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第1話 優しい君の隣

冬の気配が色濃く混じる、高校の中庭。

葉を落とした街路樹の枝先が、乾いた北風に揺れている。


ベンチの端に腰掛け、冷たい風に肩をすくめた黒髪の少年――いや、少年と呼ぶには少しだけ背が伸びて、けれど大人と呼ぶにはまだあどけなさの残る横顔が、チェック柄のマフラーに深く顎を埋めていた。


「……今日も寒いね」


白い息とともにこぼれたのは、どこか内気で控えめな声。

マフラーの縁から覗く無防備な瞳が、俺を見上げてふわりと弧を描く。

その柔らかな笑顔を目にするたび、俺の胸の奥底では、誰にも言えない甘くて苦い感情が、静かに熱を持って溶け出していく。


「はは、鼻の頭が赤くなってるぞ、葵。しょうがねえなあ、ほら、これカイロ代わりにしろよ」


俺――桃野江絢人(もものえあやと)は、購買の自販機で買ってきたばかりの温かいミルクティーのペットボトルを、葵の両手で包むようにしてそっと握らせた。


今、俺の目の前にいるのは、雪本葵(ゆきもとあおい)。


俺の――密かな想い人だ。


冷え切った白く細い指先。

そこに自分の体温を移すように重ねた掌を、俺はすぐには離さなかった。

一秒でも長くその肌に触れていたくて、まるで温もりを確かめるかのように、わざとゆっくり、指の腹を滑らせるようにして手を離す。


「えっ、いいの……? 絢人が飲むために買ったんじゃないの?」


「いいよ。俺が飲むより、葵の指を温めた方がよっぽど有意義だからな!」


葵は少しだけ遠慮するように瞬きをして黙り込んだが、やがてペットボトルを胸元に引き寄せた。


「……じゃあ、遠慮なくもらうね。ありがとう、絢人」


はにかみながら嬉しそうに目を細める葵に、心臓がドクンと大きく跳ねる。


喉元までせり上がってくる愛おしさと疼きを悟られないよう、俺は「おう!」と、持ち前の明るい声で勢いよく笑って誤魔化した。

誰にでも気さくで、ノリのいい『いい奴』として振る舞うのは昔から得意な方だ。


だからきっと、親友である葵に向けているこの欲望を孕んだ醜い恋慕だって、上手く隠せているはず。


――そう。

自分で言うのもなんだが、俺は人望がある方だ。


昔から、ニコニコと愛想よくしていれば、面倒な争いや諍いには巻き込まれずに済んだ。

誰だって、そういう無意識の処世術くらい持っているだろう?

俺はそれが、人よりも少しばかり過剰なだけだ。


はじめはたしか、七つか八つの頃だった。


同い年の子供たちと廊下を走り回っていて、飾ってあった花瓶を誰かが割った。

大きな音を聞きつけてやってきた先生は、床に散らばった破片を見るなり、「誰がやった」と低い声で尋ねた。

途端に、それまで騒いでいた連中がしんと静まり返る。

誰も口を開かない。


そんな中、不意に「悪いことをしたら、きちんと謝るのよ!」という母の言葉が頭をよぎった。

けれど、改まって謝るのもなんだか気恥ずかしくて、とりあえず笑いながら謝罪を口にした。


「ごめんなさい。俺たち、ちょっとはしゃぎすぎたみたいです。次からは気をつけます」


当然怒られると思っていたのに、先生は毒気を抜かれたような顔をした。


「……まったく、お前は」


呆れたように息をついただけで、それ以上声を荒らげることはなかった。


なんだ。こんなものでいいのか。

子供だった俺は、たぶんそのときに覚えた。

笑顔には、場を和ませる力がある。


逆のことを覚えたのは、それから少し経った頃だ。


友達に遊びに誘われて、珍しく断ったことがあった。

その日は一人で読みたい本があったから、何の気なしに「今日はいい」と答えた。


「なんで?」


「読みたい本があるから」


それだけを口にする。

すると相手は、むっと口を尖らせた。


「……じゃあ、もういいよ」


その一言で、それまでの楽しい空気が嘘みたいに冷えた。

翌日になっても、相手はなんとなくよそよそしかった。

たった一度、行きたくないと言っただけなのに。


だから、それからは少しだけ言い方を変えた。


「悪い、今日はちょっと無理。また今度誘ってよ」


そう言って笑えば、相手も「じゃあ明日は?」と笑った。


そうか、と思った。

これでいいじゃないか。


腹が立ったときも、嫌なことを頼まれたときも、どんな時でも少し笑って、角の立たない言葉を選ぶ。

それだけで相手は機嫌よくしているし、余計な喧嘩もしなくて済む。


いつしか、意識すらしなくなった。


誰かが怒っていれば笑って宥め、気まずくなりそうなら冗談を言う。

嫌なことがあっても、顔には出さない。

そうしているうちに、なぜか人から好かれるようにもなった。

だったら、わざわざやめる理由もない。


ニコニコと愛想よくしていれば、大抵のことはうまくいく。

俺にとっては、それだけの話だ。


だからあの日も、そうだった。


――文化祭の日。

朝からあちこちに駆り出され、頼まれるままにいくつもの仕事を引き受けて、一日中校内を走り回っていた。

それなりに楽しかったし、誰かに頼られるのも嫌いじゃない。

けれど、片付けが終わる頃には、さすがに少し疲れていた。


誰もいない中庭で、俺はベンチに深く腰を沈めた。


「……絢人、」


控えめな声と一緒に、温かい微糖の缶コーヒーが差し出された。

顔を上げると、少しおどおどした様子で立つ葵がいた。


「お疲れ様。……あの、大丈夫?」


「え? 何言ってんだよ、俺は全然――」


「大丈夫じゃないよ」


いつものように笑って誤魔化そうとした俺の言葉を、葵はきっぱりと遮った。

そのまま、手にしていた温かい缶コーヒーをそっと頬に押し当ててくる。


「絢人、色々と頼まれた仕事全部引き受けてたけど、ほんとはずっと無理してたでしょ?」


ドクン、と。

心臓が、痛いくらいに大きく跳ねた。


「え……」


「たまに、ちょっとだけ疲れた顔してたからさ、ずっと心配だったんだ」


そう言われて、言葉に詰まった。


「大丈夫か」と気にかけてくれる奴なら、今までにもいた。

そんなときは決まって、笑って「大丈夫」と答える。

そうすれば相手も安心したように、「そっか。お前は元気だな」と笑ってくれたし、それ以上、何かを訊かれることもなかった。


いつもそうだったし、それで何の問題もなかった。


だから、自分でも気に留めていなかったような些細な変化に気づいて、心配してくれる奴がいるだなんて、思いもしなかった。


見透かされたような気恥ずかしさはあった。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、胸の奥にじんわりと広がっていくものがあった。


自分にとっては、わざわざ口にするほどでもない疲れだった。

笑っていれば、それで済む程度のものだった。

そんな取るに足らないものを、葵は見過ごさなかった。

俺が笑ってあちこちを駆け回っている間も、こいつはずっと気にかけてくれていたのだ。


それが、どうしようもなく嬉しかった。


たぶん、このときだったのだと思う。

俺が、葵に恋をしたのは――。


両思いになりたいなんて、そんな図々しいことは微塵も思ってはいない。

この心地よい関係を壊したくない。

俺の感情を押し付けて、葵を困らせたくない。


だから、今のまま『一番仲のいい男友達』として、ずっと隣にいられればそれで十分だ。

それが、俺のたった一つの望みだった。



「――二人とも、何やってんの?」


ふと、一人の男が甘い香水を漂わせて歩み寄ってきた。

すれ違う女子生徒たちが思わず振り返っては吐息を漏らすほどの、ひどく整った端正な顔立ち。

冬の淡い日差しを透かす色素の薄い金髪。

その長い指先が弄ぶスマートフォンの画面には、先ほどからひっきりなしに女の子からのメッセージ通知が点滅している。


「伊織!」


葵がパッと顔を輝かせ、その男――葛町伊織(くずまちいおり)の名前を呼んだ。


伊織は俺の方をほんの一瞬だけ、まるで路傍の石でも確認するかのように冷ややかに一瞥すると、迷うことなく葵のすぐ隣へと腰を下ろした。

『二人とも』と声をかけてきた割に、その色素の薄い瞳には最初から葵の姿しか映っていない。

けれど、伊織のこうした態度は今に始まったことではなかった。

決まっていつも、こうなのだ。


「薄着だね、葵。そんなんじゃ風邪引くよ?」


「ええ? でも、マフラーしてるし……」


「寒がりのお前には全然足りないでしょ。ほら、これ着て」


普段の飄々とした、どこか人を食ったようなチャラい態度はどこへやら。

伊織は自分が羽織っていた上質な厚手のコートを惜しげもなく脱ぐと、躊躇いなく葵の華奢な肩へとふわりと掛けた。


「えっ、でも、これじゃ伊織が寒いでしょ……?」


「オレはいいの。葵が震えてるのを見る方が、ずっと嫌だから」


甘い毒を含んだような優しい声で囁きながら、大きなコートにすっぽりと包まれた葵の黒髪を、伊織の長い指が愛おしそうにゆっくりと撫でる。

普段は適当な女遊びを繰り返しているくせに、葵に対する扱いはいつもこうだ。


異常なほど過保護で、執拗なほどに甘い。


俺は、目の前で繰り広げられるその光景を、ただ黙って見つめていた。

先ほど自分が渡したミルクティーが、伊織の大きなコートの裾に隠れて見えなくなる。


派手で誰からも目を引く伊織と、誰にでも当たり障りなく振る舞う俺。

そして、控えめだけれど、誰よりも純粋で心優しい葵。


性格も、纏う空気も、普段のノリもまるで合わないというのに、俺たちはこうしていつも三人でいた。

いや、三人でいる、という言葉は正確じゃないかもしれない。

ただ、葵という唯一無二の光のすぐ両隣に、俺と伊織が勝手に居座り続けている。

そう表現した方が、きっとずっと正しいだろう。


「……わ、すごくあったかいね、これ。それに、伊織のいい匂いがする」


伊織に掛けられたコートの襟元をきゅっと引き寄せて、ふわりと笑う葵。

『いい匂い』とは、きっとあいつが普段から振りまいている香水の匂いだろう。

頭ではそう分かっているけれど、その無防備な言い方はあまりにも反則だった。


(くそ……羨ましい……!)


もし葵に、俺の服を着て『絢人のいい匂いがする』なんて言われたら、俺はその場で天に召されてしまうかもしれない。


――それにしても。


(……負けた……)


伊織の厚手のコートは、俺が渡したミルクティーなんかよりも、はるかに確実かつ全身で葵を温めている。

別に競うようなものではないと分かりつつも、ちっぽけな敗北感が俺を襲った。


「絢人? どうかした?」


黙りこくる俺を不思議に思ったらしい。

葵が小さな首を傾げ、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。


(……っ、かわいい……)


透き通るような白い肌に、風に揺れるサラサラの黒髪と、潤んだ大きな瞳。


そして何より、自分の身体よりもずっと大きなコートにすっぽりと埋もれている葵は、先ほど感じた悔しさなど一瞬で吹き飛んでしまうほどに、反則的に愛らしかった。


普段から小柄で華奢だとは思っていたけれど、こうして体格のいい伊織の服を羽織ると、その小ささがより一層際立つ。

だぼだぼの袖口からほんの少しだけ覗く指先も、ぶかぶかの襟元に埋もれてしまいそうな小さな顎も、すべてが庇護欲を掻き立ててやまない。


胸の奥がキュッと締め付けられ、熱い血流が一気に駆け巡る。

隣で微笑む葵の顔を、俺が熱に浮かされたようにじっと見つめていた、その時だった。


「……何、一人でニヤニヤしてんの?」


不意に、氷水でも浴びせられたかのような伊織の冷ややかな声が頭上から降ってきた。


ハッとして顔を上げると、葵のすぐそばに立つ伊織が、汚いものでも見るかのように呆れ果てた目でこちらを見下ろしている。


投げつけられた言葉の意味を、遅れて頭が理解する。

――どうやら俺は、目の前のあまりの可愛さに、無意識のうちにだらしなく口元を緩めてしまっていたらしい。


「い、いや、別に。なんでもねーよ」


動揺を誤魔化すように、慌てて視線を逸らす。

そんな俺の挙動を「ふーん」と鼻で笑うと、伊織は少しだけ身を屈め、葵には聞こえないほどの低いトーンでぼそりと呟いた。


「あんまりさあ、オレの葵を『いやらしい目』で見ないでくれない?」


背筋がヒュッと凍りつく。

まずい。今の俺は、そんなに露骨な目で葵を見てしまっていただろうか。

いや、そんなはずはない。

いつものように、ただ微笑ましく見ていただけのはずだ。


「っ、誰がいやらしい目だ。つーか、いつから葵がお前のものになったんだよ」


小声でムキになって言い返した俺に、伊織は微かに目を細めた。

そして、手元のスマートフォンに視線を落としたまま、氷点下の空気を孕んだ吐息を静かに漏らす。


「もう少し上手く隠したら? ……バレバレすぎ」


ドクン、と。

心臓が、肋骨を内側から叩くような嫌な音を立てて跳ねた。


俺は弾かれたように顔を上げた。

けれど伊織は、もはやこちらを見ようともせず、ただ退屈そうに親指で画面をスクロールしているだけだった。

いつも通りの気怠げな横顔。

なのに、鼓膜に残るその低い声には、隠しきれない苛立ちのようなものが確かに混じっていた気がした。


「えっと……二人とも、どうかした?」


俺たちの間に流れた不自然な沈黙に気づいたのか、葵が再びきょとんと目を瞬かせる。

すると伊織は、先ほどまでの刺々しい空気を瞬時に消し去り、驚くほど滑らかに甘い笑顔を作ってみせた。


「なんでもないよ。絢人が急にボーッとし出しただけ」


「あっ、わりぃ! 昨日ちょっと寝不足でさ!」


俺は背中を伝う嫌な冷や汗を必死に誤魔化すように、わざと大きな声で明るく笑い飛ばした。


『もう少し上手く隠したら? ……バレバレすぎ』


頭の中で、伊織の冷たい声が何度も反響する。

……まさか。

もしかして。


(……気づかれて、たのか……?)


やかましく鳴り響く心音を悟られないよう、俺はカラカラに乾いた喉の奥で、冷たい唾をごくりと飲み込んだ。

今、すぐそばで伊織がどんな顔をしているのか、俺はどうしても確かめることができなかった。

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