第1章 結婚から逃げたお嬢様
「お天道さまの機嫌もええ。今日も開店日和やわ」
表の道には人っ子一人居ない。それもそのはず、この七夕屋に辿り着けるのは強い願いか悩みを持った人だけ。
「——ご、ごめんくださいまし」
店主が開店準備を終え、店の中に入った時だった。若い女が店の戸を叩いた。
「わたくしを助けてください!もう耐えられませんの」
戸を開けると、見るからにお嬢様という装いをした少女が立っていた。店主は少女を店の中に招き入れる。
「そう、とりあえず中入り。ゆっくり話してくれんとわからんわ」
「…っ、分かりましたわ」
店主は顔色変えず、笑顔ひとつ浮かべず、冷たい印象が強い。その様子に流石のお嬢様、秦谷 凛子も怖気づいてしまう。本当に叶えてくれるかしら?と不安だけが大きくなる。
「…甘いもの好き?これあげるわ」
店主は不安げな顔をした凛子を見たからだろうか。気遣うように声をかけて、小さな菓子を差し出した。先ほどまで冷たい印象が強い人だが、その手つきだけは妙に優しく感じられた。
「あ、ありがとうございますわ。その、わたくし、あの…」
「…時間は十分にある。落ち着いて話し」
凛子が慌てて、要件を話そうとしたところ、店主がそれを静止した。
「君みたいな子は、僕んとこより適切な店があるんやけどね…」
「……?わたくし、あなたに文句はありませんわよ」
凛子は人を見る目には自信があった。目の前の店主は酷い人には見えなかった。微笑みこそはしてくれないが、自身を気遣ってくれる。その優しさだけで十分だ。
「そう…」
店主は考え込むような表情をした後、お茶入れてくるわと言い、席を外した。凛子は改めてお店なを見渡す。ようやく気持ちが落ち着いてきたように感じる。
「あら、あれは…」
凛子は目に止まった棚の端に丁寧に置かれた文が気になり、席を立った。近づいてみると、”陽樹へ”と書かれたその文は古そうでありながら、汚れが少ない。大事にされているようだ。凛子は文を手に取ろうとした。後ろから伸びた手が棚をバンッと音を立てるほど強く叩き、文を取った。
「——勝手に触らんといて」
凛子は怒らせてしまったと感じたが、店主の声色は変わらなかった。店主はそれを大事そうに手に持った。
「ご、ごめんなさい」
店主は何も言わず、文を持って行ってしまった。戻ってきた店主の手にはお茶があり、店主はそれを何も言わずに凛子の前に置いた。
「…本題に入ろうか」
店主は相変わらず落ち着いた様子だった。凛子は長居するのも悪い感じ、本題を話す。
「…その、わたくし、あなたなら助けてくれるとお伺いしましたの。助けてくださいまし」
「…わかった。その代わり、僕を過信し過ぎないこと、それが助ける条件」
店主は自信が無いのか、不安そうな表情を見せた。凛子は初めて表情を変えた店主に驚きつつ、話を続ける。
「わかりましたわ。その、わたくし、秦谷家の一人娘で来月結婚予定ですの。でも、結婚したくない。婚約破棄のお手伝いしてくださいな」
秦谷家はこの辺りで有名な商家だ。1番勢力が大きく、着物から食品まで幅広く、ほぼ全てのものを取り扱っている。
「……秦谷。商家の?」
「えぇ、ご存知でしたのね。なら、お分かりでしょう?わたくしは逃げれませんの。でも、嫌ですの」
「…何が嫌なんや?」
店主は迷いつつ、ひとつの質問を口にする。
「わかりませんわ…ただ、わたくし、家の道具にはなりたくないの。お父様やお母様みたいな恋愛結婚がしたいのです」
「いい夢やね。それを伝えたんか?」
店主の優しさが伝わってきて、凛子は少しほっとする。この人は私のことを馬鹿にしないと。
「伝えましたわ。でも…でも、そんな事は出来ないって。夢見るなって言うんですの…」
「……」
店主はなんて言うべきか迷っている様子だった。
「…わたくしのお父様、秦谷家当主はもう長くないのです。分かってはいるんですのよ。夫が必要なことくらい」
そう凛子は頭では分かっていた。もうわがままを言える幼い子供ではないことを。
「近頃は女性が家を継ぐ商家もあるやろ?結婚は必須では無くなってきているはずやけど…」
「…その、お恥ずかしながら、わたくし、商売の才が全くないのです。お父様はわたくしのみに託すと安心して逝けないと」
店主なりの提案だったようだが、まさかの事実を知り、黙り込んでしまった。
「……僕が商売教えてもええけど、それがお望みではないんやろ?」
「えぇ、わたくし、帳簿すら付けられないのです。でも、商売は好きですのよ。幼い頃からお父様の背中を見て育ったんですもの」
凛子は何度も出来るようになろうと努力はした。その努力は残念ながら実らなかったが。
凛子は今にも泣き出しそうな顔をした。勿論、当主だって最初から無理やり結婚させようとさせていた訳ではなかった。だが、才が無い。諦めるしか無かった。
「…婚約者ことは苦手?」
「……嫌いではありませんわ」
凛子は少し迷ってからそう答えた。頭に浮かぶのは優しい笑顔を浮かべた婚約者だった。
「……」
「…その、優しい人ですのよ。でも、誰にでも優しいんですの。わたくしだけではありませんわ」
近づいてくる人たち、全員に優しく笑顔を向ける姿も思い出してしまう。その姿を見た時、嗚呼、この人にはわたくしだけではないのねと感じてしまった。
「わたくし、わがままですの。子供じゃないのに」
「…それを我儘やと思えへん……少なくとも僕は」
店主そう言ったあと、バツが悪そうに視線を逸らした。店主なりに慰めてくれているようだった。
「わたくし、もうどうしたらいいの…」
「……なら、全てから逃げてしまえばいい。君がそうしたいなら手伝うで」
店主なりのいちばんの提案だった。これ以上、かける言葉は見つからない。
「…出来ますの?…いえ、わたくしには出来ませんわ」
彼女は真にお嬢様だった。自分のわがままだけで、家を潰すわけには行かない。
「わたくし、お父様とお母様のこと大好きですの。おふたりに迷惑はかけられませんわ」
そう言い、頭には2人の顔が浮かんでいた。今日は行き先を告げずに家を出てきてしまったきっと心配しているだろう。凛子は急にふたりに会いたくなった。
「……」
「あの、わたくし今日はもう帰りますわ」
凛子は荷物を持ち、立ち上がる。その顔には諦めの表情が浮かんでいた。店主は穏やかに声をかけた。
「そう、気ぃつけて帰り」
「引き留めてくれませんの?」
凛子は涙を浮かべた目で店主を見る。
「…君はこれ以上僕に何も求めてへんやろ?」
「……話を聞いてくれたこと、感謝しますわ」
そう言い、凛子は七夕屋を出ていった。店主は誰も居なくなった椅子を見て溜息をつき、受話器を手に取った。
「——はい、七夕屋江戸支店です」
受話器の向こうからは澄んだ女性の声が聞こえる。
「堺店主や」
「久しぶりね。どうしたの?」
「…なぁ、また力を貸して欲しい。助けてくへん?ああいう子、あかんわ」
堺店主の顔には悔しさが滲む。自分の客には皆笑顔にする。それを叶えるのはかなり難しい。
「あら、珍しいわね。良いわ、手を貸してあげる」
「…ありがとう」
先程までの堺店主からは想像つかないほどホッとしたような優しい声だった。
「でも、どうして、そんなに避けるのよ。私は貴方に向いていると思うんだけどね、ああいう子達の相談相手」
「……」
堺店主は何も言わない。ああいう澄んだ考え方をしている人間に関わると要らないことを思い出してしまう。
「まぁいいわ。私に任せてちょうだい。貸一つだからね」
「勿論」
ガチャン。電話が切れる。相手は長く話すつもりはなかったようだ。堺店主は足早に七夕屋に閉店の看板を立てて、店を出ていった。




