を敷設する知能もあるとは思えない」
「はは、なんたって国力差10倍以上の戦いだしな」
既に皇國の戦争遂行能力は限界に達している、そう目されていたのだ。
「奇襲とそれに続く行軍速度を無視した強行浸透…、その末に、遼東半島奥深くまで引きずり込まれたんだ」
「もはや戦争疲弊は最高潮に来ているだろう……まぁ、列強に攻め入れた点だけは、善戦したと評価できるところかもな」
「あとはロシア軍の反攻に押し潰されるだけか」
「趨勢は、決したな」
ロンドン株式市場の対日投資は乱高下し始めていた。
「それに――どうやら連中嵌められたようじゃないか」
加えて、ロシアの公式声明が功を奏し始めたのである。
「おお…。残念ながら、皇國人は見事にしてやられたようだ…。」
「ロシア人に奥地へ引きずり込まれたのか、歴史に学ばぬ東洋人は」
「ハハハハハッ!」
ベルリンの酒屋では嘲笑が響く。
「かのナポレオン率いる我らの旧帝国を打ち負かしたロシアの戦法だ」
「東欧でやろうが極東でやろうが結果は変わらないだろうな」
「東洋人の限界ってやつよ、どの未開国も文明化される運命さ」
「はははっ、西洋に敵うはずがないだろう」
パリのバーでもくすくすと嗤いが漏れる。
「祖国が栄えある孤立を破ってまで同盟した連中、負けそうだぞ?」
「焦土作戦するってんだからロシアは消耗してくれる。上等だ」
「そうだぞ、偉大なる欧州の前には、野蛮人の敗北という結末は歴史から見えている。目的はロシアの損耗だけだ」
バーミンガムのパブでは当然と言った表情で受け止められる。
同刻、上川宮廷本部。
「あまりよろしくありませんわね、情報戦で圧倒的不利に立たされておりますわ」
「……帰還したばかりの俺に今言う? それ」
「貴方様が旅順を攻略した張本人でいらっしゃるから申していましてよ?」
「いや、軍人としてやることはやったぞ。たった1週間で陥落せしめた」
「ええ。戦費と損害を最低限に抑えられたのですから十分ですわ。問題はかえって世界にロシア優位を印象づけてしまったところでしてよ」
掛澗は深刻な面持ちで、秋山にこう零す。
「世界の見方は何も変わってございませんわ。次の作戦で大きく……いえ、それこそ戦局をひっくり返せなければ。皇國の戦争遂行に、無視できない支障が生じます」
ですから、姫宮にすべてが懸っておりますの。省属給仕のお嬢様には、バルバロッサに祈るしかできなかった。




