◇13 織草葵
◇13
音が聞こえた。
小さな電子音が、規則的に鳴っている。
それから、硬い床を転がる車輪の音と、靴の底が床を擦る音……すぐに遠ざかっていった。
身体があった。
指が滑らかな布に触れていた。指だけじゃなく、後頭部や背中、腰が同じものに支えられている。仰向けに寝ているのだとわかった。
目を開ける。ぼんやりとした景色の焦点が合い、白い天井と四角い照明が目に入った。照明の周りには、細かな模様の入った板が並んでいる。板の数を数えるだけで、しばらく時間を潰せそうだ。
……ええと、つまり、こういうとき言うべきなのはたしか……。
「……知らない天井だねぇ」
「ボケる元気はあるようで良かったわ、馬鹿姉さん」
声のする方へ顔を向ける。それだけの動作をするのに、妙に時間を要した。
妹が、ベッドの脇に置かれた椅子に座っていた。
背筋はまっすぐで、膝の上には握った拳が二つ並んでいる。睨むように細めた目つきが、私を刺していた。
「……椛か」
「何その不満そうな反応。私、命の恩人なんだけど」
拳が、膝の上で僅かに動いた。
「……みたいだね。手間をかけさせたようだ」
上半身を起こそうとするが、腕に力が入らない。肘が笑って、上体を浮かせた途端に、枕に落ちた。たったそれだけの動作だけで、目の端が暗く滲んで、耳の奥から風の音がした。自分のものじゃないように、身体が重たい。
右腕を見る。肘の内側から細い管が伸びていた。管の先は椛とは反対側、ベッド脇のスタンドに吊られた透明な袋に繋がっていた。
「まだ起きないで」椛が言う。「血が足りてないの。心当たり、あるでしょ」
「ああ……」ぼうっとする頭を動かして、状況を整理しようとしたが、記憶がうまく繋がらない。
「ここは……心宮総合病院かい?」
「当たり。よくわかったわね、入院したことあるの?」
「いや、事務所を構える際に……〝こっちの事情〟に詳しい医者がいる街にしようと思ったんだ。……ここの院長は、話がわかる人だったろう?」
「なるほどね……だからか」
「帷ちゃんを拾った時も、色々世話に——そうだ、帷ちゃんは!」
脳に激痛。
呻き声が自然と漏れる。
「だから急に動かないでって。普通なら、まだ眠ってなきゃいけないんだから」
「どれくらい……寝てた……」
「一晩。昨日の午後から、今まで」
椛が窓に向かって軽く顎を振る。カーテンの隙間から、薄い光が差していた。
……朝か。
駅前で戦ってから、半日以上が経過している。
たしか、魔術師に撃たれて、それから——。
「……何があった」
「それはこっちの台詞。事務所に行ったら、扉の前に姉さんが血塗れで倒れてたの。で、すぐに救急車を呼んだ。だから、それ以前のことは知らない」
「私が……ハートキャッチに?」
「ええ。不思議だったのは、出血してるのに——姉さんの血ね——身体のどこにも〝傷口〟がなかったこと。意識はなかったけど、危険な状態じゃなかった。姉さんの治癒術、いつの間にそんな綺麗になったの?」
「いや……」
脇腹に指を這わせる。なんの違和感もなく、皮膚の感触だけがあった。ついでに剣鉈で斬られたはずの鎖骨も確かめるが、そこもなんともない。
まるで……帷ちゃんみたいだ。
意識を失う直前まで、自分と戦っていた少女の姿を思い浮かべる。
記憶の中にいる彼女の姿、色の薄い顔から血を垂らし、薄く透き通った髪は薄汚れていた。
そして表情は、私を——「——はい、今度は姉さんの番」
「ん?」
「言ったでしょ、『何が』はこっちの台詞だって。まぁ、帷と色々あったんだろうけど……。とにかく、私と別れてから今までのこと、一から全部説明して」
「……それは」
「言っておくけど、誤魔化しや隠し事はなし。100%、きっちり喋りなさい。これは」
「当主としての命令、かい?」
「違う」即座に、椛が否定する。「帷の親代わりとして、知りたいの」
「……」
「拾ったのは姉さんかもしれない……けど私だって、こうして関わった以上、帷を赤の他人だなんて思ってない。姉さんと同じように、あの子を見守りたいの」
「あの子が……花の巫女だから」
「そんなの、知ったこっちゃないわ」
椛が身を乗り出して、ベッドの縁に両手をついた。私よりも大きな瞳が、私をじっと捉えていた。
「始祖様の心臓? だから? そんなこと、ハナからどうでもいい。大事なのは、織草帷が間違いなく——〝うちらの子〟だってことでしょう? あの子が織草として生きるかどうか、それはあの子がこれから決めること。私はどっちでもいいし、どっちを選んだとしても、その道を支える覚悟がある……命を懸けてもね」
強い言葉だった。
「帷への気持ちなら、私、姉さんにだって負けてない。あの子がもっと大きくなって、自分でちゃんと道を選ぶまで、私はあの子から離れないから」
まっすぐな決意の目。
迷いも、照れもない。
椛の目から、視線を外して、少しだけ息を吐く。
「……そうか」
椛が帷ちゃんについて何かを言うのを、ほとんど聞いたことはない。気にかけているのは知っていたけど、ただそれは、心臓を預かる義務だとか、化心退治の采配だとか——そういう、当主としての使命感からくるものだと思っていた。
いや……思い込もうとしていた。
『椛は椛自身に、母様の罪を押し付けようとしている』……だったらその必要はないのだと、織草の重圧の内、せめて帷ちゃんの分くらいは、私が預かっていくと、言いたかった。
それはもちろん、たった一人の姉として————否。
否だ。
違う。
そうじゃない。
そんな立派なもんじゃない。
私は妹を〝責任〟から庇うつもりで——その名目で、帷ちゃんを自分の側に囲っていただけだ。
織草のしがらみを全部押し付けて出て行った癖に、それでも何かひとつくらいは、自分の手元に置いておきたかった。それが母様の形見なら、尚更。
要は、つまらない意地だ。
ああ——責任だなんて、見当違いも甚だしい。
私は、帷ちゃんをただ、妹に取られたくなかったのだ。母様の意思を独り占めして、安い優越感に浸っていた。そんなものに意味がないことは、とっくにわかっていたはずなのに。
けれど今、ようやく……椛の話が聞けた。
椛の意思を知った。
その中に、義務感も、罪滅ぼしもなかった。
椛と同じ子を見ていたのに、椛のことを見ていなかった。
……なるほど、これは叶わないわけだ。
我ながら、なんと情けない。
無駄に張り合って、勝手に背負って——小さな女の子一人の重みにすら耐えられず、挙句このザマだ。
で、あれば。
「……助かるよ」
半分くらい、分けてやってもいい。
「ところで、『うちらの子』って表現は……なんか、ちょっとむず痒いというか……居心地が悪いというか……え、椛って、私のこと」
「言葉の! 綾!」




