第18話:ニート、決意
遠方の爆音で、夜の酒場の窓ガラスが震え上がった。
いつものように酒場で盛り上がっていた男衆だけでなく、俺ですらも一瞬で事態の深刻さを悟ってしまうほどに、その轟音は青天の霹靂めいた響きだった。
外で、犬の遠吠えがした。ゴン太の声だ。
次の瞬間、男がスウィングドアを弾き飛ばしながら飛び込んできた。
その額には脂汗がびっしりと浮かび、顔は死刑宣告を告げられた囚人のように蒼白だった。
「たっ、大変……っ、大変ですよ! 鉱山の方で、また爆発があって!」
若い炭鉱夫で、ここまでずっと走ってきたのか、彼は言い終わると両膝に手をついて必死に呼吸を整え始めた。
怒号が飛び交う。
「はあ!? いまは誰も作業なんざしてねぇだろ!」
「わか……わかんないですけど! なんか突然爆発したらしくて……。見に行ったら、中……中からゴブリンが!」
肩を上下させながらたどたどしく答える炭鉱夫に、年長のおっさんが喉から血がでそうなほどに声を荒げた。
「なんでそれを先に言わねえんだバカ!」
「それで、村の方に来ちまったのか?」
「とりあえず入り口を土砂で埋めて、今は駐在の兵士さんたちが見張ってくれてますけど……すんません、慌ててたもんでそれ以上は」
浮き足だっていた炭鉱夫たちが、若者の報告でひとまず落ち付きを取り戻していく。村の中にゴブリンが徘徊するハメになったら最悪の事態だろうが、まずそうはならなかったから一安心といったところなのだろう。
こんなとき、普段の俺はあまり関わりたくない兵士たちが頼もしい。ここに来るときヘタな演技をしたせいで、駐在と顔をあわせると怪しまれそうで疎ましいのだが、こうして平穏を維持してくれるのは大歓迎だ。
「なんだ……なんとかなりそうだな。あー、びっくりした」
俺は伸びていた背筋から力を抜いて、ほっと息を吐いた。驚きのあまり呼吸が止めてしまっていたぞ。
向かい側のゼノビアさんに視線を戻す。
「ゴブリンくらい、兵士の人らでなんとかなるよね」
「はい。ゴブリンは体格も人間の子供ほどで、知能も身体能力も人間には及びません。
複雑な構造であり人間が動きにくい巣穴の中ならいざ知らず、開けた場所でゴブリンと武装した兵士がぶつかったところで兵士が負けるなど有り得ませんよ」
じゃあ、どうやら静観しても問題ないらしい。
ゴブリンを刺激してしまうのはマズいという話だったが、これは駐在兵士とその場に居合わせた炭鉱夫の判断がよかったのだろう。
一安心だな、とほっと息を吐いた俺に、今度がゼノビアさんが声をかけてきた。
「さて、それで根城さま。お話があるのですが」
なに? と問い返すと、ゼノビアさんがマグカップに注がれたエールの残りを飲み干している最中だった。
カップを置く。半分ほどはあった残りのエールはすべて無くなっていた。
酒の一気飲みをしたゼノビアさんは、酔った様子ひとつも見せずにすんなりとこう言ってきた。
「逃げましょう。この村は終わりです」
「は……っ? ゼノビアさん、もしかして酔ってる?
自分でゴブリンなんて大丈夫だって言ったんじゃない」
もしかして、酔いが顔に出ないタイプなんだろうか。意外な一面を発見したぞ、とにやける俺に対して、ゼノビアさんはどこまでいっても淡々としていた。
ゼノビアさんも俺の言葉には同意する。
「はい。問題は、ゴブリンが巣から出ようとしていることです。
彼らは、人間に対して敵意を抱いた状態になっている……これは、そう仕向けられていなければならない。そして、仕向けた張本人たちがいるはずです」
他の国の人間が、この村になにかしようとしている……という予想だけはしていた。
していたが、今まで影も形もなかったが。せいぜいガルムの件くらいで、実感がない。この村には幽霊がいるんだよ、と言われてたまに意識してしまうくらいの存在でしかなかった。
「先程の爆発、おそらく彼らが故意にやったことです。それによって、いま、村の人間は鉱山に目が釘付けになっているうえに、ゴブリンたちも溢れ出すことになってしまった。これが非常に危険です。
村の警備の目が、鉱山の方に向いているのですから」
そこまで言われて、わかった。
問題はゴブリンたちではない。ゴブリンたちに村の人が注目する状況、これが出来上がっていることそのものが問題なのだ。
「私なら、この隙に乗じて仕掛けます。ただでさえ、この村の兵士は数が減っているのですし」
「……俺のせいでな」
「そういうつもりではありません。ともかく、面倒になる前に逃げましょう」
「いや、そんな、簡単に……。この村の人たちはどうするんだよ!」
「魔王さまが言ったのでしょう。
危なくなったら逃げる、と」
言葉に詰まった。
そうだ。俺たちだけなら、簡単に逃げられる。
「それがあなたさまの方針なら、私は従いましょう。ライムとゴン太……あの子たちも一緒に。けれど、それ以上は無理です」
「なんで? 村の人たちと逃げたら……」
「人間を助けるのですか? 魔王なのに」
ゼノビアさんの言葉が喉にねじ込まれて、二の句を繋げなかった。
俺を見てくる紅い双眸は、死人の血液のように冷たい。まるで、俺の勘違いを糾弾するようだった。
『まさか、人間と馴れ合えると思っていたのですか?』、と。
唐突に。
ここまでの穏やかなの村での生活が、現実感が、俺の記憶から遠のいていく。夢から現実に引き上げられるような、あの抗いがたき浮上の悪寒。
……ああ。
このまま、何事もなく上手く行くと思っていたのに。
あの明るい世界は、ただの幻だったのだろうか。
不意に、ガラスを引っ掻くが如き不快な声がした。
――なんで、おまえなんだ。
幻聴が聞こえた。
――なんで、おまえが死ななかったんだ。
やめろ。
――おまえなんて、ゴミだ。人間じゃない! このクズめ!
目と鼻の先に、黒ずんだ汚れが染みついたテーブルがあった。
「大丈夫ですか」
倒れ込みそうになったのを、ゼノビアさんが支えてくれたらしい。辛うじて返事をして、俺は机上に両腕をついて躯を奮い起こした。
周囲には、おっさんたちのだみ声と、彼らに飲み物を勧めているミレイナの声しかない。
あんな、ヒステリックな、それでいて切実な悲鳴はどこにもない。
なのに、鼓膜には、いまもべったり張り付いてる。耳を潰そうと、けして剥がれぬ呪いの言葉が。
「体調が悪いのなら、それを理由にして二階にあがって、窓から去りましょう。軒先のゴン太と、馬屋のライム。彼女らを回収して、ここを離れます。いいですね?」
「ま、待って。この村の人たちはどうなるんだ?」
もう一度聞き返せば、返事が変わるのではないだろうか。すがるような気持ちだった俺に、やはりゼノビアさんは毅然とした態度だった。
「存じ上げません。ですが、もう一度いいます。彼らをつれて逃げることはできません」
「魔王だからか?」
「いいえ。何故、彼らが……おそらく家庭を持っている彼らが、炭鉱夫という厳しい仕事をしているか判りますか?
逃げられないからです」
ゼノビアさんは、俺に言い聞かせるようだった。
「戦いも、家庭も、同じことです。逃げて解決できるのは、守るものがないときだけ。
守るものがあると、逃げられません。逃げたら、必ず負債が追いついて、その首筋を掻き切るのです」
俺は逃げられる。逃げられると思っていた。
だって、俺はこの村を支配している国の兵士に追われているからだ。異物は俺だけだし、困ったら逃げてやり直せる。
でも、この村に、俺が目的ではない集団が押し入ってきたら。そのとき俺が逃げたら、この村の人はどうなるか。考えたこともなかった。
自惚れていたのだ。世界を掻き乱すために召喚された俺は、周囲を動かす特異点だと自惚れていた。
忘れていた。たとえ、この世界に俺という異物混入がおころうとも、この世の人々は自分の人生を生きていることに。
そして、俺がその人生の端役だったとき、こちらが思い描いていた『俺が逃げれば万事解決』なんて幻想は通用しないのだ。
ただ、登場人物がひとり減るだけなんだから。
俺は初めて想像した。俺たちだけ逃げ延びて、この村がさっきの破壊的な轟音で、蹂躙されるのを。
……逃げていい。逃げていいのだ。
自分以外のなにかを、捨ててもいいのなら。
「魔王さま、それ以上考えないでください。自身を追い詰めては、正常な判断が鈍ります。
魔王とは、殊更に利己的な生き物であるべきです。ですから、自分ことを考えて生きる……それこそが魔王のただしさです。難しく考える必要はないのですよ」
その声が優しく聞こえたのは、多分俺の心のせいなのだろう。
まさしく、汚泥に足を取られて沈み征く、俺に出された助け船だ。
その船の、縁に手をかけ外へとこぎ出し、逃げおおせれば俺の勝ち。
簡単な話だ。
ゼノビアさんの話は、俺の心を納得させるには充分だった。
家庭を持った人は、職場という戦場から安易に逃げ出せない。守る者がある人間が逃げ出せないのは、別にこの世界に限った話じゃなかった。
家という守るべきものがある人間に、万能の逃げ場所などない。
守られた家、その『部屋の中』というミニマムな世界で満足していた俺には、わからないことだったが。
ああ、そうだ。行動には責任が伴う。そして俺はそんなものがいらないと思うから、責任よりも自由を選んだのではないか。
どうせ、いくら覚悟を決めたところで、自分の世界以外を完全に守ることなんてできない。ゆえに、自分の世界を優先させて逃避という自己防衛を選んできた人生だった。
最初から、最後まで。
「あなたは魔王ですから。魔王らしく、わがままに、不誠実に。怠惰に、傲慢に、二律背反に。思うままの行動をとればいいのです。それが即ち、人が疎み嫌い蔑む――魔王、という仕事なのですから」
そうだ。
俺は、俺にとって好きな行動を、他人の目を憚らずに選べば良い。
「じゃあ、魔王らしく。命令してもいいか」
「なんなりと。ご用命ください」
俺は、自分の頬が引きつってるのが判った。
自分を誤魔化す、シニカルな笑み。
「俺に『おまえなら出来る』といってくれ」
「……なんのことですか」
「頼む」
それで、俺の言いたいことの、なにが伝わったかも判らない。
けれど、彼女は俺の目を見てこういった。
「あなたなら出来ます」
人の決断には、三種類ある。
下せない決断。下せる決断。
そして、最後の一押しが必要な決断だ。
俺は大きく息を吸い込んで、瞑想した。
しっかりと七秒、こちらに送られた言葉を呑み込んで。自分の心を説得する。
目を開けて、俺は頷いた。
「――よし。
この村の人、全員助けよう」
そうして、産まれて初めて、俺は決断というものをしてみた。
ゼノビアさんが眉間に皺を寄せた。
「……私の忠告は、お聞きになられたと思いますが」
「ごめん、ゼノビアさん。そのお願い聞けないわ。だって俺、魔王だし」
魔王は、人の言うことなんて聞かないのだ。
無論、詭弁である。言い訳だ。屁理屈だ。そんなことは自分でも判っている。
だが、それで結構。理屈なんてのは、自分を説得して動かすためにある。
「なにか、考えはあるのですか。逃げるといっていたのに」
「しょうがないだろ、そうしたくなったんだから」
ここで逃げるのは、人生の主役である俺の場合だ。でも、今の俺は、誰かの人生の端役だから。
なら、俺がいまできることはひとつだ。狂言回しに徹することだ。世界を変えたいとき、盤面を変えたいとき。そんなときは、妄言で世界を翻弄してやるしかないのだ。
一度口にしてしまえば、もはや躊躇はない。
だって、
「やりたいと思ったんだ、だから、好きにやらせてもらう。
だって、俺は魔王だから」
それに――。
とつぶやいて、俺は息を大きく吸い込んで、吐いた。
自分を震い経たせるように、とびきりのドヤ顔を作って。
この淫魔のメイドと初めて会ったときと同じように、自分の考える魔王らしさを演じて。
俺は、宣言した。
「ゴブリンだろうが帝国だろうが、はたまた無数にひしめく王国兵……。
安心しろ、奴らは全部――
――俺の掌の上だ」
逃げ道はある。戦わずに逃げられる術はある。
だが、それは救済策だ。ゲームで救済策を前提にするなどナンセンス極まりない。故に俺は、逃げずに済む方法をひとつだけ考えていた。
王国兵も、帝国も、ゴブリンも。その総てを同時に攻略する秘策を。
だが、同時に。完璧な策などない。人生、所詮は運だ。
どんな決断も、どんな献身も、運が悪くなければ必要もない。
だから、俺の作戦に難点があったとすれば。セーブとロードのない世界で実施するには、挑戦などというあまりにもリスキーな行為をしなければならないことだ。
俺は生涯、挑戦などしたくなかった。
でも、仕方がない。
俺はまだ、一緒になってダンジョンを楽しんでくれた人たちに、
お礼の「ありがとう」を言ってないんだから。