第1話 凍える令嬢と、退屈な白龍
冬の夜明け前。王都でも有数の権勢を誇るエルフォード公爵邸の豪奢な大広間は、ただ息を吸い込むだけで肺の奥が薄い氷の刃で切り裂かれるように冷え切っていた。
私は、向こう側が透けそうなほど擦り切れた薄い麻布の衣服をきつく掻き合わせ、氷のように冷たい大理石の床に正座させられていた。ろくな食事も与えられていない体は芯から凍え、わずかな隙間風が吹き込むだけで指先から感覚が奪われていく。
私の目の前には、血のように赤いワインの染みと、粉々に砕け散った高価なクリスタルグラスの破片が無数に散乱していた。
「本当に目障りな欠陥品。お前には雑巾を使うことすらもったいないわ。素手で拾い集めなさいな」
頭上から降ってくるのは、鈴を転がすような愛らしい、けれど酷く残酷な声。
豪奢なフリルがあしらわれたドレスを纏う義妹のセリアだった。輝くような金髪と高い魔力を持つ彼女は、公爵家の至宝として父親からも使用人からも愛されている。対して、前妻の長女として生を受けながら、私には貴族にとって絶対の価値である『魔力』が一切備わっていなかった。
魔力がないというただそれだけの理由で、私は母親が亡くなってからこの十年間、使用人以下の存在として日の当たらない地下牢で生かされてきたのだ。
「……はい、セリアお姉様」
逆らえば、さらなる理不尽な罰が待っている。私は痛覚のない人形のように表情を消し、素手で鋭いガラスの破片を拾い集め始めた。
その時。セリアの硬いヒールの踵が、私の手の甲を力任せに踏みにじった。
「っ……!」
「ああっ、ごめんなさい! 魔力を持たない虫けらなんて、床の模様と同化して見えなかったわ」
ギリギリと、あえて体重を乗せてヒールが捻られる。
栄養のない薄い皮膚が容易く裂け、鋭利なガラスの破片が深く肉に食い込んだ。鋭い激痛に目の前が白く明滅し、傷口から温かい血が冷たい大理石へと滴り落ちる。
それでも、私は決して声を上げなかった。ここで無様に泣き叫び、許しを請うて命乞いをすれば、彼女の歪んだ自尊心をさらに満たして喜ばせるだけだ。私からすべてを奪い、尊厳を踏みにじり続けたこの家で、私に唯一残されたのは「公爵令嬢としての矜持」という、目に見えない誇りだけだった。
「……朝から不快な空気が漂っていると思えば。セリア、こんなゴミに構うことはない。お前の美しいドレスが汚れる」
そこに、重厚な足音と共に父親である公爵が現れた。
彼は愛娘であるセリアを優しく庇うように背後に隠すと、大理石の床に血を流して蹲る私を見下ろし、まるで道端の汚物でも見るような目を向けた。実の娘に対する愛情など、微塵も存在しない冷酷な眼差しだ。
「ちょうどいい。今日、王都から監査の騎士団が来る。我が家の帳簿の不正を、すべてこの呪い子の仕業ということにして、今のうちに『処刑の森』へ捨ててこい。私の屋敷を、これ以上その忌まわしい血で汚すな」
公爵のその冷酷な一言で、私の運命はあっけなく決まった。
***
私は私兵たちに引きずられ、真冬の猛吹雪の中を馬車の後方に繋がれて歩かされた。
足には靴すらなく、一歩踏み出すたびに凍てつく泥が皮膚を裂く。たどり着いたのは、光の届かない鬱蒼とした木々が連なる『処刑の森』だった。公爵家に逆らった者や、不都合な真実を知る者が秘密裏に処理される、決して生きては出られない絶望の場所だ。
私兵は私を冷たい泥濘の中に無造作に放り投げると、ぬらりと光る長剣を抜き放った。
頬を打つ氷雨が、傷だらけで凍えた体に容赦なく染み込んでいく。もはや指先ひとつ動かす感覚すらない。
「魔力なしの欠陥品め。公爵家の身代わりとして、ここで死ね」
無慈悲な宣告と共に、私兵が剣を高く振り上げた。
逃げる気力も、命乞いをする体力も、私にはもう残されていない。
これで、終わる。痛くて、寒くて、ただ息をすることすら許されず、誰の記憶にも残ることのない私の人生が、ようやく終わってくれるのだ。
(……せめて、死ぬ時くらいは)
惨めに泣き喚くことだけは、したくない。
私は、泥まみれの両手をそっと胸の前で組み合わせ、空虚な微笑みを浮かべて静かに目を閉じた。
――しかし。
いつまで経っても、私の首を断ち切る鋭い痛みは訪れなかった。
「……おや。俺、なんで手ぇ出しちゃったんだろうねぇ」
頭上から、ひどく気怠げで、甘く柔らかな声が降ってきた。
恐る恐る目を開けると。私の首を刎ねようとしていた私兵の長剣を、いつの間にか現れた『見知らぬ男』が、たった二本の指でつまんで止めていたのだ。
「な、なんだお前は……!?」
私兵が驚愕の声を上げるのも無理はない。
その男は、この薄汚れた暗い処刑の森にはあまりにも不釣り合いだった。
流れるような黄金の髪に、深い湖のように澄み切ったエメラルドの瞳。白い肌は自ら発光しているかのように眩く、彫像のように完璧で、人間離れした恐ろしいほどの美しさを持っていた。
王国を守護する最強の白龍、ルシアン・アステリア。
彼は、面倒な雌竜たちから執拗に受ける熱烈な茶会の誘いから逃れるため、たまたまこの処刑の森の大樹の上で昼寝をしていただけだった。
すべてにおいて無関心。人間の生死になど全く興味はない。誰が誰を憎み、誰を殺そうと、彼にとっては世界中でありふれた、ひどく退屈な出来事に過ぎないはずだった。
だが、剣が振り下ろされる瞬間。
泥に塗れながらも、一切の命乞いをせず、ただ諦めたように気高く微笑んで死を受け入れようとする少女の姿を見た時。
『――おや。あんな風に笑う子が消えてしまうのは、少し惜しいねぇ』
何事にも執着しない彼が、生まれて初めて、他者の存在に強い興味を惹かれた瞬間だった。彼自身の理屈のない直感だけで、気がつけば木から飛び降り、軽々と剣を止めていたのだ。
「お前、エルフォード公爵家に逆らう気か……! どけっ!」
「……うるさいなぁ。せっかく気持ちよく寝てたのに」
ルシアンは退屈そうにふっと息を吐くと、指先に少しだけ力を込めた。
パキィィィンッ! という甲高い音と共に、強固な鋼の長剣が、まるで薄い飴細工のように粉々に砕け散る。
「は……?」
「もういいや。君たち、俺の視界から消えておくれ」
ルシアンが面倒くさそうに片手を軽く振った瞬間、目に見えない莫大な突風が巻き起こった。大木すら根こそぎ揺らすほどの暴風に、私兵たちは悲鳴を上げる間もなく、遥か彼方の暗闇へと吹き飛ばされて跡形もなく消え去った。
誰もいなくなった森の中で、ルシアンは泥水に倒れ伏す私の前に歩み寄った。
そして、私の泥だらけの顔を不思議そうに見下ろした。
「……」
「あ、あの……」
「君、面白いね。普通、あんな風に笑わないだろう? 命乞いをするか、絶望して泣き叫ぶのが普通だ。……うん、俺の退屈しのぎに付き合っておくれ」
彼はひどく飄々とした態度のまま、私の冷え切った体を、まるで羽毛でも扱うように軽々と抱き上げた。
「えっ……? あっ、血が……私の血と泥で、貴方様の美しいお洋服が汚れてしまいます……!」
私が慌てて身をよじろうとすると、ルシアンは「んー?」と不思議そうに小首を傾げた。
「別にいいよ、そんなの。服なんてどうでもいい。それより君、すっごく冷たいね。このままじゃ死んじゃうよ」
「でも……っ」
「俺はルシアン。君を、俺の住処に連れて行く。……なんとなく、君をここに置いてくの、嫌だし」
すべてが彼の大人の気まぐれだった。
彼が私の体を少しだけ引き寄せると、彼から漂うふんわりとした温かい熱が、凍えきっていた私の体を優しく包み込んでいく。生まれて初めて触れた、他者の純粋な温もり。
私は全身が痛む中で、彼の柔らかな外套に顔を埋めながら、ゆっくりと安心に身を委ね、深い意識の底へと落ちていった。
***
その数時間後。エルフォード公爵邸は、かつてないほどの恐慌状態に陥っていた。
「ほ、本当なのか!? あの呪い子を、伝説の白龍様が連れ去ったと!?」
「は、はい……! 森に恐ろしい突風と共に現れ、令嬢を大事そうに抱きかかえて空へ……っ!」
ボロボロになって逃げ帰ってきた私兵の報告に、公爵は顔面を蒼白にしてへたり込んだ。
白龍は、この国の王室すらもひれ伏す絶対的な守護竜だ。もしも、あの娘を不当に虐げていたことが白龍の怒りを買い、一族に報復されるようなことになれば、公爵家など一たまりもない。国ごと消し飛ばされてもおかしくはないのだ。
「お、お父様……私たち、白龍様に殺されるの……?」
セリアが震える声で公爵の腕に縋り付く。
公爵はまともに返事をすることもできず、ただ血の気の引いた顔で、大理石の床にへたり込むことしかできなかった。




