いつまでもあなたを
初恋を定義するなら、それはあのエレベーターの匂いだ。
引っ越してきた彼は、背が高く、誰に対しても優しく、運動神経までいい。完璧すぎて遠い存在のはずだった彼が、同じマンションの「一つ上の階」に住んでいるという事実が、私にだけ「エレベーターの中の沈黙」という特権をくれた。
私が住む十階と、彼が住む十一階。
エントランスで一緒になると、どちらかが先に「十」と「十一」のボタンを流れるように押す。それがいつの間にか、私たちだけの暗黙のルールになっていた。指先がボタンに触れるたび、私たちの住む世界が物理的につがっているような、そんな錯覚に陥る。
ある日のことだった。
エレベーターが不意に大きく揺れたのか、あるいは私がただ躓いただけだったのか。バランスを崩した私の体は、彼のすぐ隣にある壁へと倒れ込んだ。
ドサッ、という鈍い音。
勢い余って、私は彼の肩をすり抜けるようにして、背後の壁を両手で突いてしまった。図らずも、彼を「壁ドン」するような格好になってしまったのだ。
心臓の音が、エレベーターの駆動音をかき消すほどに響く。
目の前には、彼の細身の身体。見上げれば、驚きで丸くなった彼の瞳。至近距離で混じり合う、彼が持っていたスポーツバッグの革の匂いと、微かな柔軟剤の香り。
「……あ、ごめん、なさい」
顔から火が出るほど熱いとは、まさにこのことだと思った。彼は一瞬固まったあと、ふっと柔らかく笑った。
「びっくりした。お前意外と力強いんだな」
その冗談めかした一言が、限界まで張り詰めた空気をふわりと解いた。けれど、私の指先には壁の冷たさと、彼との間に流れた「熱」が、消えない火傷のように残った。
席替えで隣になったのは、運命だと思いたかった。
仲の良い女子と同じ班になれるかどうかが死活問題だった教室で、彼が隣に座った瞬間、世界の色が鮮やかになった。私が口にする他愛もない冗談に、彼は誰よりも声を上げて笑った。いつの間にか、私たちは「クラスで一番仲の良い友達」になっていた。
けれど、彼の輝きは私だけのものじゃなかった。
教室の片隅で起きた、教師へのいじめ。誰もが関わりを避ける中、彼は迷わず言った。「やめなよ、かっこ悪いよ」。
その正義感に、私は自分の臆病さを突きつけられ、同時に、抗いようもなく彼に溺れていった。
「俺、好きな人できたかも」
帰り道、放たれた言葉は、私の胸を鋭く切り裂いた。
私を見て。私じゃないの? 叫びたい声を飲み込んで、私は精一杯の笑顔を作った。
「おめでとう」
それからも、彼は私の良き理解者であり続けた。誰かと揉めれば飛んできて話を聞き、私を笑わせようとする。その優しさが、今は何よりも残酷だった。
「……好きだよ」
ある夜、我慢できずにこぼれた本音。
「もちろん、友達としてね」
慌てて付け足した私の予防線に、彼は心底ほっとした顔で言った。
「だよな、安心した」
その瞬間、私の中にあった熱は、行き場を失って透明な痛みに変わった。安心したってなんだ。私はこんなにも、あなたのことが愛おしくて苦しいのに。
卒業を間近に控えた冬の夜、彼から電話があった。
家族のこと、将来のこと。誰にも言えない弱音を、彼は私に預けてくれた。「俺にとってお前は特別だ」と言われているようで、私はそれだけで救われた気がした。
そして、あの日。
並んで歩く帰り道、彼がいきなり立ち止まった。真剣な眼差しが私の瞳を捉える。私の呼吸が止まる。
彼は無言のまま、私の髪に指を伸ばした。
指先の確かな感触。髪がわずかに引っ張られる感覚。数秒間の、永遠のような沈黙。街灯の下、彼の瞳の中に、泣き出しそうな私が映っている。
(好きだよ、と言って)
祈るような私の願いは、夕闇に吸い込まれていった。彼は何も言わずに手を離し、また歩き出した。あの一瞬の熱量は、幻だったのだろうか。
卒業後、連絡は次第に途絶えた。一年に満たない歳月の中で、お互いの声は遠ざかっていった。
けれど、今でも夢を見る。
十階と十一階。あの狭い箱の中で、何度も交互に押したボタンの感触。間違えて突いてしまった壁の冷たさと、彼の笑い声。
私の隣は、今もずっと、空いたままだ。
十一階のボタンを押す人は、もうここにはいない。私の時間は、あの帰り道の沈黙の中に閉じ込められたままでいる。何度夢に出てきたか分からないあなた。あなたの隣は誰がいますか?




